最愛の君に最悪の思い出を

綺麗な手だと思った。

中学に上がり、最初の数日はお知らせのプリントが何枚も列ごとに送られて配られる。前の席から僕にプリントを送ってくれる彼女の指は色白で繊細な指をしていた。ただ普通の女の子よりは指の関節の部分が浮き出ていたかな。

本人曰く、小さいころからピアノをやっていたから太くなってしまったらしい。彼女は恥ずかしいと言っていたけれど僕は綺麗だと思った。努力している人の手は美しい。僕がそう言ったら不二君の手はもっと綺麗だね、と言ってくれたね。

君の手が好きだった。
君の声が好きだった。
君の笑顔が好きだった。
君の考え方が好きだった。

君のすべてが好きだった。

だからこそ気付いてしまった。
君が誰を想っていて、君が誰を好きなのかを。

U17の合宿から世界大会を経て帰ってきた僕に君は一番に駆け寄ってくれたね。でもそれは僕に「おかえり」というためじゃなかった。君は一番に手塚の事を聞いてきた。そのままドイツへの長期留学が決まったと伝えれば、君は泣いてしまったね。でもその泣き顔も可愛いと思ってしまった僕はちょっと変かな?泣き崩れそうになった君を僕が支えられたのは役得だったよ。

無理に笑顔をつくる君のそばにいて、君の苦しみを誰よりも理解するふりをして、手塚のことを考える暇などないくらい僕は君に尽くした。優しい君は僕の気持ちを無下にはできない。それを知っていたから中学の卒業式に僕は告白した。一瞬、君の顔が歪んだのはすぐに分かったよ。だから僕は悲しそうな顔をした。そうすれば君は断れないと思ったから。
そして君は僕の告白を受け入れてくれた。嬉しかった。

例えそれが本心でなくて偽りであっても。
君の心を僕でいっぱいにしてあげる自信があったから。





10月7日——この日は必ず丸一日彼女と過ごす。今日は土曜日で、高校3年のこの時期に遊んでいるわけにはいかないのだけれど息抜きしようかってことで久しぶりのデートをした。水族館に行ってお昼を食べて今は彼女の買い物に付き合っている。

「何か欲しいものでもあるの?」
「そろそろ寒くなってきたから新しいマフラーを買おうかと思って」

そういいながら雑貨屋や服屋を何件ものぞいて見比べている。姉さんもそうだけど、女の人は何を買うか決めてからの方が長い。素材とか肌触りとか色とかデザインとか、そんなに悩んでよく疲れないなぁと思う。でも買い物に付き合うのは嫌いじゃない。なぜなら彼女の色々な表情をじっと見ていても怒られないのだから。

「周助はどっちの色がいいと思う?」
「え?」

彼女の横顔を見つめていた僕に、両手に二色のマフラーを持ってそう聞いてきた。彼女の事を見ていたのに会話を聞いてなかった僕はすぐに返事ができなかった。それに気付いた彼女は心配そうに僕を見る。

「ごめんね。もしかして疲れちゃった?」
「そうだね。君の横顔見てたらドキドキしすぎて疲れたかもね」
「な、なに言ってるの!」

顔を真っ赤にして怒る彼女。このやり取りは数えきれないくらいしているのに、君は毎回おもしろいくらいに引っ掛かってくれるね。そんな君の表情が見たくて、僕はつい意地悪をしてしまうんだ。

「ごめんごめん。そのふたつで迷ってるの?」
「そう。どっちの色にしようかなって」

彼女の手にはベージュと淡いブルーのマフラーが握られている。デザインは彼女らしくとてもシンプルで、けれど肌触りは良さそうだった。

「僕はベージュが似合うと思うけど」

彼女の手からベージュのマフラーを取り上げて、首に巻き付ける。君の柔らかい髪質にはやっぱり優しい色合いのベージュが似合う。

「ほら。似合うと思わない?」

近くにあった鏡の前に移動し、僕は彼女の髪も整えてその姿を映した。僕が彼女の髪に触った時点でもう少しドキドキしてくれるかなとも思ったけれど、そんなこともなく彼女は鏡の中のマフラーと実物を交互に見比べている。付き合ってから随分経つけれど、相変わらず僕の想いは一方通行のようだ。

「じゃあベージュにしようかな」
「僕が選んだほうでいいの?君は青が好きだよね」
「え?そんなことはないけど……」

そういえば彼女の好きな色なんて聞いたことがなかった。でもペンケースもハンカチも時折かける眼鏡の眼鏡ケースも青となればそれが好きな色だと思っていた。僕が言うと彼女は一瞬顔を歪めた。

「ペンケースとかは貰ったもので……あ、お会計してくるね」

手塚に貰ったんだね、という僕の言葉を聞かないように彼女は首に巻かれたマフラーをはずしてレジへと向かった。
手塚の好きな色も青だった。奇しくも今日は手塚の誕生日。彼女にそのことを思い出させたくなかったのにな。だから毎年毎年僕は今日を君と過ごすんだ。

「おまたせ」

先ほどの表情を上手く隠して僕の前にいつも通りの可愛い彼女が帰ってくる。買ったばかりのマフラーが入った紙袋を彼女の手から外して、その手に自分の指を絡ませた。

「もう片方の手は空いてるから自分で持つよ」
「これくらい持たせてよ。ねぇ、今から僕の家来ない?家族の帰りが遅いんだ」

彼女の頬がほんのりと赤くなった。僕が彼女を家に呼んだことは今までもあった。その時の事をきっと思い出しているんだと思う。だから僕はますます嬉しくなって彼女の耳元に口を寄せた。

「ね?いいでしょ」
「うん……」

彼女の手を力強く握りしめて、歩く速度を速めた。
手塚の事なんか考えられないくらい僕でいっぱいにしてあげる。心も体も。
もう負けるわけにはいかないんだ。手塚は全てを手に入れているだろう?
彼女くらい僕に譲ってくれてもいいじゃない。



手塚の事は尊敬している。大切な仲間で、友達で、僕の道標だった。
中二の夏、手塚が初めて僕に恋愛の相談をしてきたときは驚いたよ。表情を変えずに、最近同じ委員の子を見ると動悸がするって言って。その時はその相手が彼女だなんて分からなかったから僕は手塚の事を応援したよ。

でもある日、手塚のクラスに教科書を借りに行ったときにその相手が彼女だと知った。言わなくても分かったよ。手塚のあんな表情を僕は初めてみた。そしてその時彼女の気持ちも知ってしまった。少し照れくさそうに、恥ずかしそうに、でも楽しそうに話す君。僕が先に好きになったのにね。彼女が一番幸せになる選択を僕がさせてあげれればよかったんだけど、それは出来なかった。だって僕は君が思っているよりも嫉妬深くて独占欲が強くて自己中心的で、そして優しさなんて持ち合わせていないんだから。





ブラームスの二つのラプソディー。君はこの曲が好きで放課後よく弾いてるね。音楽大学の受験にはピアノの科目もあるから最近は特に放課後も練習してる。君の邪魔にならないように音楽室前の廊下で聞いてるこの時間が僕は好きだ。ただ寒いのはちょっと嫌だけどね。

「不二、まだ帰ってなかったのか?」
「先生」

不意に担任から声が掛けられた。この時期は僕たち受験生よりも先生方の方が疲れた顔をしている。僕たちの大学進学先が、これからの青春学園の入学者数に反映されるとなればその責任が乗るのだから当然のことかもしれない。

「彼女はこんな遅くまで練習してるのか。まだ先の事なのに、ドイツ留学まで考えているんだから将来が楽しみだな」
「え?」



「周助?もしかして待っててくれたの?廊下寒かったよね。大丈夫だった?」

いつもの可愛い彼女。でも君はずっと僕のそばにはいてくれないんだね。結婚とか、そこまで先のことはまだ考えられない。けれど平凡な毎日を君と一緒に過ごせるなら全てを君に捧げる覚悟くらいはあるんだよ。

「どうしたの?」
「君は、手塚に会いにドイツに行くの?」

今までずっと手塚の名前を言うのを避けていた。それは彼女に手塚を思い出させたくなかったからじゃない。彼女に悲しそうな顔をさせたくなかったからじゃない。
僕がその名を口にすることで、君は彼の元へ行ってしまうと思ったからだ。

「先生から聞いたの?」
「良い成績で入学すれば優先的にドイツへ音楽留学をさせてくれるんでしょ?」
「………まだどうなるか分からなかったから周助には話さなかったの。それと手塚君は関係ないよ」
「随分とドイツにこだわってたみたいだけど?」
「元から興味があった場所だから……」
「誰のおかげで?」

なんで今日の僕はこんなに意地悪なんだろうね。なんで今日の僕は君から彼の名を聞きたいと思うのだろうね。

「君はさ、僕のこと好き?」
「それは…………好きだよ」
「即答はできないんだね。今日は別で帰ろうか」

酷いことを言った自覚はある。その言葉が彼女を傷つけるのだって分かっていた。
僕の横を走り抜けた君は酷く悲しい顔をして、今までのどんな表情よりも僕の脳裏に焼き付いた。

廊下を走る君の首元ではあの時買ったマフラーが揺れていた。でもそれはベージュじゃなくて、日が暮れた夜の青がそれを染めていた。
深い深い青が君を呑み込むように廊下の奥へと溶けていって、僕の前から姿を消した。





グラウンドから別れを惜しむ声がいくつも聞こえる。今日は僕たちの卒業式。
僕は都内の大学へ、彼女は第一志望の音楽大学へと無事に進学が決まった。そしてその成績はトップだったということも、職員室で自慢げに話している担任から聞いてしまったことだ。

「ごめんね。待った?」
「ううん。今来たとこ。話ってなに?」
「えっと……」

ここは三年前に僕が君に告白した場所。そして今日、同じこの場所で君からの呼び出しが来た。まだ寒いのに僕が選んだマフラーはしていないんだね。
今の君の表情。緊張しているとき親指を掌の中に収めて強く握る癖、君はまだ気付いていないんだったね。震えている唇。あぁ、君が今からなんて言うのか僕には分かっちゃった。

「周助、私たち別れよう」
「どうして?僕は今でも君の事が好きだよ」

顔色ひとつ変えないで僕はそう言った。なんで僕より悲しそうな顔を君がしてるのかな。

「進学先も違うから、自信がなくて……」
「でもお互い都内じゃないか」
「ピアノの練習もあるし時間作るのも難しいかなって……」
「毎日連絡が取れなくても、例え月に一度しか会えなくなったとしても僕は君を好きでいる自信があるよ」
「周助……」

このまま言葉を続ければ、きっと君は別れようと言ったことを撤回する。でも、例えそうして君を繋ぎ止めたとしても君の中の一番に僕はなれないんだろうね。
初めから僕は負け試合をしてたんだ。結局、手塚に僕は勝てないんだ。

どうせ勝てないのなら、どうせ一番になれないのなら、せめて僕の存在を君の心に刻んであげる。

「もう言い訳しなくていいよ。僕のことなんて好きじゃなかったんでしょ?僕といれば手塚とつながりを持てるから付き合ってくれていただけ」
「そんなことはっ……」
「どんなに君に触れても、どんなに君を抱きしめても君は僕を見ていなかった。本当は手塚にそうされたかったんでしょ」
「違うよ!確かに手塚君を好きな時期はあったけど、私は周助の事が好きだった」
「別に手塚の事好きでもいいよ。君の事はただ見た目がタイプだから付き合っただけだから」
「え?」
「手、足、胸、声、顔、匂い。君の中身なんかどうでも良かった。もう付き合わなくていいから、体だけの関係でも……」

左頬に激痛。パンッという音が空に響いて後から耳に届いた。
目の前にいる彼女は、初めて下着を脱がせた時よりも真っ赤な顔で、無理やり連れて行ったお化け屋敷に入った時よりも大粒の涙を流して、僕を睨んでいた。

「最低。もう二度と会いたくない」



人は嬉しいことよりも嫌な思い出の方を強く記憶する。

優しい君が、声を荒げることなんてない君が、あんな表情で僕に平手打ちをするなんてね。今までも、これから先もきっとそんなことをさせる人間は君の前に現れることはないだろう。

でも君はやっぱり優しいから、叩いちゃってごめんねって後から連絡してくるんだろうね。だから僕は連絡先を消した。
いつまでも返事が返ってこない僕に罪悪感を抱きながら君は生きていけばいい。
それは君の心に僕がずっと居座る条件でもあるのだから。





ドイツで彼女に再会したと、今までまともに連絡なんか取っていなかった手塚から知らせが来た。手塚は、きっと僕らが付き合っていたことを知らない。彼女が言っていなければの話だけどね。

やっぱり敵うはずがなかったと、僕が再度実感したのは手塚から結婚式の招待状が届いた時。もちろん出席の方に丸を付けた。

結婚式の日、僕を見た君はどんな顔をするのかな。
泣くのかな?
喜ぶのかな?
怒るのかな?
また平手打ちを食らわせてくれるのかな。


君の心の真ん中に居るのは僕だ。一生ね。


明日、君のドレス姿をカメラに収めて僕はそのことを形として残す。
君にもちゃんと送ってあげるね。

それを見た時の顔を思い浮かべて、またきっと僕は涙を流すんだ。

幸せにしてくれなくていいから、僕だけを軽蔑して。
それがきっと君が僕だけにくれる唯一の感情なのだから。



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