朝の7分を君と

最近、気になる人がいます。

朝6時37分、2番ホーム、2車両目。
毎朝乗る電車に、その人はいる。

この時間はまだ空いていて席があるにも関わらず、彼は座らずにいつも反対側のドアのところに立っている。
そしてスマホを見るわけでもなく、また勉強をするわけでもなく、外の景色をじっと見ている。

紫の髪色で身長は高い。でも顔立ちは中性的だから初めは女の人かと思った。
その横顔はとても儚げで、窓から差し込む光が尚更彼をそう魅せた。

名前も分からないし、学校も違う。
同じ駅では降りるけれど改札口を出たら彼は北口、私は南口から外へ出る。

言葉も交わしたことはないけれど、不思議な魅力が彼にはある。
そんな彼の姿を見ながら、私は扉横近くの特等席に座り睡魔と闘いながら学校までの7分間を過ごすのだ。





今日の朝、英語の小テストがある。
それをすっかり忘れていた私は昨日徹夜で勉強をした。
だからと言って、登校時間は変えられないわけで朝いつも通りの電車に飛び乗った。

目の下にクマをつくっている私とは裏腹に、いつもの彼は今日も涼し気に窓の外を見ていた。
9月と言えども残暑が残る暑さの中、私は首に垂れた汗を拭っていつもの席に座った。

ガタンゴトンと揺れる電車はゆりかごのように心地いい。
適度にきいた空調。いつもなら気になるイヤホンの音漏れすら子守歌に聞こえる。


「ねぇ、ねぇってば」

肩が叩かれ、反動で頭が揺れた。少しクラクラする。
まだ眠い目をこすりながら顔を上げた。

「君もここで降りるでしょ?」

目の前にはいつもドアのところに立っている、その人がいた。
近くで見ると本当に綺麗で、そして優しい声をしていることもそのとき初めて知った。

「え?」
「早く降りよう!」

腕を掴まれ、強制的に立ち上がらされた。見かけによらず、力もあるらしい。
そして彼に引っ張られるまま電車から飛び降りた。
その直後、構内に音が鳴り響き扉が閉まり電車が発進した。

「こ、ここは……」

寝ぼけた頭をフル回転させ、辺りを見回す。
赤い自販機に、緑のベンチ、下りの階段に、背伸びをすれば私の学校の校舎が見えた。
ここは間違いなく私が毎朝降りる駅のホームである。

「もしかして、まだ寝ぼけてるの?」

隣に立っている彼がクスリと笑ってそんなことを言った。
捕まれていた手はゆっくりと離され、それと同時に私の脳みそは一気に覚醒した。

「あ、あの、私寝てて…。ここ、降りる駅なんです」
「知ってるよ。朝いつも見かけるからね」

まさか彼も私の事を知っているとは思いもよらず、また頭がクラクラとしてしまった。

「ええっと……」
「いつも眠そうな子がいるなぁって見てた」

まさかそんなところまで見ていたとは。
恥ずかしい。消えてしまいたい。もう彼と同じ電車に乗れそうにない。

「そうですね…。あの、今朝は声を掛けてくれて助かりました。ありがとうございます」
「どういたしまして」

恥ずかしさで赤くなる顔を見られないよう、頭を下げた。
そのまま人に流されるように二人で改札口へと向かう。

今まで電車で見てきた人が私の隣に居て、まだ夢ではないかと錯覚してしまう。しかし、現実の彼は私が思っていたよりも表情豊かでよく話した。
名前は幸村精市といい、近くの立海大付属中に通う2年生だと言った。私と同じ学年である。

改札口を出て、ここで彼とはお別れだ。

「今日は本当にありがとう」
「授業中も寝ないようにね」
「もう大丈夫だよ!」
「そっか。じゃあ、また明日ね」

私が意地を張って言い返せば、余裕そうな笑みを添えて彼は北口へと姿を消した。


ごく自然に発せられた「また明日」という言葉。

前言撤回。
明日も同じ時間、同じホーム、同じ車両に乗ろうと心に決めた。





朝6時37分、2番ホーム、2車両目。

時間ぴったりに電車が構内に滑り込み、扉が開く。
ただ一つ、いつもと違ったのは彼がいつもの場所にはいなかったこと。
いつもは反対側の扉の所に居て窓の外を見ているのに、今日は扉が開いたら目の前に彼がいた。

「おはよう」
「お、おはよう」

欠伸を呑み込んで出した言葉はやはり裏返っていたのか、彼は小さく肩を揺らして笑っていた。

「今日は寝過ごさないから大丈夫」
「まだ、俺は『おはよう』しか言ってないよ」
「顔に書いてあったよ」

駅員さんの声と共に後ろで扉が閉まる。
ゆっくりと動き出した電車の慣性に負けないように私も手すりにつかまった。

「君は随分と朝早く学校へ行くんだね」
「うん。こう見えても吹奏楽部の部長でね、朝練やる前にすることもあるから」
「そうなんだ。俺もこう見えて男子テニス部部長だよ」
「本当?ちょっと意外かも」
「俺も居眠りさんが部長だったとは意外だよ」

彼は私を見て笑っている。
今まで見ていた儚げな横顔の彼はどこへやら。
私の隣に立っている彼の横顔は普通の男の子で普通に軽口も叩く。

「ちゃんと起きたからそんなに言うほどのことではないよ」
「それは誰のお陰かな」
「幸村君のお陰です…」

アナウンスが駅名を告げ、扉が開いた。
何時もは長く感じる7分が今日はやけに短く感じた。

階段を降りて改札口を出る。
ここからは逆方向に私達は学校へ向かう。

「じゃあまた明日」
「また明日。部活頑張ってね」
「君もね」


いつもなら睡魔と闘う7分間が、今日はとても充実していた。

7分じゃ足りない。
けれど、明日も話ができるのならきっと物足りないくらいがちょうどいい。





「おはよう」
「おはよう」

学校の友達よりも先に彼は私に朝の挨拶をしてくれる。
でも今朝はそれに加えて謝りの一言を会話に添えた。何故かと問うと、昨日電車で自分の話に付き合わせて立たせてしまったことについての謝りだった。

「そこ、座ったら?」
「幸村君こそ座らなくていいの?」

やはり彼は私の事をよく見ていたらしい。
いつも座る特等席が空いているのを見てそこを指さした。

今日も席には空きがある。車両の真ん中らへんまで行けば二人で座れそうなスペースもあるのだ。
しかし彼は首を横に振って、反対側の扉の窓に目を向けた。

「俺は見たいものがあるから」
「見たいもの?」
「こっちにおいで」

彼は私を手招きして。反対側の扉の前に連れて行った。
一駅止まって、お客さんを乗せてまたゆっくりと電車が動き出す。
彼が連れて来てくれた窓辺からは、民家しか見えない。

「もうそろそろかな。あそこらへん見てて」

彼の白くて長い指が窓の外の一点を指示した。
しばらくするとそこに畑のようなものが見えた。近くで人が立っているのが見えるが、その人と同じ背丈の物がそこには植えられていた。

「あれは……ヒマワリ?」
「正解」

こんな街の一角に、それでも太陽に顔を向けて伸び伸びと咲くヒマワリがそこにいた。
9月にも咲くなんて思わなくて、私はすごいすごいと言葉を続けた。

「ヒマワリは確かに夏の花だけど、9月にも咲いたりするんだよ」
「そうなんだ。電車からでも綺麗に見えるね」
「近くで見たらもっと綺麗だよ」
「そうだよね。いつか近くで見てみたいなぁ」

私がそう言えば、頭に何かが乗せられた。
暖かな温度を感じて見上げると彼の大きな手が私の頭を撫でていた。

「君の身長じゃあヒマワリに埋もれちゃうよ」
「幸村君の身長でもきっと埋もれちゃうよ!」

ムキになってそう言い返せば、彼はヒマワリに負けないほどの笑顔を私に向けた。

そのまま身長とヒマワリについてずっと言い合いをして、私達は改札を出た。

「また明日」の彼の声は笑いをかみ殺したように震えていた。
だから私も最後には笑って「また明日」と声を掛けた。





電車の窓からは見える山は赤や黄色に変化し、季節の移り変わりを感じさせた。

扉横近くの特等席には座らなくなって、彼の隣が私の特等席になった。
幸村君の隣に立って窓の外の景色を見ながら他愛もない会話をする。

「昨日ね、窓を開けて練習してたんだけど途中で鳩が入ってきて練習どころじゃなくなったの」
「もしかしたら美しい音色に誘われて来たのかも」
「鳩もブラームスのハンガリー舞曲が好きだったのかなぁ」
「君もブラームスが好きなのかい?」
「ブラームスもバッハもベートーベンも好きだよ。幸村君もクラシック聞くの?」
「あぁ。ブラームス交響曲第4番が特に好きでね」
「重低音が特徴的だよね。憂いと情熱に満ちた感じがする」

私がそう言えば幸村君の目がわずかに見開かれ、そして目を細めてひどく優しい眼差しで私を見た。

「すごいね。俺も全く同じ意見だ」
「本当?まぁ私の方が音楽に関してはちょっとだけ先輩だからね」
「それは恐れ入りました」

幸村君が口に綺麗な弧を描いて笑った。
こんな風に素敵に笑えるような女の子になりたいと何度思ったことか。

電車がゆっくりと止まり、再び動き出す。
私達が降りる次の駅まであと3分だ。

「あれ、雨が降ってる?」
「本当だ」

電車の窓には、猫がひっかいたような真っすぐとした短い雨の線が描かれていた。
そこまで強くはないが、雲の色を見る限りしばらくは降りそうである。

「こんなことなら俺も傘を持って来ればよかったよ」
「折り畳み傘は持ってないの?」
「学校にはあるんだ」

電車が止まり、いつものように二人で改札口を出た。
南口から見える外の景色は相変わらずの雨で、走って駅に向かってくる人も見えた。

「幸村君、これ使って」

私は右手で持っていた水色の傘を差し出した。
お母さんに言われて持ってきた傘は早くもいい仕事を果たせそうである。

「それは借りられないよ。君が雨に濡れるわけにはいかないからね」
「鞄の中に折り畳み傘も入ってるから大丈夫」

本当は折り畳み傘なんて持ってないけど。

「でも……」
「それ、明日返してね。また明日」

彼の手に水色の傘を押し付けて、私は南口へと走った。

「ありがとう。また明日」


学校に着いた私の制服は水を吸ってぺったりと体にくっついて、髪の毛はひどくうねっていた。
朝から部員には笑われたけど、傘を貸したことに後悔なんかしなかった。


次の日、私の傘と共に花柄の可愛らしい折り畳み傘が渡された。

「君が嘘をつかないように」

どうやら私の考えていることなど、彼には全てお見通しだったようだ。
プレゼントされた傘はお守りとして鞄の中に入れておくことにした。





寒暖の差が大きくなり、マフラーを巻く季節になった。

最近での私達の話題は部活動についてだ。
違う学校の、違う部活だからこそ色々話せるのだと思う。

「新レギュラーに1年を入れたんだ。なかなか面白いやつでね、最近は特に部活が楽しいんだ」
「将来が楽しみだね。もしかしたらその子が次の部長になるのかも」
「まだまだ部長の座を譲る気はないけど……ゲホゲホ」
「大丈夫?」

手すりに添えた手に力を込めて体を支える幸村君の背中を擦った。

「最近咳が多くてね。君に移してしまうかもしれない」
「私、身体は丈夫だから大丈夫。風邪じゃない?」
「……あぁ」

部の後輩たちの中にも風邪をひいて休んでいる子もいる。でも大抵は一日二日休んで元気になるから、きっと幸村君もすぐに良くなるものだと思った。

私達が降りる駅名が告げられて、幸村君の手を引いて電車を降りた。
彼の咳は止まったが、あまり顔色は優れていないように見える。

「大丈夫?」
「君が背中を擦ってくれたから随分と良くなったよ。ありがとう」
「あんまり無理しないでね」

改札口を出て、彼は北口へと足を向けた。

「また明日」
「また明日」

彼の笑顔が少しだけ痛々しく見えた。
でも、きっと明日にはいつも通りの笑顔を見せてくれるものだと信じていた。




こんな日がずっと続くと思ってた。
朝6時37分、2番ホーム、2車両目の電車に乗って7分彼と話しをする。

窓から景色を見たり、部活の話をしたり、学校の話をしたり。
取り留めのない会話、当たり前の日々。

でも、彼が言った「明日」は来なかった。





もしかしたらインフルエンザかもしれない。
彼が咳き込む回数が日に日に増えていることに気付いていた。
数日前から体が怠いと言っていた。
私が電車に乗る前は、席に座っていた事も知っていた。

明日になった。
幸村君は来なかった。

また明日になった。
幸村君は来なかった。

その次の日も、一週間後も、冬休み明けで年が変わっても、彼は姿を現さなかった。

電車を降りて、改札口を出た。
北口を見てみても、彼の姿はなかった。


「また明日」


構内の騒音にかき消されて私の声は誰にも届いていなかったと思う。
その相手は目の前にいないけれど、習慣となってしまったこの言葉を言わない日はなかった。





4月になり、桜の花が散り始めました。
3年生になって、新入生も入部して毎日毎日忙しいよ。

5月になり、電車の窓からは鯉のぼりが見えるようになりました。
でも5月下旬になっても泳いでいる鯉のぼりがいて一人で笑っちゃった。

6月になり、雨の日が多くなりました。
そういえば、幸村君に傘を貸したこともあったね。貰った折り畳み傘は今も鞄に入ってるよ。

7月になり、今年初の猛暑日が観測されました。
朝は蝉の鳴き声で起こされるから寝坊はしてないんだよ。

8月になり、中学最後のコンクールがありました。
三年間あっという間で、最後に「部長お疲れ様」って言われて大泣きしちゃった。

9月になり、電車の窓からはあのヒマワリが見えます。
幸村君と出会ってから一年が経ったね。


貴方はいま、どこにいますか?


朝6時37分、2番ホーム、2車両目。

一人で乗るのが当たり前になった。
部活は引退して、この時間の電車に乗る必要はもうない。
それでも私の登校時刻はあの日のまま。

私が初めに使っていた特等席には、サラリーマンが座っている。
そこには目もくれずに、向かい側の扉の前にいき窓の外を見た。
ここで駅に着くまでの時間を過ごすけれど、幸村君がいなければ特等席とは呼べない。

一駅止まり、またゆっくりと電車が動き出す。
ガタンゴトンとゆりかごの様に揺れる。

学校までの7分がとても長く感じる。
あと残り3分。

ぼんやりと窓の外を見る。
一年前に彼が教えてくれた畑のヒマワリはまだその顔をお日様に向けて花を咲かせていた。


「ヒマワリ、まだ咲いてるんだね」

私が思っていたのと全く同じセリフ。
でもその声はもちろん私の声ではなかった。

ゆっくりと振り返れば、久しぶりに見た彼の顔があった。
毎日毎日、電車に乗る度に彼の事を思い出していた。
そして、今ここに本物がいる。

「幸村君……?」
「おはよう」

彼は目を細めて私を見て、あの優しい笑顔を向けた。
目の前にいることが信じられなくて、声が震えた。

「おはよう…」
「ごめん。実はずっと入院してて……」
「また明日って言ったのに、待たせすぎだよ」


3分では理解できないほどの情報量を幸村君は話してくれた。
「ごめんね」と同じくらい「待っててくれてありがとう」と彼は言ってくれた。

私達が降りる駅名が告げられて、今日は二人で改札を出た。

もっと幸村君に聞きたいことがあった。
もっと幸村君に話したいことがあった。

「また明日」って言葉を今日は信じて言っていいんだよね?


「幸村君、また明日ね」
「待って!」

南口へと足を向けた私の腕が掴まれる。

「明日じゃなくて今日会えない?君に大切な話があるんだ」

今まで見たこともない表情で幸村君はそう言った。
以前の彼とは雰囲気が少し変わった。
身長が伸びたとか、大人びたとか、そんなんじゃない。
優しい性格はそのままで、強くなったような感じがする。

「私も、明日じゃなくて今日幸村君と会いたい」


もう朝の7分じゃ足りない。
幸村君に聞きたいことがある。
幸村君に話したいことがある。

でもそれだけじゃない。
もっと一緒に居て、同じ時間を共有して過ごしていきたいと思った。



授業を終え、放課後すぐに駅へと向かった。
そうしたら、幸村君がヒマワリの花束を持っていて少し恥ずかしそうに私にくれた。
季節外れのヒマワリだけど、お日様にではなく私にその美しい花を見せてくれた。

「ずっと言いたかったことがある。俺は君の事が―――」


来年は二人でヒマワリを見に行こう。
私達の身長を追い抜かすほどのヒマワリ畑で、二人の思い出をつくろうね。


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