夢遊病少女は夜を歩く

親愛なる君へ

誰かに手紙を書くなんて初めてのことで少し緊張します。
学校生活には慣れましたか?まぁ、貴方のことだから世話焼きの仲間達のおかげで何一つ不自由していないのでしょうね。

これが貴方に送る最初で最後の手紙です。

だから、書きたいことを好きなだけ書いておこうと思います。





夜の廊下を、裸足で歩くのが好きだ。

足先から伝わるひんやりとした感触。ペタペタと響く足音。幽霊と会えるかもしれないという期待。看護師さんたちに見つからないように歩くスリル満点の廊下。
自由に歩き回れる夜は、生きていることを実感できる。

ガタンッ———

近くの部屋から聞こえた、何かが倒れるような音。
発作の時とは違う胸の高鳴りが、私の心臓を波打つ。

何かが落ちたのか。いや、幽霊の仕業と考える方が夢がある。

“リハビリ室”と書かれた戸がわずかに開かれていて、そこから中を盗み見た。
白いワンピースの女か、足がない男か、はたまた化け猫か……。あぁ期待が膨らむ。

電気が付けられていないその部屋は、代わりにカーテンが全て端にまとめられていて、月夜の光をいっぱいに取り込んでいた。
そこで黒色の、いや藍色の髪が揺れる。すっきりとしたシルエットから女の幽霊ではないかと期待する。

もう少しよく見たい。
そう思って戸に手を掛けたら思いのほか軽く横にスライドし、勢いよく戸が開いてしまった。

「誰だ!?」

荒れた息遣い。揺れる瞳には驚きの色。額から流れた汗が床を転々と光らせている。
その必死な表情はなんとも人間臭くて、私はがっくりと肩を落とした。

「驚かせてごめん。音が聞こえたから気になって」
「え?あ……ごめん」

私と同じくパジャマ姿の人間は、その言葉を聞いて安堵したように表情を緩めた。
先ほどの音は、扉近くの壁に立てかけてあった松葉杖が倒れた音らしい。そしてその人間はというと、リハビリ用の手すりの間で座り込んでいる。

「大丈夫?」

人間だと分かった時点で興味は大分そがれたが、座り込んでいる人間を放置していくほど冷酷ではない。

ヒタヒタと彼のところまで近づいて、よろける体を支えた。手すりに手を掛け自分の力で立ち上がったその人は、意外にも背が高く肩幅も広かった。肩を貸そうにも私では無理だとすぐに判断し、彼の倒れた松葉杖を差し出した。
彼はそれを使い、壁際の椅子へと移動し腰を下ろした。

深呼吸をして息をついたその顔つきはとても整っていて、私が女の幽霊だと見間違ったのも頷ける。まぁ、そもそも人間であったけれど。

「すまない。助かったよ」
「それならよかったです」

さて、これでこの部屋に用はなくなったわけだ。
次はどこへ行こうか。スリルを味わいたいならナースステーションの近くをうろつけばいいのだが、次バレたら部屋に外鍵を付けかねられない。そこそこの緊張感も味わえたし、今日のところはこの階を一周して部屋に戻ろうか。

「じゃあ、お邪魔しました」
「ちょっと待って!」

戸に手を掛けた動きを止める。
振り返った先には先ほどの人間。

「何?」
「消灯時間後になんで俺がここにいるか聞かないの?」
「いや、お互い様だし…」

互いに顔を見合わせて、「あっそうか」と困ったように笑った。
うん、少し変わってる?まぁ私も人の事を言える立場ではないのだけれど、この人間といると調子が狂わされる感じがする。

「リハビリ時間が足りなくてベッドを抜け出して来たんだよね」
「そうなんだ」
「早く良くなりたくて」
「大変だね」

聞いてもいないのにつらつらとよく喋る。正直興味はないから早く解放してほしい。看護師さんだっていつ見回りに来るのか分からないのだから、彼はもう少し抜け出したことへの危機感を持つべきだ。

「君はどうしてここに?」

こんな適当な返事をしているにも関わらず、その人間はお構いなしに私に質問を投げかける。

「夢遊病だから」
「夢遊病?」
「そう。無意識にふらふらしてた」
「その割には俺の質問に答えてくれるよね?どんな気分?」

私の発言に引いて、話しかけるのをやめると思えば予想以上にぐいぐいと質問攻めにあう。
どうやら幽霊よりも質の悪そうなものに捕まってしまったようだ。

「久しぶりにドキドキしてる」
「ドキドキ?」
「人間と話したから」
「あれ?じゃあ君は幽霊なのかな?」

雲をつかむようなふわふわとした会話。どこが楽しいのか理解できないが、その人はくすくすと笑っている。

こんなに話したのは久しぶりだ。疲れる。

「何でもいいよ。一人で戻れるよね?」
「もう君は帰っちゃうの?」
「ここに用もないからね」

いつまでもここにいては暫くは解放されそうにない。
逃げるように廊下へ出ようとしたとき、またも呼び止められる。

「俺、明日もここにいるから」

「だからなに」、と言葉が出かけてつぐんだ。ここで返事をすればきっとまた彼のお喋りに付き合わされてしまう。



すっかり疲れてしまった私はそのまま真っすぐ自分の部屋へと戻ってベッドに潜った。
あの中性的な声がまだ耳に残っている。

でも何故かその夜は異様に寝つきが良くて、目をつむれば静かに夢の世界へと落ちていった。





雨が降る夜は特に蒸し暑い。おまけに25度以上の熱帯夜だ。髪の毛が首の周りにへばりついて気持ち悪い。裸足の足元から冷気を得ているけど、さすがにその温度は顔にまで届かないようだ。

昨日の人間の言葉が思い出される。「明日もいる」と言ったその人は、正直もう一度会いたいとは思わない。でも、本当に来ているのかは気になった。
昨日まで元気だった人間が突然息を引き取ることもある。だから、生存確認の意味も込めて見に行くくらいはいいだろう。

ヒタヒタと、廊下をあるいてリハビリ室へと向かう。湿度が高い分、やけに足の裏が床にへばりついている気がした。
昨日の失敗を思い出し、慎重にリハビリ室の戸を少し動かした。
幽霊も化け猫も、そして人間の姿も確認できない。いないのか?

「来てくれたんだね」

不意に後ろから声を掛けられ、心臓が飛び出るかと思った。声を出さなかっただけ、自分を褒めてあげたい。
「また会っちゃったね」と笑顔で言う彼を見て、心底ここに来るのではなかったと後悔した。

「本当に来てるのか、確認したかっただけだから」
「どうせ暇だろ?ちょっと手伝ってよ」
「私、もう行くから」
「もし倒れたりしたらさすがに困るから君がいると安心できる」

相変わらず会話が噛み合わない。
彼は私の横をすり抜けて部屋へと入っていく。そして「君も早く入りなよ」と言わんばかりに視線を投げかけた。
逃げるどころか否定の言葉すら言うのを躊躇われる雰囲気。
部屋に足を踏み入れると、ペタリという素足が着く音と同時に、ふわりと体が浮くような感覚を覚えた。

きっとそれはこの人の世界に足を踏み入れた合図だと思った。

「君は椅子に掛けてていいからね」

私の同意を何一つ得ないまま、彼は松葉杖を立てかけて手すりの間に立った。
昨日は背も高くて肩幅も広いように感じられたけれど、よくよく見れば手足も骨が浮き出るくらいに筋力は失われ、血管が青い川のように浮き出ている。
でも、その瞳だけは強い光を放っていて、生きようと必死にもがいている色が見受けられた。

何がそうまで彼を突き動かすのかわからない。過度なリハビリは体に毒だということも本人は分かっているだろう。

汗を流し、荒い息を上げ、足をくじきながら前へと進む。
あぁ、人間臭い。

「君はなんで夢遊病ごっこなんかしてるの?」

夢遊病ごっこという言葉に思わず吹きかけてしまった。

「夢遊病ごっこ、ね」
「君はどこに行きたいんだい?」
「行きたい場所なんかないよ。ただ歩いていると実感できる」
「実感?」
「生きていることを」

懸命に体を支え手すりをひと往復し、ふぅと息を吐きだしている。しかし、もうひと往復するようで再び体の向きを変えた。

「それは中々興味深いな。だから君は裸足なのかい?」
「そうだよ」
「俺も裸足で歩こうかな」
「貴方には必要ないでしょう」

先ほどよりも早く端へと到達し、体の向きを変えた。
意外にも会話は続いている。それは私が彼の世界に踏み込んだせいなのだろうか。

「なんで?」
「充分すぎるくらい貴方はもがいて、人間臭く生きているから」
「それは褒められているのかな?」
「そういうことにしておいて」

二往復歩き終え、とりあえずは満足したのか松葉杖を使い私の隣へと腰を下ろした。
袖で額の汗を拭い、窓の外を見ている。小雨がとても静かに降っていて、音も聞こえない。雨音の一つでもすればこの空間がもっと彼らしい世界になったかもしれない。

「俺ってそんなに必死に見えた?」

窓への視線を外さずに、ぼんやりとそんなことを呟いた。先ほどまでとは違う声のトーンに身をこわばらせた。
彼が不安定になるとこの世界も不安定になる。
こういう人間に励ましも情けも不要だ。それは私が一番よく分かっている。

「そうだね。なんでそんなに頑張るの?」
「今日、部活のみんなが来たんだ」
「部活?」
「あぁ。こう見えてもテニス部なんだよ。全国大会二連覇中の立海テニス部部長。すごいだろ?」

自慢げにクスリと笑って自分の顔を指さしている。でも、その瞳は悲しいほどに震えていた。

「すごいすごい」
「本当に思ってる?嘘はつかないでね」
「嘘というか、自分とは程遠い世界でよく分からない」
「なるほど」

視線を窓の外に戻した。部活の仲間の事を思い出しているのだろうか。
お見舞いは、会えて嬉しいと感じるときと会えて辛いと感じるときとがある。後者は、生きることへの責任を押し付けられているような気がしてならないからだと、私は思っている。

「ずいぶん慕われている部長さんだね」

当たり障りのない言葉しか言えなかった。

「今年も無事に全国への切符を手に入れたって。それまでに俺も復帰しないと」
「全国大会に出るつもり?」
「あぁ。せっかく生きてここにいるのだから」

その目は真っすぐで、雨の景色よりもさらに先を見据えていた。
強い強いまなざし。
でも、私にはその中にある不安の方が色濃く見えてしまった。
 
きっと、ここで激励の言葉のひとつくらい言うべきなのだろう。でも、それはひどく拒まれている気がした。それは彼が創ったこの世界で嘘をつくなという決まりができていたからだ。

「何か言いたそうだけど?」
「まぁ……」
「夢遊病少女はお眠の時間かな?」

こんなときでも減らず口は減らないらしい。しかし、その目だけは真剣で私をここから逃がしてはくれなかった。

「そんなに頑張る必要はないんじゃないかと」
「それは、どういう意味?」

空気が張り詰め、息が詰まる。
応えによってはこの世界は崩れてしまうくらい危うい。

「全国大会の切符を手に入れるくらいすごい部員達なら、貴方が戻らなくても大丈夫じゃないかってこと」

もしもこの世界が崩壊するなら、私は最期まで付き合おう。
失うものもないのだから。

「俺には責任があるんだ」
「責任?」
「立海を全国三連覇へと導く責任だ。共に目標を掲げた真田や蓮二のために、俺に付いてきてくれた仲間のためにここで俺がいつまでも伏せっているわけにはいかないんだ」

叫ぶような、心の声。
幸いにもこの世界が崩壊しなかったのは“全国三連覇”という目標と“テニス部部長”というプライドのお蔭であると思う。

部活にも入れず、学校すらまともに顔を出せない私では、目標も、仲間も、責任も、何一つ理解できないが、彼の言葉には胸をえぐられた。
それほどまでに彼の想いが言葉に乗せられていたのだ。

「こんなに頑張っているなら、誰も貴方を責めないよ」
「結果が全てなんだ。三連覇を果たさなければ俺が生きた意味がない」

「それは違うよ」
そう言いかけた言葉を呑み込んだ。

貴方を待ってくれている仲間がいて、帰る場所がある。それだけで生きる意味があるという事を彼は気付いていない。
しかし、私がそれを言っても彼の心が動くことはないだろう。
彼の生きる根源が“全国三連覇”という目標と“テニス部部長”というプライドで、そして皮肉にもそれが自由を奪っているのだから。

「じゃあ私が証言者になるよ」
「え?」

でも優しい仲間に囲まれている貴方なら、いつか本当の意味に気付けるだろう。
だからここで一つ、私が標を残しておこう。

「“三連覇ができなければ生きた意味がない”。つまりもし大会までに間に合わなかったり、試合で負けるようなことがあれば貴方は消えてしまう。そうならないために、貴方が人間臭くもがいた姿を私が見届けてあげる」

張り詰めた空気がほどけ、息を吸うのが楽になった。
きっとそれは私がここにいることを許された合図なんだと思う。

「つまり、これからも俺に会いに来てくれるってことだね」

満足げに肩を揺らして笑い、私の言葉をそんな一言で簡単にまとめてしまった。
自分中心の考え方に、今まで随分と周りに甘やかされてきたのだと分かる。

「そういえば俺の事ばっかり話してる。君の事も教えてよ」
「遠慮しとくよ」
「そう?でも名前くらい教えてよ。あれ、俺自分の名前言ったっけ?」

これでは部員達の気苦労も絶えないだろう。目が離せなくて、不安定で、危うくて。しかしこれも彼の魅力の一つであり、放っておけない理由なのだ。
きっと前世は悪戯好きの天使か悪魔。いや、悪魔だ。

「知らないからこそ話しやすいこともある」
「そっかぁ。じゃあいつか教えてね」
「考えとくよ」


素足は地に着いているというのに、ふわふわと体が浮いているような感覚。
私が探し求めていた場所はここだったのだろうか。

不安定で壊れそうで、会話の一つも繋がらなくて、必死にもがいて、こんなにも人間臭い貴方といれば私も生きた意味を見つけられそうだ。





臆することなく戸を引けば、すでにリハビリを開始していた彼と目が合った。今日は寄り道をしてきたので、彼の方が早めに来ていたようだ。

「やぁ」
「早いね」

壁際の椅子に腰を下ろす。今日は特にやる気に満ちているのか、その額に滲んだ汗からすでに長い時間ここにいることが分かった。

「今日も、部員達が見舞いに来た」

手すりの端で一息ついて、呼吸を整えながらそう言った。

「みんな貴方が好きなんだね」
「羨ましいだろ?」
「別に」

リハビリをしながらの会話にも呼吸の乱れがなくなってきている。そして、おまけに悪戯に笑うほどの余裕もあるのだからこちらとしては面白くない。
私が相変わらず素っ気ない態度を取っても、お構いなしにと彼は言葉を続ける。

「昔は見舞いに来られるのは嫌だったんだ。“なんでお前はここにいるんだ”、“なんで倒れたんだ”と責められている気がして。テニスをしている彼らを恨んだこともあった」
「うん」
「でも、俺には帰る場所があってそれを待っている仲間がいると思えば、彼らのためにも頑張りたいと思う」

その瞳に不安の色はあったけれど、光の方が強くなっている。日々、彼は前へと進んでいる。
やはり彼は自分で生きる意味を見つけられそうだ。

「じゃあもう一往復いってみようか」
「なかなか君はスパルタだね。マネージャーに推薦したいくらいだ」

息を整え、前を見据えて一歩を踏み出す。
随分と地に足が付くようになったと思う。驚異的な回復力だと、担当医も驚いていることだろう。



「ちょっと休憩」
「お疲れ様。どうぞ」

ここへ来る前に自販機で購入したペットボトルの水を差し出す。タオルに包んできたおかげで、冷たさはまだ保たれていた。

「いいのかい?」
「私からお見舞いの品です」

お礼を言って受け取ったそれを開け、一気に三分の一ほど飲み干した。

「俺も君にお見舞いしないとなぁ」
「別にいいよ」
「ベタだけどお花とかどうかな。育てるのも好きで、入院前は自宅や学校でも結構育ててたんだ」
「お花ねー……」

かつては見舞いの品に様々な花をもらった。鮮やかな色の時は私に勇気や希望をくれるのに、枯れ始めると「お前もすぐにこうなるよ」を嘲笑われているようでいつしか嫌いになっていた。
でも彼から貰える花なら枯れても「人生そんなものだよ」と同じ意味でも楽観的に感じられそうだ。

「嫌いだった?」
「最近貰ってなかったなと思って」
「じゃあとびきりの花を選ばないと」
「大会が終わったら持って来てよ。私はまだここにいるだろうから」
「………あぁ。ついでに全国大会三連覇の土産話も付けよう」

私の事は深く聞かず。少しおどけてそんなことを言った。

日に日に彼の光が強まるように、私が彼の世界に馴染んでいくのが分かる。

私が貴方の標になるつもりでいたのに、いつしか貴方が私の標になっていたようだ。
もし貴方がその事にも気付いてしまったら「人間臭い」と悪戯に笑うのでしょうね。

あぁ、面白くない。





「明日、退院することになった」
「おめでとう」

松葉杖さえ使わずにリハビリ室に来た彼は静かにそう言った。
その代わりに壁には私の松葉杖が立てかけられている。

ここ数日顔を出せなかった間にも、彼はひとりもがいていたわけだ。「見届ける」とまで言ってしまった自分に笑ってしまう。

「そろそろ名前を教えてくれないかな」
「全国大会への意気込みを聞かせてもらおうか。部長さん」

この世界の創造主は彼だというのに、私の方がすっかり馴染んでしまったらしい。
彼との会話を無視して発せられた言葉に、困ったように笑っていた。
しかし偶に使う意地悪な笑いを今日は出さなかった。それは最後の夜の彼なりの優しさか、それとも久しぶりに会った私の顔色がひどかったせいなのかは考えないことにした。

「そうだな。まずは真田に俺の練習相手になってもらおうか。蓮二とはトレーニングメニューの話をしないといけないな。ジャッカルとブン太にはダブルスの腕をもっと磨いてもらわないと。仁王と柳生はシングスでも戦えるようなプレーを身に着けてもらって、赤也にはさらなる成長を。そして俺達は全国大会三連覇を果たすんだ」

真っすぐに前だけを見つめ、その瞳には窓の外で輝く星よりも強い光を映していた。

貴方は充分すぎるほど、もがいて、苦しんで、戦ってその先の本当の光を見つけた。
おそらく生きる根源は変わっていないのだろう。しかし、それを支える周りの仲間達のことも今の彼には見えている。

「忙しくなりそうだね。でも無理しすぎないように」

結果がすべてだと貴方は言ったけれど、私はその過程の方が大切だと思う。その事にもいつか気付いてほしい。そうすれば、貴方はもっと強くなれる。
でもそれには時間が必要だから、まずは身体を大切にしてほしい。

「君にしては随分と優しい言葉だ」
「前払いだよ。全国大会三連覇の土産話の」

貴方は人の優しさを、差し伸べられた手を素直にとれる純粋な人。
でも私はそんな事ができないから、いつもの口調で答えてしまう。

「高くつきそうだね」



夜の廊下を、裸足で歩くのが好きだ。

特に彼の創ったこの世界では、足先からそこにいることを実感できる。
その世界はひんやりとはしていなくて、雲の上を歩くようにふわふわとしている。しかし危うさも秘めているのだから壊れないように慎重に歩かないといけない。

今では眩しいほどの光に溢れていて、壊れてしまうかもという心配すら感じさせないけれど、やっぱり不安定だから誰かが支えてあげて欲しい。
その誰かがきっと仲間達なのだろうけど、貴方が気付かないことには意味がない。

貴方が一日も早くそれに気付けるよう、心から願っています。


◇ ◇ ◇


「精市、何を読んでいるんだ?」
「これかい?ラブレターかな」

一試合終え部室に戻ってきた蓮二が俺にそう言った。
手元でかさりと音を立てた便箋に、そんな事を言ったらきっと彼女に怒られてしまうのだろうなと思った。

「なるほど。随分と熱心に読んでいるな」
「人間の女の子からじゃないからね」
「は?」

ロッカーを開けたままぴたりと動きを止めた蓮二を横目に、二枚目の便箋に目を通す。
全国大会後に赴いた病院で「貴方に渡してくれと頼まれた」とだけ言われ看護師さんからこの手紙を受け取った。

「今まで貰った中で一番熱烈に書かれているよ」
「そうか」

どこか腑に落ちないような返事。その言葉と共に再び少し錆びかけた部室のドアが開く音が聞こえた。

「幸村も蓮二もここにいたのか」



俺と真田と蓮二。
三人で全国三連覇の目標を掲げ、それに着いてきてくれたブン太、ジャッカル、仁王、柳生そして赤也がいて、支えてくれた部員がいる。

二年間持っていた優勝旗は、ここにはもうない。

悔しいよ。試合に負けて悔しくない奴なんかいない。
でももし病気がなければ……なんてことはもう考えない。

それがあったから気付けたこともあって、だからこそ君に会えたんだ。
悔しいけど。心は軽い。


「外で部員たちが待っている。今日が最後の部長業務だ。頼んだぞ、幸村」


便箋を封筒に戻し、手紙をポケットに入れた。

君の事は一生忘れない。
俺は今ここに立って、テニスをして、仲間に囲まれて、生きた証を背負っている。
ひとりの人間にそうまで思わせてくれた君に、生きた意味がなかったなんて言わせないよ。

でもそんな事を言ったら「考え方も人間臭い」と笑われるのだろう。


「わかった。さぁ行こうか」
「あぁ」
「うむ」

俺の後ろには真田と蓮二がいる。
次のステージへ、未来へ、歩いて行こう。





親愛なる君へ

誰かに手紙を書くなんて初めてのことで少し緊張します。
学校生活には慣れましたか?まぁ、貴方のことだから世話焼きの仲間達のおかげで何一つ不自由していないのでしょうね。

これが貴方に送る最初で最後の手紙です。

だから、書きたいことを好きなだけ書いておこうと思います。


貴方はとても頑固者です。
微熱があるにも関わらず、リハビリするのをやめようとしない。いつもの様に決めた分だけ体を動かさないと気が済まない性格は改めないと皆が心配すると思います。

貴方はとても自由な人です。
自分だけの世界を創り、周りの人を巻き込みます。その世界がいつしか居心地の良い場所になっていました。

貴方はとても優しい人です。
私が自分の事を話さなくても、隣にいる事を許してくれます。貴方との雲を掴むような会話が一日の楽しみになっていました。

最期まで、貴方の側にいれたらと夢みた日も少なくありません。
何故なら、貴方はとても人間臭くて儚くて強い人で、隣にいれば自分もそんな人間であると錯覚できたからです。

でも、願わくばもうここへは戻って来ないでください。

貴方は冷たくて暗いあの場所よりも、日の当たる場所の方が似合うでしょう。

ただ一つ、お願いがあります。
いつか私を見つけて、全国大会の話を聞かせてください。
もちろん、とびきりの花も忘れずに。

いつか会うその日まで。
さようなら。

夢遊病少女より


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