狐は美味しく嘘を頂いた

月に一度、女の子にやってくる特有のアレ。
お腹の下の部分がぎゅーっと押し付けられる感じ。それに加えて今日の天気は曇り、低気圧偏頭痛をも私を襲う。
ずきずきずきずき朝から最悪だ。

「こんな所でどうされたのですか?」

廊下の端でうずくまっていた私に声が掛けられた。わずかに顔を上げると柔らかな茶髪に眼鏡を掛けた男が立っている。同じクラスの柳生君だと、痛む頭の隅っこでそう思った。

「ちょっと、お腹が痛くて……」

私がそう言っている間にもお腹に激痛が走る。お母さんの言いつけを背いて薬を持って来なかった罰だと思う。

「少しお待ちください」

彼は鞄からなにやらごそごそと探している。
しばらくして私と同じ目線に屈んだ彼が二粒の薬と水のペットボトルを差し出してきた。お礼を言ってそれを有難く受け取る。水で薬を流し込み、彼は私が落ち着くまで背中を擦ってくれていた。

「ありがとう。良くなってきたかも……」
「そうですか。でも念のため保健室に行かれた方がいいでしょう。立てますか?」

そういって彼はよろける私を支えてくれた。さすが風紀委員というべきか、紳士というべきか。彼は自分の前の席だからよく話す方だ。普段と変わらない声色に、表情、柳生君なら廊下でうずくまっている女の子を助けるなんて当然の事。でも今日は何故か、そんな彼に違和感を覚えた。でも腹痛と頭痛でそんなことなんて考えられなくて、その行為を素直に受け取って私達は保健室に向かった。



保健室でぐっすりと寝て、3限目が始まる頃には教室に戻ってくることができた。
心配して声を掛けてくれた友達に、もう大丈夫と笑顔で返して私は柳生君の姿を探すが見当たらない。友達に尋ねたら今さっき教室を出て行ったとの事。廊下を見れば隣のクラスの前に彼が立っていた。ちょうど私と入れ替わりに教室を出て行ったらしい。

「柳生君、今朝はありが……」

後ろから声を掛けた私は、彼が人と話していることに気付かなかった。柳生君が振り返るよりも先に、彼の肩越しに一人の男が顔をのぞかせる。

「柳生にお客さんじゃ」
「おや、どうされましたか?」

そこで私は違和感を覚えた。さっきと何かが違う。
今私の目の前にいる柳生君は確かにいつもの“柳生君”で、でもさっきの柳生君とは違う気がした。服装が違うとか、爪の長さが違うとか、匂いが違うとか、そう単純に言い表せられるものではないのだけれど、“何か”が違った。

「えっと…ごめん。やっぱり何でもないや」

違和感の正体は分からなくて、でも目の前の“柳生君”にお礼を言うのは違う気がした。私が教室に戻ろうとした時、彼と話していた一人の男が視界に入った。頭髪検査で確実に引っ掛かるだろうという髪色に、着崩した制服、柳生君に似ても似つかないその人が、どうしてか“似ている”と思った。


「ねぇ、隣のクラスの銀髪の人知ってる?」

教室に戻ってきた私は友達にそんなことを聞いた。3年間も通っている学校と言えど、9クラス分あるのだから中には初めて見る顔もある。だから昨年同じクラスではなかった彼女に私は聞いた。

「隣のクラス?あぁ、それなら仁王君じゃない」
「仁王君…」
「テニス部のレギュラーメンバーだよ。あの人かっこいいよね!もしかして気になってるの?」
「まぁね」
「え!?嘘!なんでなんで!?」

女の子はこの手の話が大好きだ。でも残念ながら彼女が期待している意味での気になっているという事ではないのだ。
予鈴がなるころには柳生君は教室に戻ってきた。彼の席は私の前で、そこにいつも通り丁寧に椅子を引いて座った。うん、これはいつもの柳生君だ。その背中にもう一度声を掛ける。

「あの、柳生君」
「あぁ、先ほどはすみませんでした。私に何かご用でしたか?」
「柳生君は薬持ち歩いてたりする?」
「薬ですが?胃薬くらいなら持ち歩いていますが……」

今朝もらったのはおそらく鎮痛剤だ。柳生君がこんなことで嘘をつくとは思えない。
私が突然そんなことを聞いたからか、彼は心配そうに私を見ている。2限分の授業を休んでいたのだから、まだ調子が悪いと思われたのだろう。

「大丈夫ですか?」
「ごめん、ちょっと聞いてみただけ。気にしないでね」

彼に笑顔でそう言って鞄の中から教科書を取り出した。いつも通りの彼の後ろ姿。
その背中を見ながら頭に浮かんだのは先ほどの銀髪の男の顔だった。



「あの、すみません!」

昼休みの時間、購買部から教室に戻ろうと廊下を歩いていた私は前を歩いていた一人の男に声を掛けた。私と同じくお昼ごはんを買ってきたのか、手にはビニール袋が握られていた。それは先ほど教えてもらった“仁王君”という人で、名前を呼ばれた彼は少し驚いた様子で私を見た。

「柳生と同じクラスのやつじゃのう。なんじゃ?」
「今朝、私に声を掛けてくれたの貴方ですよね?」

確信なんてないし、理由を聞かれても上手く答えられる気がしない。でも、なんとなくそう思った。
彼と話したのは今が初めてで、名前を知ったのもついさっき。気味悪がられるのは分かっている。でも私はあの時助けてくれた彼にしっかりとお礼を言いたかった。

「柳生の間違いじゃないかのう」
「なんでそこで柳生君の名前が出てくるんですか?」

彼はしまったという顔で毛先の髪を弄っている。腹が減ると頭が回らなくなると言い訳をしながら困ったように私を見た。

「よく分かったのう」
「本当に仁王君だったんだ」
「テニス部以外の奴にバレたのは初めてじゃ」
「なんで柳生君になってたの?」
「変装の練習じゃけ。お前さんはテニスの試合を見に来たことはあるかのう」
「ごめん、ないや」
「今週の土曜に練習試合がある。見にきんしゃい」

そう言って彼はひらひらと手を振りながら行ってしまった。
助けてくれてありがとうの一言も言えなくて、でも今さら声を掛けることもできなかった。
お礼にと彼に買ったスポーツドリンクが袋の中で重く揺れた。





仁王君が言った通り、この日は立海のテニスコートで他校との練習試合が行われていた。
テニスの試合を見れば、何か分かることがあるのだろうか。そんなことを思いながら仁王君が試合に出るのを待った。

「テニス部の試合を見たいだなんて珍しいね」

今日一緒に来た友達は私の横で今行われている試合を見ながらそんなことを言った。彼女はテニス部で、参考のためにもよく男子テニス部の試合を見に来ているらしい。でもそんなのは後付けの理由で、イケメンなレギュラー部員を見たいがために通い詰めているのだ。

「うちのテニス部すごく強いんでしょ?だから一回くらいちゃんと見ておこうかと」
「ふーん。本当はイケメンが見たいだけでしょ?」

それは貴方でしょ、という会話もそこそこに次はダブルスの試合。コートには柳生君と、そして仁王君がラケットを持って立つ姿が見えた。二人がダブルスプレーヤーだということはこの時初めて知った。でもそれは意外な組み合わせだとは思わなかった。テニスのルールすらよく分からないけれど、しっくりくる気がした。

30分ほどが経過し、立海が勝利を収めた。すごい試合だったという薄っぺらい感想しか出てこないのだけれど、本当にすごかった。いつも物静かな柳生君が、そして校則を守らない仁王君が、あんな風に勝ちにこだわり試合をするなんて思ってもいなかった。
でも、ひとつ気付いたことがある。ワンゲーム終わるごとに、二人の“何か”が違っていた気がした。あの時と同じ違和感。きっとそれは柳生君であって“柳生君”ではなくて、仁王君であって“仁王君”でないのだ。

「練習試合終わったみたい!差し入れ渡しにいこうよ!」

コートで部員が整列し挨拶をしている。私たちと同様に試合を見に来た人たちもいて、その人たちはコートから出てきた部員たちに差し入れを渡していた。友達に捲し立てられるように私もその輪に加わる。今日はあの時のお礼をしなければとスポーツドリンクを買いなおして持ってきた。友達はお目当ての人のところへ一直線に進んでいき、私は一度人が引くまで輪の外れで待っていた。
人が少なくなったのを見計らって、両手いっぱいに差し入れを抱えている茶髪で眼鏡の彼に声を掛ける。

「試合お疲れ様」
「あぁ、あなたですか。試合を見に来たのですね」
「変装の練習成果が出てたね」
「は?」
「これあげる。この前はちゃんとお礼言えなかったけど、あの時助けてくれてありがとう」
「何の話でしょうか?」

遠くで友達が私を呼ぶ声が聞こえた。ぶんぶんと手を振る彼女はご機嫌で、きっとこの後スタバに誘われるんだろうなって思った。

「じゃあまたね。“仁王君”」

差し入れで溢れかえっている彼の腕の隙間に無理やりペットボトルを差し込んで私は友達の方へと向かった。後ろからクックックと喉を鳴らす笑い声が聞こえた。

“柳生君”ならそんな笑い方は絶対にしない。
そんな確信に近い答えをもらった土曜の午後だった。





「おはようございます」

読んでいた本から顔を上げてその声の主を見ると茶髪で眼鏡の男が立っている。今日返却予定で急いで読んでいた本を閉じた。
今日は分かりやすい。だって私が本を読んでいるとき、柳生君は声を掛けてこないのだから。

「おはよう。“仁王君”」

その完璧な笑顔を歪めることはなかった。というかさらに嬉しそうに微笑んだように見えた。
私に見破られることが分かっていたように、そしてそれが当たったことを喜ぶように。

「なぜ貴方には見破られてしまうのでしょうか」

他の人たちにはバレないように、柳生君になりきって彼は席に着いた。その堂々としたごく自然な行動を、私を除いては誰も本人ではないと疑わなかった。

「柳生君の後ろの席だからかな?彼は真面目でしっかりしてるから、一つ一つの行動が模範的で参考になるからつい見ちゃうの」
「それは羨ましい限りですね」
「羨ましい?」
「それほどまでに貴方は“柳生比呂士”を見ているということでしょう」
「見ているけど恋愛的な意味じゃないよ?」
「貴方は私のタイプだと思うのですが」
「何それ」

あまりにも大真面目に話すから笑ってしまった。つまり私が柳生君のタイプの女性だと?そんなことありえないし、彼の姿でその冗談はやめて頂きたい。
笑っていたら教室の扉の前に銀髪の生徒が立っているのが見えた。視界の端に彼の姿を収めて、目の前の眼鏡を上げなおした彼に教える。

「教室の前で仁王君が困ってるよ」

柳生君、もといい“仁王君”もその姿を見て席を立つ。

「まったく仁王君には困ったものです」
「柳生もいい加減にしんしゃい」
「それは誰の真似ですか?」
「誰の真似でしょうか?」

私がふざけてそう言ったら眼鏡の真ん中を抑えてクイっとあげて、その時に掌で隠すように私だけに分かるよう笑った。それは柳生君であったけれど紛れもなく“仁王君”の表情だった。そしてまた、誰が見てもそうであるように再び柳生君になって教室を出て行った。

朝のHRが始まる頃には本物の“柳生君”が戻ってきて、彼にしては珍しくバタバタと教科書を鞄から机の中へと移し替えていた。きっと今日の変装はお互い同意の上ではなかったのだろう。こんなに焦っている彼は珍しくて、その背中を見ながらこっそりと笑った。



「あの、読書中すみません」

授業終わりの休み時間、本の続きでも読もうかと思っていたら前の席から声が掛けられた。
本物の“柳生君”にしては珍しいなと思いながら彼に目線を合わせる。

「どうしたの?」
「変な聞き方になりますが、今朝の私は貴方やクラスの皆さんに迷惑をかけてはいませんでしたか?」
「大丈夫だよ。上手く変装できてたと思うけど?」
「あぁ、やはり貴方でしたか」
「え?」

柳生君は目を細めて笑った。安心して笑ったというよりはアテが当たったから、と言ったところだろうか。

「仁王君が先日の試合後にまたペテンを見破られたと言っておりましてね。どういう意味なのかと聞いたら私のクラスに天狐がいるとぼやいていました」

耳もなければ尻尾もない、神獣でもないただの人間に随分なあだ名をつけてくれたものだ。

「朝練後にロッカーを開けたら私の荷物が全てなくなっていまして、もしやと思い教室に行けば仁王君が貴方と楽しそうに話していて驚きましたよ」
「柳生君も大変だね。私は見ていて楽しいけど」
「そうですか。でも仁王君が変装してまで教室に忍び込むとは意外でした」
「そうなの?」
「このクラスには真田君がいますからね」

そういって彼は視線を一人の人物に移した。確かに風紀委員長である真田君が、仁王君のあの服装と髪をみて怒らないわけがない。同じテニス部なのだから仲がいいのかとも思っていたけれどそんなことはないらしい。

「私にバレたのが悔しくて、ひとクラス全員騙したかったのかな?」
「さぁどうでしょうか。ただ彼は意外にも恥ずかしがり屋で照れ屋ですから“私”にならないと話の一つもできないのかもしれませんね」

言葉の意味が分からずに何も言えなかった私に、彼は思い出したように鞄から紙袋を取り出した。そしてそれを私の前に差し出す。

「貰い物で申し訳ないのですが受け取ってもらえませんか?」
「なにこれ?」

紙袋から出てきたのはパッケージされた小さな液体が入った容器とストロー状の棒。小さいころに庭で遊んだシャボン玉セットだ。

「懐かしい!貰っていいの?」
「えぇ。あと、これはお願いになりますがそれを持って昼休み屋上に行っていただけませんか?」
「屋上?あそこは施錠されてるから入れないんじゃない?」
「今日は入れると思いますよ」

少しだけ意地悪な顔を入り混ぜてそう笑った。



昼休み、なんとか読み終えた本を図書室に返却してから私は屋上へと向かった。
屋上へと続く階段は俗世とはかけ離れたような異様な雰囲気がある。その固く閉ざされた冷たいドアノブを捻れば、意図も簡単に押し開かれた。
その扉の先には、抜けるほどの青空を背景にシャボン玉が風に吹かれて空を舞っていた。

「綺麗…」
「誰じゃ…!?」

思わずこぼれ落ちた言葉に重なるように声が聞こえた。屋上から、さらに梯子で上ったちょうど扉の上のところ。そこから私を見下ろすように一人の男が驚いた表情を見せていた。銀髪が風に揺れて、眩しい。

「仁王君だ」
「なんでお前さんがこんなところにいるのかのう」
「シャボン玉ふきたくなったからきた」

彼がいる場所まで行くために、梯子を上りながら私は答えた。

「誰かさんがいらんこと言ったみたいじゃ」
「隣いい?」
「もう来てるじゃろ」

そっぽを向いて寝ころんだ彼の横に座って紙袋からシャボン玉セットを取り出す。軽くふいたその先端からいくつもいくつもシャボン玉が作られ風に流されていく。小さい頃は息が続かなくて数個しか作れなかったのに、と思いながらさらにシャボン玉を作っていく。

「随分と楽しそうじゃのう」
「久しぶりだからかな」

彼は寝返りを打って風に流されるシャボン玉を見た。この時初めて、繕わない仁王君を見た気がする。

「よく飛ぶのう」
「仁王君はもうやらないの?」
「お前さんのを見てるからええ」
「もしかして今度は私になり代わろうとしてる?」
「こわーい天狐様には成れないのう」
「私、人間なんだけど」
「天狐様は美しくて千里眼の持ち主じゃ。まさにお前さんのことよ」
「どっちも当てはまらないよ」

仁王君は上体を起こしてうーんっと伸びをした。首を右に左に動かしてぽきぽきと鳴らしている。こんな固いコンクリートの上で寝てれば相応の状態であろう。

「枕んないと辛いのう」
「そうだね」
「そこ借しんしゃい」

そのままゆっくりと上半身が横になり、私の膝の上に頭を乗せてきた。それがあまりにもゆっくりで、あまりにも自然で、声のひとつもあげられなかった。
横になってすぐに寝るわけないのに、わざとらしく寝息なんて立てて。でも彼を起こそうとも思わなくて、再びシャボン玉をふいた。


その日、私は初めて授業をサボった。





最近、入れ代わりの頻度が増えていると思ったのは私の勘違いではなかったらしい。

「ここまでは順調ですね」
「さっき危なかったのによく言うね」

4限目の授業が終わり、そう言った柳生君の顔を見た。もちろん目の前の彼は“仁王君”で、朝からこの状態である。
最近では週に何回か、丸一日ではないけれど入れ代わってきている。

「貴方には感謝しています」
「こっちが冷や汗かいちゃうよ」

先ほどの休み時間、真田君に部活のトレーニングメニューを聞かれて困っているのを助けたのは私だ。どうしても今勉強を教えてもらいたいと無理やり柳生君を連れ去った私は、真田君の中で確実に変な女認定をされたであろう。
そんな私の苦労も知らずに彼は涼しい顔をしている。

「柳生君も困ってるよ。自分のクラスに戻ったら?」
「午後の授業までには戻りますよ。その前にお昼でも一緒にどうですか?」
「今の柳生君とは食べたくないです」

ムッとしながら少し嫌味っぽく言って席を立った。中身が仁王君であることはもちろん分かっている。だけど見かけを偽って話されればいい気はしなかった。最近話すようになったけれど、その時はほとんど柳生君の姿で信用されていない気がした。



「貴方には迷惑を掛けてばかりで本当にすみません」

昼休みの終わり頃、そう言って“柳生君”は私に謝った。少しだけ疲れたように肩を落としている。

「柳生君が謝ることじゃないよ」
「もしかして仁王君と何かありましたか?」
「え?」

そう言ってずれかけた眼鏡を掛けなおす。

「なんだか彼の元気がないようでしたので…私の思い違いかもしれませんがね」

5限目の鐘が鳴り、会話はそのまま打ち切られてしまった。
もしかしたら言い過ぎてしまったかもしれない。でも、またきっと彼は何食わぬ顔で柳生君となって私の前に現れるだろう。その時に謝ろうと心に決めた。





今までの入れ代わりが嘘だったかのように、ぱったりと“仁王君”は姿を見せなくなった。
他の人たちからしてみれば何も変わらない今まで通りの日常であるのに、私にとってはいつもの“柳生君”がいることに違和感しかなかった。

「何か困りごとでも?」

そんな私の気持ちが顔に出ていたのか柳生君に声を掛けられた。最近、“仁王君”が柳生君に成り代わらないからだよ、なんて失礼なことを言えるはずもなく、私は苦笑いをした。
でもそんな気持ちまで見通すように柳生君は目を細めた。

「最近、仁王君に代わって欲しいと言われなくなりました」
「そうなの?」
「はい。以前は毎日毎日言われて大変でしたけどね」
「なんで言わなくなったんだろうね」
「きっと“本物”じゃないとダメだと思ったのでしょう」
「どういう意味?」
「本当の自分を知ってもらうには、どんなに恥ずかしくてもかっこ悪くても繕ってはいけないと彼は気付いたかもしれませんね」

予鈴がなり、昼休みを終えたクラスメイトが教室へと戻ってくる。すでに席についていた私は、机の中から教科書を出すだけでよかったのにそんなことはせずに立ち上がった。

「どうされたのですか?」
「先生にお腹痛いから授業サボるって言っといてもらっていい?」
「ちゃんと腹痛で授業を“休む”と伝えておきますよ」

少しだけ笑いがこもった言葉に後押しされて、私は教室を飛び出した。



閉ざされた扉は、ドアノブを捻ればいつかのように簡単に押し開けられて彼がいることを教えてくれた。
でも肝心のその姿は見えなくて、すぐそばの梯子をよじ登ればごろりと寝転がっている彼がいた。今回は本当に寝ているのか私に気付かなくて、その顔に影を落とせばぱっちりと瞼を開けて私の姿を見た。

「おまっ……!なんでここに…」
「お腹痛いから薬もらいに来た」

仁王君がこんなに驚くなんて、あの柳生君でも見たことがないかもしれない。
がばっと起き上がった彼の髪はぼさぼさで、わずかに吹く風がそれを笑うように彼の髪を揺らしていた。

「薬持ち歩いとらんのか」
「忘れちゃったの」

お母さんに散々文句を言われ、あの日以来ポーチに薬を常備している。でも今月のアレはまだきてなくて、お腹なんて全く痛くないのに私はそう言った。
彼はごそごそとポケットを探って半透明の緑の容器を取り出した。それは長細くて、ビンラムネの容器みたいな形で、中には錠剤のようなものが入っていた。
でもこの正体を私は知っている。小さいころ、スーパーで親に買ってもらったラムネの駄菓子と一緒だ。まだ同じものが売っているなんて思いもしなかった。

「これラムネだよね?」
「そうじゃ」
「もしかしてあの日くれたのもこれ?」
「そうじゃ」

はぁ〜っと盛大なため息を付いた私を見て彼は笑った。
それは本物の“仁王君”の声で本物の“仁王君”の顔だった。

「仁王君が笑ったとこ初めて見た」
「今までも笑っとったぜよ」
「柳生君でじゃなくて“仁王君”が笑ったところだよ」

そういって彼を見るとまたそっぽを向いて寝ころんだ。体を思いっきり小さく丸めて昼寝する猫のようにコンパクトに収められた背中を私は揺すった。

「ずっと思ってたんだけど、なんで“仁王君”の時は私を見て話してくれないの?」
「………じゃから」

その言葉が聞き取れなくて彼の顔を覗き込むように見た。そしたら大きな手でその顔を隠すものだから腕を掴んで引きはがした。
でも私が想像していた表情とは全く別のものがそこにはあった。手の下の彼の顔はリンゴのように真っ赤で、それが信じられなくて私は数回瞬きを繰り返した。

「え?」
「おまんの事が好きじゃから!普段の俺だと見られるの恥ずかしのうて柳生になっとったんじゃ!」
「だからって柳生君にならなくても…」
「傍からから見たらおまんと柳生のほうがお似合いじゃけ!天狐様なのにそんなことも分からんのか!」

だから私は神獣じゃなくて人間なんだって。

彼は私から腕を振りほどいて、先ほどよりもさらに小さく小さく丸まった。
その縮こまった背中を見つめながら私は口を開いた。

「仁王君と会って一か月も経ってないよ」
「時間じゃない。おまんにペテン見破られてから気になり始めて、気付いたら好きになってたぜよ」
「ありがとう。でも、私はまだ仁王君の事が好きかどうか分からないや」

その言葉にピクリと彼の肩が揺れた。その肩に手を乗せて、子猫を撫でるように私は手を滑らせた。

「私にもっと“仁王君”のこと教えてよ。返事はもう少し先でもいいですか?」

彼がゆっくりと起き上がり、私の手が滑り落ちる。
そして彼は、この時初めて私と向き合って真っすぐに目を見た。わずかに充血している目が彼を“本物”だとより私に実感させる。

「わかった。じゃあそれを飲みんしゃい」

先ほど彼から渡されたラムネの容器を指さしてそう言われた。いざそれがラムネと言われれば飲むのは躊躇われるのだけれど、彼が自分の飲みかけのペットボトルの蓋を開けてそれまで差し出されてしまえば断ることなんてできなかった。
半透明の緑の容器から二粒取り出して、渡されたペットボトルの水で一気に流し込む。あの時は気付かなかったけど、わずかに舌に残った甘さがそれがラムネだと教えてくれた。

「飲んだぜよ?」
「ちゃんと飲んだよ」
「それ、ラムネじゃないぜよ」

先ほどまで充血していた目が嘘のようにキラキラと輝いて楽しそうにそういった。

「嘘。ラムネでしょ?」
「惚れ薬ぜよ」


少し恥ずかしそうに言った彼の言葉に笑う私の手の中で、容器に入ったラムネがカラカラと揺れた。
私がペテンを見抜くことができるというなら、きっと彼はそのペテンをも“本物”にしてしまうのだろう。

そして惚れ薬の効果は、きっと遠くない未来にやってくる。



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