夏の終わりの海は笑う

夏は嫌いだ。


とにかく暑く、ギラギラと輝く太陽は私の肌を真っ赤に焼く。
肌は火傷したかのようにヒリヒリと痛くなり、数日はお風呂に浸かるのも億劫になる。

だから夏の終わり、海に近い別荘に訪れても私が海で泳ぐことはなかった。
砂浜へと下りるコンクリート階段の横には南国を思わせるような木が植えられている。その木陰に腰を下ろし絵を描きながら過ごすのが私の夏の過ごし方となっている。

夏は嫌いだが海は好きだ。
ギラギラの太陽が海を輝かせ、水しぶきが宝石のように煌めいている。
砂浜はここから見ると砂糖の様に真っ白でサラサラだ。

その景色を24色の色鉛筆でスケッチブックに描いていく。
100色の色鉛筆も持っているけれど、親には荷物になるからと言われ持ってくるのを諦めた。

色鉛筆を置き、スケッチブックを持ち上げて実際の景色と見比べた。青は海の青より明るすぎだし、白は砂浜の白よりはくすんでいる。
当たり前のことだけど、どこか納得ができない絵。
私の腕ではこれが限界なのだろうか。

「綺麗な絵だね」

後ろから声を掛けられ、思わずスケッチブックを体の前に隠し振り向く。
そこにはおかっぱ頭でにっこりと微笑む子が立っていた。私が思っていたことと正反対の事を言われ、それを素直に受け入れることができず瞬きを繰り返す。

「ごめん、勝手に見て…でもすごく綺麗だから気になってしまったんだ」

糸目をさらに細めたその子の身長は私より低く、声は女の子にしては少し低いような気がした。
ギラギラと身を焦がすような太陽の下にいるにも関わらず、その子は涼しい顔をして立っている。彼女の周りだけ気温が低いみたいだ。

「あ、ありがとう」
「もう一度見せてもらってもいい?」
「どうぞ」

彼女は木陰になっている私の隣に並んで座った。
その前にゆっくりとスケッチブックを手渡す。自分では納得していない絵だけれども、褒められて嬉しくないわけではない。

「うん。やっぱり綺麗だ。本物の海より綺麗」
「ありがとう。でも色合いがちょっと変じゃない?」
「現実とは違うけれど、この絵のように君の目に映っていたのならやはり綺麗だと思うよ」



それが彼女との出会いだった。
私と同じく、二泊三日でこの近くの別荘地に来ているとのこと。
彼女も日焼けをすると肌が赤くなる体質らしく、潮風を感じながら本を読むのが好きらしい。

毎年、一人で過ごす夏が今年は二人で過ごす夏となった。
彼女は本を読んで、私は絵を描く。
そしてどちらともなく会話が始まり、日が暮れるまで一緒にいた。

楽しかった。
だから私たちは来年も会おうと約束をした。





今年は去年を上回るほどの猛暑となった。

夏は嫌いだ。
でも今年の夏は楽しみだった。

別荘について、荷物からスケッチブックと色鉛筆を持ち麦わら帽子を被って海へと向かった。
去年と同じ海岸へと下りるコンクリート階段横の木の木陰。
すでにそこには人が立っていて、帽子が飛ばないように気を付けて駆け出した。

でもそこにいたのは私が去年出会った女の子ではなかった。
私が違和感を覚え、スピードを落とす前に振り返ったその人と目が合う。

「久しぶりだな。元気だったか?」

私よりも低い声。髪は短く、身長は私より高い。でも身にまとう空気は涼し気でその人の周りだけ気温が低いように思えた。

「えっと、久しぶりって…?」
「去年会ったこと、忘れたのか?」

去年に会った子は、おかっぱ頭で身長は私より低くて、その子の周りだけ気温が低いような雰囲気を持っている女の子だった。
目の前にいるのはどう見ても男の人。でも彼の雰囲気はどこか懐かしい感じがした。

「だって…男の人?」
「あぁ」
「名前だって“れんげ”って言ってたよね?」
「俺の名前は“れんじ”だ。おそらく聞き間違いだろう。君が勘違いしていることには薄々気付いていたが言い出せなかった。すまない」

言われてみればそうだった気がしなくもない。
しかし、少なくとも一年間は彼を女の子だと思って接していたのだ。
今さら本当に事を言われようとも、すぐにそれを受け入れることなんてできなかった。

「私こそ勘違いしてた。ごめんね」
「よく間違えられていた。気にしなくていい。さぁ座ろうか、いつものように」
「う、うん」

固まっていた私に声を掛け、彼は木陰へと腰を下ろした。それに続き、太陽の日差しから避けるように私も並んで座る。
見ればみるほど、昨年会った子とは思えない。背が高く、細身だが服の袖からのぞく腕は筋肉質だ。改めて彼が男だと実感すると、少し緊張してしまう。

「今年はこれを持ってきた。どうぞ」

彼への接し方が分からなくて視線を彷徨わせていれば、一冊の文庫本が差し出された。
表紙の文字を見て去年の話を思い出す。彼が一番好きだと言っていた本。あらすじを聞いて読んでみたいと言った私の言葉を覚えていたらしい。

「借りていいの?」
「いや、もしよかったら貰ってくれないか。俺のお古で申し訳ないが」
「一番好きな本なんだよね?それはさすがに悪いよ」
「だからこそ君が持っていてくれた方が俺は嬉しい」
「じゃあ…ありがとう」

本を受け取った時、彼と目が合った。
その時の優しい顔つきは、紛れもなく去年と同じものだった。
でもやっぱり男の人なんだと意識してしまうと恥ずかしくって、麦わら帽子を深く被り直した。

「私も、渡したいものがある」

私は思い出したようにスケッチブックの間に挟んで持ってきた絵を差し出した。
去年、家から海は見えないから庭先のツツジを描くことが多いと言えばそれが見たいと言われたのだ。
去年の事なんて覚えていないかもと思ったけれど、あの本を持って来てくれたくらいだ。覚えているかもしれない、と帽子を僅かにずらして盗み見れば彼は優しい目で絵を見ていた。

その顔を見て、心臓が波打つのを感じた。まるで体の中身が海になったように、一定速度で心臓が波打たれる。

「去年の約束を覚えていてくれたのだな。やはり、君の描く絵は綺麗だな」
「それ本のお礼として貰ってくれないかな。足りないかもしれないけど…」
「良いのか?」
「もしよければだけど…」
「ありがとう」

彼は笑ってくれて、でも私はやっぱり恥ずかしくて帽子のつばを下にさげた。

相変わらず心臓の音がうるさい。
目の前の海はあんなに穏やかなのに、私の中は大嵐だ。


隣からは本のページをめくる音が聞こえる。
海からは波の音が届いた。
私はスケッチブックに色鉛筆をこすらせて絵を描いていく。

少しだけ成長した私達。
それでもこの光景は去年と同じで、次第に穏やかな気持ちになっていった。





「明日もここに来るか?」
「うん」
「そうか…」

徐々に日が傾き始め、海を、砂浜を橙色に染め始めた。
ここに来た時間はお昼過ぎだったけれど、それにしても時間の流れが速いように感じられた。

夕日が木陰にいた私達の足元も染め始めた。それをじっと見ていたけれど、彼のトーンが低くなって私は帽子をずらして顔を上げた。

「来ないの?」
「いいのか?」
「もちろんだよ」

私がそう言えば、彼は安心したように眉尻を下げた。

「俺が男だと知って嫌われてしまったのかと思っていた。でも、そうか。うん」

彼は口に手を当て一人納得したように頷いた。
今年初めてじっくりと見た彼の顔はとても綺麗で、心臓が波打ったのと、おまけに身体が熱くなるのを感じた。
夕日でも日に焼けるのかな、と思いつつ私はまた帽子を深く被った。

二人で立ち上がって木の下から出た。夕日は橙色から赤色に変わって、青かった海をその色に染めていた。

「じゃあ、また明日」

私とは反対方向の帰り道へと足を向けた彼がそう言った。
帽子のつばを持ち上げて彼の背中を見る。やっぱり私より背が高くて、筋肉質で、夕日に染まる彼の姿はとても絵になった。

「蓮二君!また明日」

その時、私は初めて彼の名前を呼んだ。
蒸し暑い空気を吸いこんで、波の音に消されないくらい大きな声で叫んだ。

そうしたら彼は驚いたように振り返って、波の音にかき消されないくらいの声で笑った。





朝は少しだけ涼しい気がする。
しかし、残暑と言えどもまだまだ元気な太陽は容赦なく熱を地上に送っていた。

麦わら帽子をかぶって昨日と同じ場所に向かう。
道なりのアスファルトからはサンダルから熱が伝わってきそうなほど黒焦げに焼けていた。でもスカートの裾から抜ける風が体温を落ち着けた。

今日は彼より早く来たかったのに、待ち合わせの木陰にすでに彼は腰を下ろしていた。
潮風が髪を撫で、海を見ている彼の横顔はとても絵になった。

「おはよう」
「おはよう。早いね」

昨日に比べたら彼の声の低さや、その整った顔立ちは見慣れたものの、やっぱり少し緊張する。
帽子をまた深く被り直して彼の隣に腰を下ろした。

「今日も海の絵を描くのか?」
「うん。何回描いても飽きないんだ」
「そうか。また描けたら見せてもらってもいいだろうか?」
「うん」

私がスケッチブックを広げれば、彼は持って来ていた本を広げ、視線を落とした。

隣からは本のページをめくる音が聞こえる。
海からは波の音が届いた。

少しだけ成長した私達。
去年よりも木陰のスペースが狭く感じたけれど、彼の隣は心地よくて安心できた。

でも、何でだろう。あまり絵の進みがよくない。
一年前からここに来るのを楽しみにしていて、早く海の絵も描きたいと思っていた。

そのとき、先ほど見た彼の横顔が不意に思い出される。絵になるような彼の横顔が頭に浮かんだ。
もう一度その表情を見たくて、僅かに帽子をずらし盗み見ようとしたら彼と視線が交わった。

「どうした?」
「あ……えっと、蓮二君は何の本を読んでいるのかなって思って」

心の準備なんてできていなかった私は、そんな言葉を口にした。
彼は読んでいた本に栞を挟み、私に差し出す。その表紙の文字を読むときにも、私は帽子を被り直した。

「“浮雲”?」
「あぁ、二葉亭四迷という作者の作品だ」
「どんな内容なの?」

本をパラパラとめくってみるけれど、小さい文字がたくさん書いてあって読んでいたら眠くなってしまいそうだ。

「そうだな…。一言でいうのは難しいが恋愛ものではあるな」
「蓮二君も恋愛に興味があるんだね」
「意外だったか?」

少しだけ可笑しそうに彼は言った。その手元に本を返して帽子を深く被る。
意外といえば意外かもしれない。そういうことに時間を費やすよりも本を読んでいることの方が好きなのかなって。

「少しだけ」
「俺も男だ。好きな人と会えれば嬉しいし、どんな話をすれば喜んでくれるのか考えることもある。あと、顔をよく見て話したいとも思うのだが」

その言葉と共に、不意に帽子で隠していた顔を覗き込まれた。
薄っすらと開かれた、綺麗な瞳と目が合って息が止まった。

「そ、そうなんだ」

また心臓が強く波打つ。今日も私の中の海は大嵐らしい。

「お前は今、好きな人はいるのか?」
「いない、かな?」
「疑問形か?」
「蓮二君はいるの?」

彼は視線を外さなくて、だから私も見つめ返すことしかできなくて、言葉でその場を取り繕うしかできなかった。

今年の夏は本当に暑い。木陰に居ても日に焼かれているようだ。

「あぁ、いるよ」
「……どんな人?」

また強く心臓が打ち付けられる感覚がした。
波に打たれるというよりも、飲み込まれるような、そんな感じだ。

「一緒に居て心が穏やかになれる人だ。ただ恥ずかしがり屋なのが難点なのだが」

静かに話す彼の言葉を聞いて、帽子を深く被る代わりにつばをぎゅっと掴んだ。

「恥ずかしがり屋なんだ」
「あぁ。照れている顔も俺は見てみたいと思うのだが」
「そっか……」


彼はまた静かに本を開き、ページをめくった。
紙のこすれる音がする。

相変わらず太陽はギラギラしてて、その光を受けて海は美しく輝いていた。
でも描きかけの絵に再度色を乗せることができなくて、私は海を見ることしかできなかった。





「蓮二君、私一度別荘に戻るね」
「あぁ。またここに来るか?」
「午後からは家族でこの近くを出掛けるから帰ってくるのは夕方かも」
「そうか…」

ゆっくりと立ち上がった。
彼の傍から離れると、夏の暑さが急に感じられた。

まだ彼の隣に居たかった。
何を話せばいいのか分からなくて、顔もまともに見れなくて、でも彼と一緒にいたかった。

「俺は明日の朝ここを去る」
「うん…」

手にしたスケッチブックをぎゅっと握った。
本当は帽子を深く被りたかったけど、会えるのが今年最後だと思うと彼の顔を目に焼き付けておきたかった。

「今夜またここで会えないか?」

低く、落ち着いた声で発せられたその言葉にまた心臓が波打った。
でもそれは優しく心臓を撫でるように波打つものだから、くすぐったくなった。

「うん。分かった」
「約束だ」
「約束ね」


頭上の太陽はギラギラと熱を放っている。
今年の夏は身も心も焦がしてしまうほど暑いみたい。





夏は嫌いだ。
でも夜は好きだ。

太陽と入れ替わるようにお月様が顔を出して、優しく海を照らす。
海もその優しさに応えるように心地よい波の音を送り、癒しを与えてくれる。

外灯は少ない歩道だったけれど、満月が私の行く道を教えてくれたから迷うことはなかった。
昼間に別れた場所まで行けばすでに彼はそこにいて、月明かりに照らされる蓮二君は絵になった。

「こんばんは」
「こんばんは」

夜は私から声を掛けた。
麦わら帽子を被ってこなかった分、彼の顔がはっきりと見えた。
熱を帯びかけた顔を夜風が撫でて冷ましてくれた。

「浜辺を散歩しないか。夜だから暑くはないだろう」
「うん」

いつもは使わない浜辺へと続く階段を下りて、真っ白の砂浜に踏み入れた。サンダルの隙間から砂が入り、私の足の裏をくすぐる。
砂に足を取られないように海へと近づいて行った。
海には夜空が映っていて、すくいあげられそうなくらい星が水面で揺れていた。

「それ以上近づくと危ないぞ」
「そうだね」

波で色が変わってしまった砂浜の境界線ぎりぎりを二人で歩く。
少しだけ遠慮がちに斜め後ろを歩いていれば、彼はふと歩みを止め、空を見上げた。
彼に追いついた私が気になってその横顔を見上げると不意に目が合った。

「“月が綺麗ですね”」

月ではなく、真っすぐに私を見てそう言った。
恥ずかしくなって、でも帽子がない私は彼の視線を避けるように空を見上げて月を見た。
黄色のような白のような、そんなお月様が星空の真ん中にぽっかりと浮かんでいた。

「本当だ。まんまるで綺麗だね」
「君には、少し早かったかな」

彼が私の顔をまだ見ていることに気付いていた。
でもやっぱり恥ずかしくて私は逃げるように足を前に踏み出した。
その時、身体の重心が傾いた。直前、サンダルで何かを踏んだ感触があった。たぶん貝殻だったんだと思う。

「あっ……」

私が体勢を立て直す前に、強い力で引き寄せられて体が反転した。
一瞬の出来事で声を出すのも忘れてしまった。でも気付いたら目の前には蓮二君の顔と、頭上には真ん丸なお月様が優しく私達を照らしていた。

「月が綺麗ですね」

お礼を言うよりも先に言葉がこぼれ落ちた。
蓮二君の言葉を繰り返すように私は呟いた。

そうしたらまた腕が引き寄せられて、彼の胸に顔が埋まった。海の香りよりも彼の香りが鼻腔をくすぐった。

「あぁ。……死んでもいいくらいに、な」

耳元で囁かれたその言葉は波の音にかき消されずに私に届いた。
心臓が波打った。でもそれをうるさいとは感じなかった。

彼の腕の力が緩んで、ゆっくりと顔を上げる。
そうしたら、彼の頬っぺたはほんのりと血色が良くなって私の顔も熱くなった。

「あの、助けてくれてありがとう」

支えてくれていた彼の腕から離れ、自分の足で体を支える。それでも、砂浜にいるせいか足元がふわふわした。

「またバランスを崩すといけない。手を繋ごう」

その言葉と共に繋がれた手に私は力を込めた。
空を見上げたらお月様は相変わらず私達を照らしている。けれど海に映ったお月様は波が引くたびに顔をゆがめて笑っていた。

「蓮二君、来年も会える?」
「もちろん。約束だ」
「約束ね」





蓮二君に近づきたくて私は本を読むようになった。
そして知ってしまった。“月が綺麗”という意味を。

あぁ、どうしよう。
夏は嫌いだ。
でも彼に会える夏がひどく待ち遠しい。


back

top