夜のおはよう

18時に終礼をし、部活の片づけをする。
20分ごろ職員室へ部室の鍵を返し、30分までには自転車に乗って学校を出る。

大通りの赤信号に引っ掛かったらいつもより遅い証拠。
そうしたら自転車を漕ぐ速度を速める。

駅前の少し外れにある5階建てのビルが私の通っている塾。
正面玄関を通り過ぎその裏手の駐輪場に自転車を置いて、教室に向かうより先に化粧室に駆け込む。

制汗剤を制服の隙間にスプレーし、髪型を整えたところで時刻は18時50分。
腕時計で時間を確認し、3階の教室に向かう。

そうするとね、必ず彼に会えるの。

「おはようございます」
「おはよう、柳生君」

待ち合わせをしたかのようなタイミングで、彼はいつものように私に挨拶をした。
表玄関側にある階段から教室にやってくる、茶髪で眼鏡で優しい男の子。
日が暮れて、カラスがお家に帰ろうとしていても柳生比呂士との会話は「おはよう」から始まる。

「先日出された課題は難しかったですね」
「柳生君もそう思う?私、最後の問題分からなかったよ」

ふたりで教室に入り、並んで席に座る。
日付が変わるまであと5時間くらいしかないのに、私の一日は今から始まるような気がする。だって柳生君と会えるのは塾でしかないのだから。

「応用問題でしたからね。公式も二種類使っていたのでなかなか意地悪な問題でした」
「そうだったんだ。途中までは頑張ったんだけど、最後がよく分からなくて…教えてもらってもいい?」
「ええ。もちろんいいですよ」

先生が来るまでの残り数分。この時間が一日で一番幸せな時間。
塾は週に三日通っているけれど、彼と同じ授業は週に一度だけだ。

「これでここの値が導き出せるので……」
「あ、じゃあこの公式に当てはめれば分かるのね」
「その通りです」

私が答えを導き出せば、彼は自分のことのように喜んでくれてその優しい笑みを私に向けてくれる。
あぁ、この公式は一生忘れない。

教室のドアが開く音と、革靴が床を鳴らす音。先生が教室に入ってきたと分かれば、お話もピタリとやめて授業が始まる。
みな黒板とノートに視線を行き来させ、先生の声とシャープペンを走らせる音だけが聞こえる。


来年は受験なんだから、と親に無理やり塾に入れられた中三の春。
初めは塾独特な雰囲気が嫌いだった。強制的にやらされているような、息がつまるような教室。
しかも初日に数学の小テストをやり、隣の席同士で採点となった時点でもうここには来たくないと思った。先生は別として、生徒の、しかも話したこともない子に採点されるのは恥ずかしかった。

小テストなんてマルかバツか付けるだけで良かったのに、隣の席の子はわざわざ公式や計算ミスを用紙に書き込んで、先生並の採点をしてくれたのを今でもはっきりと覚えている。

それが柳生君との出会いだった。

そこから何となく話すようになって、挨拶もするようになった。
苦手だったこの場所が好きになった。
それは柳生君に会えるからで、だからつまりは私は彼が好きなのだ。


黒板の公式をノートに写すふりをして、隣の席の彼を盗み見る。
普段は眼鏡を掛けているから分かりづらいけど、彼の睫毛は意外にも長く、瞳は大きい。この角度からじゃないとそれは分からないから、私だけが知っていると思うとちょっと嬉しい。

無機質なチャイムが響き、先生がチョークを置いた。これで来週提出用のプリントが配られて授業は終わりだ。
段々とお喋りの声が大きくなり、教室からは人が出ていく。彼がノートを写し終えたことを確認して私は話しかけた。

「柳生君は偉いね。内部進学なのに塾に通ってて」
「そんなことはないですよ。貴方は来年受験ですよね。どこの学校を受けられるんですか?」

柳生君の純粋な質問に、背中を伝い嫌な汗が流れるのを感じた。
私が目指している高校、それは立海大付属高等学校だ。もちろん柳生君が進学する学校だからという下心はある。しかし、立海を外部受験で入学するのはかなり大変らしく、正直いまの学力では難しいのだそうだ。

「えっと〜…実はまだ迷ってて……」
「そうですか。焦って決めるのもよくありませんが、目標があったほうが貴方にとってもいいでしょう」
「そうだよね。早く決めるよ」

合格するかどうか、いや、受験することすら許してもらえるかどうかの学力だ。こんな状態では「立海を受ける」なんてことはとてもじゃないが言えない。

苦笑いを続けながら階段を降り、一階のエントランスまで来た。私は自転車置き場に行くため、ここで表玄関から出る柳生君と別れる。

「ではお気をつけてお帰りくださいね」
「ありがとう。ばいばい、柳生君」
「はい。さようなら」

朝の挨拶から始まって、お別れの挨拶で別れる。
一緒にいる時間はわずかだけれど、私の一日は塾で始まり、塾で終わるのだ。

おはようの挨拶が、朝にできたらいいのに。
そんな夢を見ながら私は自転車をこいで家に帰るのだ。





今日は土曜日だけど、学校へ行くときと同じ時間に起きて塾へと向かっている。
なぜなら特別講義というものを受けることになっているからだ。次の模試対策の講義で、丸一日使って五教科を教えてくれることになっている。

そして今日は自転車ではなく、仕事が休みだからと行って送ってくれることになった母の車に揺られている。
せっかくの休日に塾。しかも今日は柳生君に会えないとか辛すぎる。
けれど、来年彼と同じ学校に通いたいのだからそんなことも言ってられない。



お昼を挟んで授業を受けて、帰る頃には外は茜色に染まっていた。それを見たら疲労感が肩にのしかかったような気がした。
正確には鞄の中身が重くなったのだが、帰ったら今日の復習もすることを考えるとため息が出てしまう。

表玄関のエントランスに置かれているベンチに座りLINEを立ち上げる。お母さんに迎えに来てとメッセージを送って、ふぅっと息を吐き出した。
少しだけ疲労感が抜け出たような気がした。

「今お帰りですか?」

今日、聞くはずのない声が聞こえ、驚いて顔を上げる。
表玄関から入ってきた男の子は、茶髪を茜色に染めて眼鏡をくいっと中指で上げた。

「柳生君!どうしたの?」

まさか会えるとは思っていなくて、勢いよく良く立ち上がった。
私の中の疲労感は全てどこかへ飛んで行ってしまったように体が軽い。

「こちらの方に用があって寄ったんです。隣、いいですか?」
「うん!いいよ」

柳生君からそんなことを言われたのは初めてで、すぐに二つ返事で頷いた。
いつもは教室でしか隣に座れないのに、ベンチで並んで座るのは少し緊張する。

「あ、柳生君おはよう」
「おはよう?今は夕方ですよ。面白い方ですね」

何を話そうか迷っていて出た言葉は、いつも通りの挨拶でしかなかった。それに対しても、時間は違えど彼もそう返してくれるものだと思っていた。
でも彼の口から出たのは“あたりまえ”の言葉と、乾いたような笑い声だった。

先ほどまでは逆光と緊張で彼の顔をじっくりと見れたものではなかったが、改めて顔を見るといつもと違う気がする。

「柳生君?」
「はい。なんですか?」
「本当に柳生君だよね?」
「…プリ」

普段の彼からは絶対に聞けないような不思議な言葉が発せられた。
彼はエントランスをぐるりと見渡して人がいないことを確認すると、眼鏡をはずして茶色の髪を引っ張った。そうしたらするりと外れて、その下からは綺麗な銀髪が現れた。

「なんじゃ。もうバレてしもうたか」
「だ、誰ですか!?」

ベンチの端に寄り、彼と距離を取る。
銀髪のその人は息を吐き出してネクタイの結び目を緩めた。そうしたら面白そうに私を見てにやりと笑った。

「柳生と同じ部活の者じゃ」
「お名前は?」
「仁王。よろしく〜」

にっこりとひらひらと手を振った仁王という人を、まだ信用できずにいた私はベンチの隅に座ったままだった。
かたや仁王君は嘘みたいな人懐っこい笑みを浮かべている。ますます胡散臭そうだ。

「柳生とは仲良くやれとるんか?」
「隣の席だから良くしてくれてるよ。あの、私のこと知ってるの?」
「おん。柳生から聞いとったからの」

柳生君が私の事を仁王君に話している——そう考えると心臓の音が早まった。

嬉しいと思う反面、ちょっと不安なこともあった。もしかしたら柳生君の中で勉強ができない子って思われてたら嫌だなって。事実ではあるけれど、その印象しかないのは悲しい。

「柳生君、なんて言ってた?」
「友達ができたから塾行くのが楽しいと言ってたのう」

友達と言ってくれて、しかも楽しいとまで思ってくれてるとは思いもよらなくて、小さくガッツポーズをした。
顔がにやけるのを何とか抑えていたら、そういえば…と彼は話を続けた。

「お前さん来年受験じゃろ?どこの学校受けるのかのう」
「どこでもいいでしょ」
「まぁお前さんのことじゃ、どうせ柳生と同じとこじゃろう」
「え!?」

分かりやすくも口からは裏声が出で、それを聞いた仁王君は喉を鳴らして笑った。
でも不思議と緊張が解け、私と彼との距離は少し縮まった。

「分かりやすいやつだのう」
「……お願いだから柳生君には言わないでね」
「どうしようかのー」

柳生君には私が立海を受けたいとは言えない。
しかし、私がお願いをしたにも関わらず仁王君は面白そうに私の顔色を伺っている。やはり先が読めない人だ。

「私の学力だと受験できるかどうかすら怪しいの」
「なら柳生に勉強教えてもらえばええ」
「柳生君だって自分の勉強があるんだよ。そんな自分勝手なお願いはできないよ」

外からエンジン音が聞こえ、エントランスのガラス扉からは薄ピンク色の車が見えた。

「お母さんが来てくれたからもう行くね」
「そうか」
「私の受験の事は言わないでね」
「またのー」

去り際に言った私の言葉なんか気にも止めず、彼はひらひらと手を振って私を送り出した。

見かけだけではとても柳生君の友達とは思えなかった。けれど、どこか彼の雰囲気は柳生君に近いものがあった。

授業内容を詰め込んだ頭の隅っこで、もやもやとした塊を抱えたまま、私は車に乗り込んだ。





化粧室の鏡で前髪を整えて、時刻は18時50分。
それを確認して教室へと向かえば、やはり彼に会えた。

「おはようございます」
「おはよう、柳生君」

いつも通りの挨拶をして、私達は教室へと入る。
私は気づかれないように、柳生君の顔を盗み見た。今日は本当の柳生君で合っているのだろうか。仁王君の事があったからか、少し警戒してしまう。

「そういえば、土曜はいかがでしたか」
「え?」

仁王君との事を考えていた私は、土曜という単語に驚き変な声を出してしまった。そうしたら不思議そうに私の顔を覗き込むものだから、これは本物の柳生君なんだと確信できた。

「特別講義に参加すると言っていたので、どうだったのか気になっていたんです」
「えっと、今までの授業の復習もできて良かったよ。ただ英単語とか忘れてるのもあってまた勉強しないといけないなって思って……」
「なるほど、そうでしたか」

彼は眼鏡をかけ直して、席に座った。いつも通り、その隣に私も座る。

「他に分からない教科はありましたか?」
「う〜ん…一番苦手な数学は柳生君にも教えてもらえるし、次は英語がちょっと怪しいかなって…」

こんな話ししかできない自分が情けなくなる。もっと私に学力があれば柳生君ともう少し賢い話ができただろうに。

「なるほど…」

柳生君の眉をひそめた顔が視界の端に映った。もしかしたら呆れられたかも。
そんなことを考えていれば、教室の扉が開き先生が入ってきてそのまま話は終わってしまった。


その日の授業は柳生君の顔を盗み見ることなく、集中的に取り組んだ。
最低限“友達”だと思ってくれている以上、今の関係を大切にしていきたい。
いずれ自分の想いを伝えられたらとは思うけれど、柳生君と同じ高校に行かないことには現実に叶えられそうにない。


「では、お気をつけてお帰りくださいね」
「うん。ばいばい、柳生君」


今はこの挨拶ができるだけで十分だ。





先日、学校で受けたテストが帰ってきた。特別講義前に受けたものであったが、それはもう酷い結果であった。
数学はなんとか平均点は取れていたものの、他は5点以上足りていない。英語に至っては見るも無残な結果で、答案用紙を握る手が震えた。

重い足でなんとか自転車をこぎ塾へと向かう。
身だしなみを整え時刻は18時50分。


「おはようございます」
「おはよう、柳生君」

彼の顔を見ると少しだけ沈んだ気持ちが回復した。
でも上手く笑うことはできなくて、彼に気付かれないように小さくため息を付いた。

「あの、もしよろしければこれ使ってください」

彼は一冊のノートを差し出した。気を取り直して受け取ったノートをパラパラとめくると英単語とその日本語訳、また文法も綺麗にまとめられていた。

「私なりにですがまとめてみました。貴方のお役に立てればいいのですが…」
「柳生君が作ってくれたの?」
「えぇ。英語が分からないと言っていたでしょう」

柳生君が私の為に作ってくれた。
それだけで沈んでいた気持ちが一気に明るくなった。

「嬉しい!ありがとう。英語の勉強も頑張るね」
「また困ったことがあれば言ってください」

優しい笑顔を私に向けた。
もっともっと勉強して必ずいい点数を取ってやる。
沈んでいた気持ちに活を入れて、貰ったばかりのノートに目を通した。

綺麗な筆跡とカラフルなマーカーペンでまとめられた英文を見ていたら、数学の次に苦手な英語が好きになれそうな気がした。

彼と同じ高校に行けることが、少しだけ現実味を帯びたような気がした。





夏が終わり、部活動を引退した。

17時まで図書室で勉強して、10分ごろに自転車で学校を出る。
大通りの交通量が増える時間だから、以前よりも自転車をこぐ速度は落ちる。

正面玄関を通り過ぎその裏手の駐輪場に自転車を置いて、手ぐしで髪を整えながら職員室に駆け込む。
そこから先生に分からない問題を質問して、一番に教室を開けてもらい席に着く。
授業が始まるまでは間違えた問題の復習とテキストの読み込み。


「おはようございます」

ぽつぽつと席が埋まり始め、18時50分過ぎに柳生君が挨拶をしてくれる。

「おはよう。柳生君」

テキストから顔を上げた私は、彼の方まで散らかしてしまった教科書を片付けて席を開けた。

「最近は随分と熱心に勉強されてますね」
「うん。この前の模試でね、ちょっと結果が良かったんだ。これなら志望校も受けさせてもらえるかも」
「そうですか。ところで貴方の志望校は……」
「あ、柳生君。この問題なんだけど見てもらってもいい?」
「え?…えぇ、いいですよ」


彼のノートのおかげで英語の成績は良くなった。といってもようやく平均点を取れたと言ったところだ。
でも相変わらず数学は苦手で、先生や柳生君に聞かないと分からない問題がいくつもある。


「なるほど、じゃあこっちの問題は自分で解けそうかも。いつもごめんね」
「いえいえ。貴方は呑み込みが早いですから苦にはなりませんよ」
「そう言ってもらえると助かるな。でも他の教科は自分で頑張ってみるね」
「そうですか……」


柳生君は優しい。でもその優しさにいつまでも甘えるわけにはいかない。
内部受験と言えども、試験はあるのだと柳生君は言っていた。だから私が迷惑を掛けるわけにはいかないのだ。



無機質なチャイムが響き、授業の終わりを告げた。
来週提出用のプリントを配り終えた先生は早々に荷物をまとめ教室を出て行こうとしている。それを追いかけるため私は書きかけのノートを手に持ち、立ち上がった。

「どうされましたか?」
「今の授業で聞きたいことがあって」
「それなら私が……」
「柳生君が帰るの遅くなっちゃうよ。だから先生に聞いてくるね。ばいばい、柳生君」

すでにいなくなった先生を追いかけて、私は教室を飛び出した。


この時の私は、自分のことでいっぱいいっぱいだったんだと思う。

柳生君と同じ学校に通いたい。
そしてそれが叶えば彼も喜んでくれると信じていた。
だから今は頑張らなきゃいけない時で、頑張った分自分にそれが返ってくるものだと思っていた。

そして優しい柳生君は、無条件に私の全てを受け入れてくれるものだと思っていた。

だから、私はこのとき彼が酷く悲しそうな顔をしていたことに気付くことはできなかった。





今日は放課後に担任と進路の話があり、学校を出たのは19時過ぎになってしまった。

なぜこんなにも長引いてしまったかというと、やはり私が第一希望を立海から変えなかったからだ。今の私の成績だと受かる確率は五分五分らしい。学校側としては確実に合格できるところを受けさせたいらしく担任とかなりもめた。

結局、12月の模試でA判定が出れば受けさせてくれることになり面談は終わった。正直それは無理に近い要求ではあったが私は頷くことしかできなかった。
講義はなかったけれど、今日も自習室を使いに塾へは行くつもりだった。
しかし勉強をしなければいけないことは分かってるのに、塾へ行く気も起きず、また家へ帰る気にもなれなかった。

落ち葉を自転車のタイヤで巻き上げて塾の前を通り過ぎる。日が暮れればすっかりと冷え込むようになり、マフラーが手放せなくなった。
しばらく走ると立海大付属中が見え、そのさらに先の大きな建物を目指していく。

たどり着いた先は、立海大付属高等学校。
何度もパンフレットで見た立派な門構えの高校。
柳生君と同じ制服を着て、この門をくぐることを何度夢見たか分からない。


「お前さん、こんなところで何しとるのかのう」

いつか聞いたような独特な喋り方を耳にし振り返れば、マフラーに顔をうずめた仁王君が立っていた。
日の落ちかけた景色の中では彼の銀髪が異様に眩しく見える。

「何となく来ちゃって」

私がその眩しさに目を細めるようにして曖昧に頷けば、彼は「ほぅ」とわざとらしく納得したように頷いた。

「仁王君は部活終わり?」
「おん。と言ってももう引退したから部室でだべって帰ってきただけぜよ」
「柳生君は?」
「先に帰ったぜよ」
「そっかぁ…」

空を見上げれば、ぽつぽつと小さな星たちが輝いていた。
冷たい空気を吸い込むと、少しだけすっきりとしたような気分にもなれたが心の中にあるモヤモヤとした気持ちが晴れることはなかった。

「柳生とは最近どうじゃ?」
「どうって、いつも通りだよ」
「そうとは思えんけど」

彼は私のすぐ近くまで来て立ち止まった。だから私も自転車から降りて彼の隣に立った。
意味が分からず小首をかしげた私に、彼はマフラーをさらに鼻のあたりまで持ち上げて私を見た。

「比呂士は最近元気がないんじゃ」
「え?」
「お前さん、何故か分からんかのう」

最近は勉強が忙しくて彼と話す機会も減っていた。分からない問題だって、迷惑を掛けまいと先生に聞いていたのだ。
心当たりがまるでない。そして、柳生君に元気がないと言う事も仁王君の言葉で初めて知った。いつもなら挨拶をした時に気付きそうな事なのに。

……そういえば、最後に顔を見て挨拶したのっていつだっけ——


「明日、駅前の公園に集合じゃ」
「公園?」
「ちょっと付き合ってもらうぜよ。時間はそう取らせん」


それだけ言い残した彼は一度身震いをしてから歩き出した。
マフラーの隙間から吐き出された息は、白い靄となって浮かんでは溶けていく。

そうして銀髪を揺らしながら夜の道に消えていった。





彼に言われた通り学校を終えて公園へと向かった。
そこは塾の近くでもあったから自転車と荷物を置いて、待ち合わせ場所であるベンチに腰掛けた。

お日様が出ている分、昼間はまだ温かい。それでも落ち葉を巻き上げる風は冷たくて、昨日の仁王君の様に私もマフラーに顔をうずめた。
いつもこの時間は学校か塾にこもっているから、青い空を見るのはすごく久しぶりな気がした。

「見つけたぜよ」

私の方にやってきたのは銀髪の彼で、今日はマフラーに加えマスクもしていた。

「風邪ひいてるの?大丈夫?」
「風邪じゃない」

彼はぶっきらぼうにそう言って私の隣に座った。いつもならよく話す彼がそんな言葉しか言わないことに少しだけ違和感を覚えた。

何のために呼び出されたのか私には分からなくて、しばらくは二人で空を眺めていた。
空には鳥達が仲良く飛んでいて、列をなして公園の上空を旋回している。

「志望校は結局どうするんじゃ?」

彼はつぶやくようにそう言った。

「立海。……だけど次の模試でA判定出さないと受けちゃダメだって」
「なら、なおさら柳生に見てもらえばええ」
「それはできないよ。迷惑かけちゃう」

彼は空を見て会話をしたから、私も空を見てそれに答えた。
鳥たちはひと固まりになり丸裸になった木の枝に並んでとまり羽を休めている。すぐそばに仲間がいる鳥が羨ましくなった。

「私はひとりでも頑張れる、頑張らなくちゃいけないの。でもね、今すっごく不安なんだ。今が大切な時なのに……」
「じゃあ、もっと私を頼ってくださいよ」

声色が変わり、隣に座っていた彼がマスクとマフラーを取った。そして銀色の髪を引っ張ればそれがするりと外れ、茶色の髪が現れた。
私は何一つ言葉が出なくて、その隙に彼はポケットから眼鏡を取り出し髪の毛を整えた。

「不安があるなら私が話を聞いて差し上げます。勉強だっていくらでも教えます。貴方に質問をされて迷惑だなんて思ったことは一度もありません!」

私が話していた相手は仁王君ではなくて柳生君で。でもそんなことよりいつも優しい柳生君が、こんなに声を荒げる姿を想像できただろうか。

「立海を受けるならまず私に相談してくださればよかったんです!学校で受けている授業が貴方のお役に立てるかもしれないじゃないですか」
「ご、ごめんなさい…」

身をすくめるように私が謝ると、柳生君は我に返ったのか乱れた息を整えた。
私の方こそ…と謝ってくれた柳生君に、続ける言葉が見つからず私は黙り込んでしまった。

「…本当は私の八つ当たりなんです」
「どういうこと?」

鳥たちはいっせいに飛び立ち、また青い空へと羽ばたいていった。
木枯らしが吹いて足元の落ち葉が吹き流される。
そのまま静かに彼は言葉を続けていく。

「塾で一番に貴方に話しかけるのが私で、最後に話しかけるのも私。それができなくなって寂しかったんです」
「ごめん…」
「貴方が謝ることではないです。ただ、私に何もできないのが悔しくて…。そう思っていた時に仁王君から貴方の話を聞いたんです。彼に頼まれて変装して来てみれば志望校が立海だと聞いて驚きました」

仁王君は最低限の約束は守ってくれていたらしい。
そして昨日、彼は今日自分が来るとは言っていなかったことが思い出された。

「どうして立海を受けるんですか?」

もう隠す必要なんてない。

「柳生君と同じ学校に通いたかったから」
「え?」
「柳生君の事が好きだから、一緒の学校に通いたいの」

もう飛んでいる鳥なんか見ていなかった。その代わり柳生君の顔を見てはっきりとそう言った。
そうしたら段々と彼の瞳が揺れて、そこから雫がぽたぽたとこぼれた。

「えぇ!なんで泣いてるの?」
「だって、てっきり貴方は仁王君のことが好きなのかと…。すみませんっ」

彼はポケットから綺麗に折りたたまれたハンカチを取り出して瞼に当てた。その光景を見たら、思わず笑いがこぼれた。そうしていくうちに心のもやもやが外に出されていったような気がした。

「あの!」

目を僅かに赤くした柳生君が私を見た。

「私も貴方の事がずっと好きでした。同じ高校に通えたらと何度夢見たか分かりません。だから私にもお手伝いさせてもらえませんか?」
「いいの?」
「もちろんです。なぜなら朝一番に貴方に“おはよう”と言いたいからです」

舞っている落ち葉が、一瞬桜の花びらに見えた。
そう言ったら、今度は貴方が笑うかもしれないね。

彼は立ち上がって右手を私に差し出した。

「ただし、私はスパルタですのでしっかり着いてきてくださいね」
「はい」



落ち葉が舞っている道を、二人で手を繋いで歩いた。
季節は初冬で、制服は違う。

でも来年は桜の花びらが舞う道を、同じ制服で歩いている。
そして、きっと貴方は朝一番に言ってくれるのでしょう。



「おはようございます」
「おはよう、柳生君」


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