1mm先の


私の悪運もついに尽きたというわけか。

「どーも。裏切り者サン」

東京湾マリーナ——都内では船の係留置として有名な港。桟橋に沿って小型から中型の船が行儀よく並び波に合わせて船体を揺らす。これだけの数が揃っているのは珍しい。しかし時刻が丑三つ時を回った今となっては納得ができる光景だった。

「やっぱりココくんにはバレてたかぁ」

まさかこんなところで同僚と鉢合わせるなんて。いや、待ち伏せされていたという方が正しいか。現に彼は私が乗り込もうとした船を背に私が来るのを待っていた。二百五十もの船が係留するこの場所でただ一つの船を見つけてみせたのだ。

「割と頑張った方だと思うけど?」

空は濃い藍に染まっているというのに北側は目に痛いくらいの輝きを放っている。これを本来ならば夜景と呼び、感嘆の台詞を一言二言述べるのが筋かもしれないが全くそんな気にはなれなかった。

「と言う割には私がここに来るのが分かってたみたいじゃない」
「オレはな。でも他の奴らは気付いてねぇよ」

数時間前に彼のいる組織を裏切った私としてはただ苦笑いを浮かべることしかできなかった。その様子を嘲笑う様に目の前の男は笑っていた。そんな彼の銀髪が潮風に遊ばれ夜を泳ぐ。この三年間のうちに見慣れてしまった髪色は今も尚綺麗だと思う。でも今日ほどそれが憎らしく思ったことはなかった。

「それもココくんに見つかったせいで全部おじゃんだけどね」
「お陰って言えよ」

息を吐き出すような、短い笑い。私も僅かに頬が緩むが未だに緊張の糸は解かれない。彼は私から視線をそらさずに腰元へと右手を忍ばせる。そこから取り出されるものは形を見なくても容易に想像できた——裏切者はスクラップ——梵天の鉄槌とも言われるそれをなぞらえるならば、握られたのは拳銃に違いない。

「私もここまでか」

しかし、振り返れば割といい人生だったのかもしれない。四年前、情報屋として細々と働いていた私に声を掛けて来たのは裏社会へと足を踏み入れたばかりの日本組織だった。初めは依頼人として報酬に見合うだけの情報を渡し、私の中で『お得意さん』のグレードになる頃には日本最大の犯罪組織と言われるまでに大きくなっていた。

「オマエ程の優秀な人材をなくすなんて惜しいことをしたよ」

そんな時に私に声を掛けて来たのが梵天の経理の一切を担う九井一という男だった。元より情報屋として働いていたころから彼を介して情報を売っていたものだから顔馴染みでは合った。

「過去形にするには早すぎない?」

今まで通りフリーでやるか、梵天専属の情報屋になるか。迷ったけれど目の前に積まれた額を見て私は梵天に着くことにした。そこからおおよそ三年間、命令には忠実に、そしてボスへの忠誠も忘れずに組織の為に働いた。

「もう過去なんだよ。朝方には他の幹部連中も血眼になってオマエのこと探しにくんぞ」

だから絶対に欺けると思った。今日だっていつも通り事務所に行って、指示された敵対組織のリーク情報を渡した。そして他の幹部達とも他愛のない話をして、その足でここまで来た。隙も油断も吉兆も見せなかった。

「じゃあなんでココくんは今私の前にいるのかな?」

朝陽も見えぬ東京湾、二十四時間出艇可能な港と言えども平日のこの時間に姿を見せる者はそういない。時折、強く吹く海風が船体を揺らし大きな音を立てるが特に気にはならなかった。空と海の境目など裸眼で確かめられるわけでもなく藍の闇が世界を染める。その世界に私達だけというのも中々にオツと言うべきではないだろうか。

「オマエは詰めが甘いんだよ」

今までずっと一人で生きて来た。顔も人脈も広かったけれどその相手は全てビジネス上の繋がりだけ。それ以上でも以下でもない。

「えー?これでもココくんの右腕だったでしょ、立つ鳥跡を濁さず精神で旅立ったつもりなんだけどな」

今まで同じ巣に半年以上いることなんてなかった。だから大した情など沸かなかったのだけど一年、二年と過ごしていくうちに私の考えは変わっていった。一人で仕事をしている頃は誰にも評価はされなかった。また、裏社会では若い女は舐められがちだ。故にいままで提示額よりも安い金額で情報を買われたり暴力に脅されたりもした。

「あぁよくやったよ」

でも彼は違った。仕事をすればそれを評価し、結果に見合った報酬をくれる。一年が経つ頃には警戒心が解け、二年が経つ頃には一緒に食事に行くようになった。そして私はついに自覚してしまった。

「じゃあココくんはなんで勘づいたの?」

だから逃げた。だってここで認めてしまえば私が今まで塗り固めてきたちっぽけなプライドが崩れてしまうと思ったから。私の生き方を否定されるような気がしたから。

「オマエがオレの右腕だったからだよ」
「調子のいいことばっかり言って」

私の言葉を復唱しただけでしょ。でもそれが嬉しいと思ってしまう時点でもう後戻りできないところまで来ていたのかもしれない。まぁそうでなくても梵天から逃げきるなど到底無理な話だったのだ。

「噓じゃねぇよ」

噓だと言ってほしかった。そしたら貴方のことを恨んで、私はこのままでこの世から消えてなくなれたのに。

「そっか。なんかありがと」

すぐそばには底の見えない闇が大きく口を開けている。そこに放り込まれてしまえば私は大人しく魚の餌になるしかないのだろう。無残な最期を迎えるくらいならせめて貴方の瞳に映る最後の私の姿くらいは美しくあろうと思った。

「裏切り者はどうなるか知ってっか?」
「もちろん」

しゃんと背筋を伸ばし、風で靡いた髪を整える。目の前には銃を構えた男の姿があった。私はあとどのくらいの時間、彼の姿を視界に留めておくことが出来るのだろうか。それが分からないからこそ、私は瞬き一つせずに彼が歩みを寄せる姿を黙って見つめた。

「裏切り者に梵天の鉄槌を」

彼との距離は一メートル、しかし銃口との距離は額からわずか数センチ。あーもう死ぬのか、と他人事のように頭の片隅で思う。この世界に足を踏み入れてからそれなりの覚悟はしてきたがいざその状況になると脚が震えた。でもこれもまた運命なのかと、理不尽な人生を生きてきた私は冷静に受け入れることにした。

「最期に言い残しとくことは?」
「えーっと、事務所の冷蔵庫にあるプリンとアイスは誰かに食べてもらって。あと引き出しの中の牛丼半額クーポンは今月が期限だから使ってね」
「くだんねー」
「それと、」

それなりに満足して生きてきたつもり。でもただ一つ、後悔があるとすれば——

「好きだったよ、ココくん」

普通に出会ってたら恋人になれたのかなって、そんなことを思ってしまった。

「過去形かよ」
「数秒後には過去の話でしょ」

私は今、上手く笑えているのだろうか。もうこんな時間だし最後に化粧を直したのは数時間も前の話。Tゾーンはテカっているかもしれないし、目の下はマスカラで黒ずんでいるかもしれない。髪も結局海風に攫われて整えた意味もない。でも私は努めて明るく振舞った。

「そうだな」

カチリ、と耳障りな音と共にセーフティが外される。
私と彼は見つめ合ったままだった。瞬きせずにいたからか、視界が僅かに涙で滲んだ。波の波長に合わせ音が聞こえないよう鼻をすすり覚悟を決める。

「今までありがと。元気でね」

耳をつんざく銃声が空に響く。サプレッサーくらい付けなよね、と思いつつ銃声後も自分の思考が生きていることに疑問を持つ。そしてゆっくりと瞼を持ち上げた。

「やめるわ」
「は……?」

そう言って彼は銃を元の場所へと仕舞い込む。私はその動作を黙って見つめることしかできなかった。

「オレも行くわ。オマエ一人だとまたヘマやらかしかねねぇし」

そう言って桟橋に止めてあった船へと乗り込んでいく。その姿に私もすぐさま駆け出して自分より低い位置にいる彼を見下ろした。

「梵天は良いの?」
「あそこで金稼ぐのも飽きたんだよ」
「このまま一緒に逃げるつもり…?」
「おう」

そう平然と言って退ける。彼はその言葉の重みを分かっているのだろうか。

「私といる未来は地獄だよ」

梵天での地位は彼の方がはるかに上だ。組織の金回りの一切を担う幹部が抜けたと分かれば死よりも恐ろしい拷問が待っている。

「ならオレも一緒に堕ちてやるよ」

目の前に彼の手が差し出される。私はそれに手を伸ばしつつも残り一ミリの距離で踏み止まって。
しかし、気付いた時には手首を掴まれ船に乗せられていた。