飲み友達の九井一
「九井さん、この後飲みに行きませんか?」
定時の鐘と共に一人の女性社員に声を掛けられる。確か今年の春にうちの部署に異動してきた人だったか。
「せっかくみんな揃ってるからどうかって話になって」
彼女の後ろへと視線を移せば確かに同じ課の奴等が輪になって話している。大方今から行く居酒屋でも探しているのだろう。しかしその中にマネージャーの姿はない。となると答えは一つだ。
「悪い、今日は用事があるんだ」
誰が好き好んで時間外労働なんかするかよ——とまでは言わず無難な断り文句を口にする。上司がいれば建前的に行ってもよかったが同期と後輩だけの飲みは時間と金の無駄としか思えない。
「そうですか……」
「じゃあな、お疲れ」
「あのっ」
「楽しんで来いよ」
鞄を手に持ちスマホはポケットに。他のメンバーにも声を掛けて職場を後にした。
今の仕事には満足しているし会社の待遇も悪かねぇ。でも飲みの席だけは面倒くせぇから最低限の頻度で顔出す程度。何事にも距離感っつぅのは大切だ。だから下手な馴れ合いは極力避けたかった。
あー、それにしても今日の晩飯どうすっか。冷蔵庫には何もねぇし、かと言って何処か食い行ってアイツらに会うわけにもいかねぇ。となるとウーバーが妥当か。
「ん?……ンンッ」
スマホを取り出したのと同時にホーム画面にポップアップが表示される。そのたった七文字のメッセージに思わず吹き出しそうになった。これは相当ストレス溜まってんなと状況を察して咳払い。そしてその文字をなぞる様に指先でポップアップをスライドさせた。
◇ ◇ ◇
未だに計上処理のインプットができない上司に三十分前に言ったことを忘れる後輩。定時間際の発注依頼メールの対応に朝一会議の資料準備はいっつも私。抗議の声を上げてみるも「キミは仕事が早いから」なんて都合のいい言葉で流されること三十回以上。しかも次の企画のプロジェクトリーダーも任されてしまった。社歴としても年齢的にも大役を任されてもおかしくはない。でもどうにも面倒事を押し付けられた気がしてフラストレーションは溜まる一方だ。
総括:労働はクソ
もう限界。定時と共にパソコンの電源を切り誰よりも早く退社を決めてやった。もはやストレスで気が狂いそうになった私が取るべき行動と言ったら一つしかない。
LINEを立ち上げトーク画面をスクロールしていく。上から順に宅急便の再配達、ゆうパックの通知、GU、マツキヨ、ミスドのラインナップは自分でも笑えてくる。おや?通知が来たぞと思い見てみるもLINEギフトのご案内。生憎送る相手はいないんだわ、ブロックしますねさようなら。
『労働はクソ 集合』
そしてようやく辿り着いたお相手へわずか七文字を送信する。送った後に履歴を見れば最後のやり取りは三ヶ月も前だった。久しぶりの連絡にしては素っ気なかったかと思い、送り直そうか迷ったところで既読がつく。
『今どこ?』
おぉ、話が早くて本当に助かる。持つべきものは同じ大地で働く社蓄仲間だわと心の中で握手をする。そしてその指先を液晶画面へと伸ばした。
『職場出たとこ』
『なら西新宿は?』
『いいけど今日あたり混んでない?』
『空席ありの店いくつか見つかった』
『神』
『適当な店予約しとくぞ』
『任せた』
この間、僅か一分である。本当にこの速さを上司には見習ってほしいわ。今日だってメールで済むものを十分以上かけて電話で話しやがって。
スマホをバッグに仕舞い駅へと向かう。くたびれたパンプスのヒールがその日はやけに弾んだ音でカツンと鳴いた。
◇
店に着いたと連絡すればもう中に入っているという。店員さんに声を掛ければ奥の席へと通された。店は大分賑わっており予約しなければおそらく一時間以上待たされていたであろう。
「お疲れ」
半個室になっているテーブル席に顔を覗かせれば我が心の友であるココくんの姿が。そしてテーブルの上にはすでに料理が何品か並んでいた。しかも私がいつも頼むものもあるっていうね。ほんと、しごできですわ。
「お疲れ、お店の予約ありがとう」
「おう。料理は適当に注文して飲み物はまだ頼んでねぇわ」
「じゃあ私は生で。ココくんは?」
「オレも同じやつ」
じゃあ生二つで、と私を案内してくれた店員さんにオーダーを通す。そして数分も待たぬうちにお通しとジョッキがテーブルに並べられた。
「あの上司、次の人事で異動にならないかな」
「その人家庭持ちだろ?ンなら問題起こさねぇ限り普通は無理だな」
串についた最後の砂肝を抜き取ってそれをハイボールで流し込む。片やココくんはいつの間にかに注文したビビンバを長いスプーンでかき混ぜていた。
「私が人事部に上司の異動を掛け合ったらどうだろうか」
「そしたらオマエが左遷だな」
「あ"ー」
手に持っていたジョッキを空にして次の飲み物を頼む。ココくんは?と聞けば「まだいい」と言うので自分の分だけ注文した。
「でも給料はいいんだろ?」
「そうなんだよね」
私が転職にまで踏み切れない唯一の利点がそれだ。時間外労働分も正確に計算され、結果を出せば賞与に上乗せされる。
「だからこそ上司がもう少しまともだったら……」
そしたら後輩指導だってやってくれるだろうし私の仕事も同じ課のメンバーに平等に振り分けてくれただろう。
「年功序列なんてモンは廃止すべきだよな。成果主義の方が会社としてもメリットがでかい」
ココくんは食べ終わったビビンバの石鍋をテーブルの端に寄せた。そこには米粒一つ残されていない。その器とココくんを見比べながら私はとある想像をしてみた。
「私、ココくんの下でなら働いてもいいかもしれない」
「はぁ?」
未だに持っていた焼き鳥の串を魔法使いのステッキのように振りながらそう答える。ココくんは最初に頼んだサラダの残りを自分の下に引き寄せていた。
「だってココくんならギリギリで仕事押し付けて来ないだろうし相談にも乗ってくれそうだし何より自分が仕事できるでしょ?理想の上司だよ」
一緒に働いたことはないけれど少なくとも私はそう思う。それに信頼している人の下で働けるなんて、これ以上の安心感はない。
「早く出世して部長くらいになってよ。そしたらココくんの会社に転職する」
「バーカ、何言ってんだよ」
「こっちは大真面目でーす」
私の下に四杯目のハイボールが届けられる。串は竹筒の中に捨ておしぼりで拭いた手でジョッキの持ち手に指を引っ掛けた。
「オマエこそ早く出世しろよ」
「えぇ?なんでよ」
炭酸が喉に引っ掛かり声が裏返る。サラダの残りも完食したココくんはそれと空になった皿を重ねてテーブルの端に寄せた。
「そうすりゃオレんとことオマエの会社で案件対応もできるだろ」
サラダを食べきったココくんはよだれ鶏へと箸を伸ばす。私が食べたくて注文したのだが三切れ食べて満足してしまった料理だ。ココくんにはいつも残飯処理のような役目をさせてしまい申し訳ないと思いつつ、非常に助かっている。
「確かにね。でも私は人の上に立つような器じゃないし」
食欲は満たされたので只々ジョッキを傾ける機械になる。
「オレだって前に出んのは嫌いだよ」
「じゃあ向いてないじゃん」
「でも無能がしゃしゃり出るよりマシだろ」
「ブッ…!」
余りの物言いにジョッキを傾けたままハイボールを吹き出してしまった、鼻の奥がツンとして思わず咽こむ。そうしていれば「汚ねぇ」と呆れた後に店員さんに新しいおしぼりを頼んでくれた。
「これで拭け」
「ごめん、ありがと」
「今の会話のどこに笑う要素があったんだよ」
いや、可笑しくて笑ったんじゃなくて嬉しくて笑ったんだよ。だってそんな風に後押ししてくれるだなんて思わなかったからさ。
「九井部長の言葉に感極まって思わず……」
「茶化すな」
やっぱり持つべきものは社畜仲間の心の友だわ。
来たときよりも晴れやかになった気持ちと共に居酒屋を後にした。
◇
「えっ?!もう一軒行こうよ!」
「バカ、明日も仕事だろ。帰れ」
さて、このテンションのまま二件目に梯子しようとしたところで怒られてしまった。
「でもまだ十時だよ?」
「帰って風呂入ったらちょうどオマエの寝る時間だろうが」
確かに私は日付が変わる前に寝てしまう。でも今日は夜更かししたい気分なのだ。明日の私が寝不足のグロッキー状態になろうとも後悔はしない。
「ココくんさっきは全然飲んでなかったでしょ?飲み直そうよ」
「あっタクシー来た」
繁華街へと行こうとする私の腕をココくんは掴んで離さない。細身に見えて意外と力あるんだよなぁ。そして胃袋も成人男性の倍以上はある。
「本当に二軒目いかない?」
「行かねぇ。すみません、××区三丁目にあるセブンまでお願いします」
タクシーに詰め込まれココくんが私の家の近所の住所を伝える。そしてそのまま扉を閉めてしまった。
「一緒に乗ってかないの?」
「まだ終電走ってっからオレは電車で帰る」
「えっじゃあ私も電車で帰る」
「いいからオマエはこのまま帰れ」
タクシーは私の味方ではなかったらしくエンジンが掛けられウインカーが点滅を始める。未だにぶーぶー文句を言っていれば外にいたココくんが膝を折ってこちらを覗き込んだ。
「オマエのプロジェクトが成功したら飯奢ってやるよ」
その一言でさっきまでいた聞き分けの悪い私はどこかへすっ飛んでいった。
「ほんと?じゃあその時はもつ鍋ね!」
「成功したら、だからな」
「絶対成功させるし!だからいいお店探しといてよね!」
「わぁーったよ!帰ったらすぐ寝ろよ」
ありがとう、の言葉を言う前にタクシーは夜の街を走り出す。
お礼言いそびれちゃった。思えば急な誘いにも来てくれて、私の愚痴にも付き合ってくれて、それに励ましてもらったっていうのにね。まぁでもその諸々のお礼は私の出世払いで返させてもらう。
明日からは一緒にもつ鍋を食べることを生きがいにして、仕事頑張ろうっと。