早川アキを照れさせたい女の子の話


ビルが建ち並ぶ眼下の景色を見つめながら大きく息を吐き出した。その紫煙はすぐに風に攫われ雲一つない空へと溶けていく。
これ吸い終わったら品川での事件の書類整理と国土交通省への報告書の作成……んでマキマさんに報告、か。

「おーい」

二口目を肺に取り込んだ時、後からガラス戸を叩く音が聞こえた。
デビルハンター東京本部北側三階のベランダは喫煙所として利用されている。そこへと続く廊下は戸で仕切られており、ガラスの向こうには同期の姿が見えた。

「久しぶりだな」

引き戸を開けてベランダへと出てきた彼女に紫煙を混ぜながら声を掛ける。そうすれば彼女もまた「お互いまだ生きてるなんてね」と笑えない冗談を言うものだから、笑っちまった。

「今日は姫野先輩いないの?」

彼女もまたジャケットの内ポケットからタバコを一本取り出し火を点けた。自分のメビウスよりも甘く香ばしい香りが鼻腔を掠める。

「先輩は別の仕事で出てる。なんか用だったか?」

先端から零れそうになる灰を金網の縁で叩いて落とす。
骨が溶けると嫌っていたタバコが今や手放せないものとなっていた。その味を教えてくれたのは姫野先輩で、そしてデビルハンターとしてのバディだ。

「実は下北に気になる飲み屋見つけてさ、先輩誘おうと思って」

そして目の前の彼女は自分と同時期に公安に来た。課は違うから初めこそ関りは薄かったものの飲み会や廊下で顔を合わせるうちにそれなりに話すようになった。

「飲み行くほど仲良いんだな」

その一番のキッカケは二十歳の時に先輩達が開いてくれた成人祝いと言う名の若手を潰す会だろうか。ビール二杯で潰れた俺の横でコイツだけが最後まで生き残っていた。そしてタクシーで家まで送られるという醜態をさらした。それは今でも笑い話にされる。

「まぁね。だってベロベロに酔った先輩可愛くない?」

面倒くさいだけだろ、と言いそうになった台詞を煙と一緒に飲み込む。飲めばキス魔になる先輩の被害者は数知れず。そして週一で開催される宅飲みでは勝手に髪を切られたこともあった。

「それに面白い話も聞けるし」

そう意味ありげに向けた視線に一瞬背筋が凍った。姫野先輩には弱みを握られ過ぎている。それを同期のコイツにまで知られたら碌なことにならないだろう。

「……俺の事か?」
「心当たりがおありで?」

残り一.五センチに指が火傷しそうになったのでタバコを灰皿へと投げ捨てる。内心焦りを見せる俺を余所に、彼女は余裕ぶりながらゆっくり深く吸い込んで細い息を吐きだした。それから目を三日月の形にする。

「初任務で激マズラーメン食べて吐いたことでしょ、それと寝てる間にピアス開けられたこととー」

知られたくはなかったがまぁまだ許せる範囲だ。この程度の事なら飲み会でも姫野先輩が馬鹿デカい声で言いふらしている。
しばらく話が続きそうだと判断し再びジャケットへと手を伸ばした。

「あとは姫野先輩ん家のお風呂場で——」
「おい!」

取り出しかけたボックスを思わず握りつぶす。俺の声に驚いたのか彼女はタバコを咥えたまま静止して。そして紫煙を吐き出しては声を上げて笑った。

「早川でも焦ることあるんだ!」
「それ他のヤツに言ったらタダじゃおかねぇからな」
「おーコワい」

やり場のない感情にタバコへと手を伸ばせば横からも腕が伸びて来た。俺と同じ黒スーツの袖からは色白でほっそりとした指が出ている。それが欲しがっていたので仕方なしに一本やった。

「うわっこれ苦っ」
「香りだけで対して味は変わんねぇだろ」
「じゃあこっち吸う?」

自分のとは違う銘柄のボックスが差し出される。初めて知った味がメビウスだっただけで特に拘りはない。だから興味本位で差し出されたキャメルを貰った。

「これは……なんつーか胸焼けしそうだな」

火を点けてのひと口目の感想がそれだった。「流石に言い過ぎ」と言う彼女も苦い顔しながら味わっていたのでお互い様だった。

「なんか分かりやすくなったよね早川」
「うん?」

二、三口で捨てるのも勿体なく、そのまま煙を吹かせていた。そしてまた唐突に彼女は話を切り出す。しかし今回は揶揄うつもりはないのか空の青を見つめながらゆっくりと口を開いた。

「初めて会っときマネキンかってぐらい感情なかったからさ」

思い当たる節はある。あの時の自分は今よりも遥かに悪魔を殺すことだけに執着していた。いや、今もそうだ。年齢を重ね人との付き合い方や世間体を考えて繕うことが上手くなっただけで、偶に自分でも本当の自分が何を考えているか分からなくなる時がある。

「でもまだ早川のあの顔だけは見たことないんだよね」

特に俺からの返事は求めていないのかそのまま会話を続けていく。そして、あの顔? とこちらが復唱すれば小さな輪っかを吐き出してこちらを見た。

「ずばり照れ顔!」
「…………はぁ」
「反応うっす!」

何を言い出すかと思えば……呆れてタバコをふかし続ける俺を余所に、彼女は吸殻を捨て俺の目の前に回り込んだ。またくだらないゲームを始めたいらしい。姫野先輩は酔ったときにとんでもない行動を起こすことが多いがコイツの場合はシラフの時の方が行動が読めない。

「じゃあ照れ顔させれたら奢ってね」
「おーいくらでも奢ってやるよ」

俺と彼女を甘い香りが包み込む。
くだらない事だと思いつつも彼女が何をするかは興味があった。笑わせる、驚かせるならまだしも照れさせるとは……褒めちぎるのか、それともまた人様の失態を暴露するのか——ゆっくりと瞬きをした彼女と目が合った。

「アキ」

突然呼ばれた下の名前に、一瞬息が止まった。

「おっこれは照れてー?」
「ないな」

あちゃーと対して悔しがってもなさそうなオーバーリアクションを取る。それを横目に甘ったるいタバコを灰皿へと投げ捨てガラス戸を引いた。

「えっちょっと待ってよ!」

早く戻って書類終わらせねぇとな。
そんなことを考えて足早に喫煙所を後にした。





夕立後の湿った空気が鬱陶しくてネクタイの結び目を僅かに緩める。するとようやく肩の荷も降りたのか気も少しだけ休まった。しかし、数刻前に悪魔を切った感触が手から消えない。そして現場に散らばっていた臓物からの異臭が鼻の奥にこびり付いている気がする。こんなときはやはりタバコに縋るしかなくなってその足でいつもの喫煙所に向かった。

「えっどういう意味です?」
「アキのヤツはいつも辛気臭ぇ顔してるなって話」

自分の名前が聞こえふと足を止めればそこには二つの影が見えた。同期のアイツと……あれは野茂さんか。あの人には公安に来た当初から世話になっていた。基本的には気さくでいい人だがナンパ癖があるのでプライベートで関わると色々と面倒くさかったりする。

「野茂さん、自分はキツネの手しか使えないからってイケメンに嫉妬するのは惨めですよ」
「そんなんじゃねぇよ。つーかお前はもっと先輩に対する思いやりをだなぁ」
「総務部の女の子となら合コンのセッティングできますけど」
「お前は俺が見てきた中で一番出来のいい後輩だ」

二人とは面識があるのだからあのスペースに入っていったって構わない。しかし自分の話をされているようでどうも割り込む気にはなれなかった。他の場所に行くか……

「それを言うなら早川でしょう? 契約している悪魔は勿論、体術にも長けてますから」

しかし再び自分の名前が出てきて足が床に張り付いたように動かなくなる。こういった場合、大抵は陰口を言われていることが多い。だから聞くべきではないと分かってはいたがその場を動く気にはなれなかった。

「まぁな。でもアキのことはよく分かんねぇんだよな。確かに腕っぷしは強ぇが飲みの席でも固ぇっつーかさ……壁あるように感じる」

吐き出された煙でガラス戸が一瞬曇る。しかしすぐに晴れて夕暮れ時の日差しが廊下を照らしていた。柱の影に隠れながら耳をそばだてる。

「銃の悪魔に恨みでもあるんじゃないですか? 公安に来る暗めの人って大概そう」

前に姫野先輩にも同じことを言われた。そしてそれは当たっている。銃の悪魔の手掛かりである肉片を持てるのは公安のデビルハンターだけ。だから民間ではなく公安を選んだ。

「だろうな。人様の人生に説教垂れるわけじゃねぇけど先輩としてはもうちょい隙を見せてほしいわけよ」

俺は傷心の舐め合いに公安に来たわけじゃないし、ましてや金欲しさにデビルハンターになったわけでもない。自分の心の内など誰に理解されなくたっていいし、明日死ぬかもしれない状況で親しい人間も作りたくない。

「えー意外と隙だらけですよ?居眠りしてたんで飲みかけの缶コーヒーをコーラに変えたら気付かずに飲んで吹き出してましたし」

——そう思っていたのに。

「何やってんだよ」
「デザートの杏仁豆腐食べてる時にタバコぱくってもバレませんでした」

意外と可愛げありますよね!と続けられた言葉に、心臓が痒くなるような感覚があった。

「因みに給湯室に溜まった生ゴミ捨ててるのも早川で」

相手を深く知った分だけいなくなった時の悲しみは大きくなる。

「始末書は手伝ってくれないですけどエナドリの差し入れくれるくらいは気が利きます。ただ、自分からとは言ってくれないんですけどね」

でも当然死んで欲しくはないし少なくとも仲間だとは思っている。

「それと、品川の事件で怪我した男の子のとこにもお見舞いに行ってましたよ」

なんでそんなことまで知ってんだよ。

「へぇアイツに情なんてモンあるんだな」
「情しかないから本心見せないんですよ」

お前に俺の何が分かんだよ。でも、だからこそ気付いたのではないだろうか。『アキ』ではなく『お兄ちゃん』と呼ばれていた頃の俺の根っこの部分に。

「それに野茂さんとも池袋で女の子ナンパしたいって言ってました!」

それは嘘だからやめろ。

「マジか!アキがいりゃあ三……いや五人分の連絡先は手に入るな!」

今日イチ食い付くな。

「……はぁ」

その場に大きく息を吐き出してポケットからタバコを取り出す。しかしここでは吸えないことに気付き、取り出した一本を指で遊ばせる。
とっくに悪魔を殺した感触も鼻の奥にこびり付いた異臭もなくなっていた。それと同時に張りつめていたものがなくなったような感覚に陥る。それはネクタイを緩めるよりも効果は絶大で力が抜けた。だからこそ柱に背を付けたまま、ずるずるとその場にしゃがみ込んだ。

「確かに早川は自分のこと話さないしいつも怖い顔してますけど」

その先を聞くのが、少し怖い。今まで保っていた自分と言う存在が壊されるような気がしたから。

「情に熱くてやさしくて、頼れる男です」

でもその言葉は予想に反し、自分という存在を肯定してくれるような温かみがあった。

「お前もしかしてアキのこと……」
「まさか!ただの同期ってだけですよ。それにもう」

彼しか残っていないんです——飲みに連れてってくれた先輩は死んだ。後輩として入って来た新人も死んだ。そして同期で残っているのは彼女だけだった。

「だから長生きしてほしいんですよね。次の目標は呪いの悪魔の釘を竹刀に変えてやることです」
「それは俺も賛成だな」

ガラス戸越しにくぐもった笑い声が聞こえてくる。
雨上がりの廊下は風の通りも悪く蒸し暑かった。
前髪をかきむしり膝の間に顔を埋める。胸が詰まるように息苦しいのもきっとこの湿度のせいだ。

「こんなとこで何してるの?」

頭上から降ってきた声に慌てて顔を上げれば彼女が不思議そうな顔をして自分を見下ろしていた。

「なんでもねぇよ」
「野茂さんとの会話聞いてたでしょ」
「何の話だ」

立ち上がろうとすれば痺れたのか足元が覚束なく体が傾いた。柱についてバランスを取れば笑われる。そして背伸びをして俺の頭へと手を伸ばした。

「身体隠してチョンマゲ隠さず」

ちょん、と髪を突かれて柱の影から見えていたことに気付かされる。情けない。

「お?」

そこで彼女の目が三日月の形になった。

「なんだよ」
「おお?」
「だからなんだよ」

面倒くさいことが起きる。

「今照れたね」
「照れてねぇよ」
「嘘だぁ」

ドン、と容赦なく右側から体重をかけられた。その瞬間、キャメルの香りがふわりと広がる。そして甘ったるい笑みを浮かべながらこちらを仰ぎ見た。

「じゃあ行くかぁ」
「どこにだよ」
「飲みだよ!奢ってくれる約束してたでしょ」

しかし続けられた言葉はときめきのカケラもなく下心丸出しの飲みの誘いだった。でも悪い気はしない。

「分かったよ」
「えっほんと?!」
「ああ、だがこれは俺の負けじゃねぇ。同期のよしみで気まぐれに奢ってやるだけだ」

まぁ飲みたいのは事実だし、その相手はコイツがいいとは思っている。

「素直じゃないねアッキーは」
「その呼び方はやめろ」

ヤニ休憩すら与えられずに捲し立てられるよう外に出る。
雨上がりの空は瞬きすら惜しいほどに綺麗な色をしていた。