試合中に放送事故を起こした糸師凛の話


二〇二六年、FIFAワールドカップ——カナダ・メキシコ・アメリカ合衆国の三ヵ国共同開催、加えて前大会から出場枠が拡大されたことにより本大会へはトータル四十八チームが出場権を得ることが出来る。故に世界は熱気に満ち溢れていた。
そして、かつてはサッカー後進国だのと笑われていた日本もこの数年で優秀な選手が数多く育ち、過去最高の布陣だとも言われている。そんな日本のアジア予選第一試合が今夜開催されようとしていた。

「スゲー人!まぁホームゲームだし尚更だよなぁ……姉ちゃん?」
「こ、ここ…!」
「あーもー!」

そしてここにいる一組の姉弟もまた日本代表を応援しようとスタジアムに赴いていた。だが、想像以上の人に華奢な姉は人波に攫われかける。それを助けたのはしっかり者で面倒見が良い弟であり、姉の腕を掴んで道の端へと避難した。

「助かったぁ」
「だから気を付けろって言ったじゃん!」
「ごめんごめん」
「で、席はどこだっけ」
「えっとー……」

スマホの端末を覗き込む二人はそれぞれ青のユニフォームに身を包んでいた。それは日本代表として参加が決まっている選手の背番号が書かれたものであり、フットボール界隈では有名な兄弟の番号でもあった。

「ここだ」

人に揉まれながらようやくたどり着いたバックスタンド前列に彼らは腰を据える。日本代表を応援したい気持ちは確かにあるが、試合をじっくり見たい彼らはゴール裏ではなくこの席を選んだ。

「案外悪くない席だな」
「ちょっと抽選に当たっただけでも喜んでよ!」
「つーかあの人に頼めばチケット用意してくれたんじゃねぇの?」

そう言って弟は姉のユニフォームを指差した。その背中には『RIN』の文字が記されている。それは今や世界的なサッカープレイヤーとなった糸師凛のことであり、また彼女の中学・高校時代からの同級生のことでもあった。

「さすがにそれは申し訳ないよ」
「ってゆうか、いつも試合行くっつうと勝手にチケット用意してくれてなかったっけ」
「だから今回は行くことも言ってないよ」

学生時代の同級生とは言うけれど彼女らはそれなりに親密な仲だった。でなければ互いに大人になった今も連絡は取り合わない。その関係性に至っては万里の長城並の途方のない経緯がある為ここでは割愛させてもらう。

「ふぅん。まぁ俺は生で冴のプレー見れたらなんだっていいや!」

弟は自分の背に書かれた選手の名前を呼び首にスポーツタオルを引っ提げた。
右を見ても左も見ても周りは青一色。これだけの観客がいたら自分のことなんて気付きっこない。でも、この場の誰よりも彼のことを応援するんだと彼女は一人気合を入れたのだった。





「何かあったか?」
「は?」

時を同じくして選手控室——絵心監督からスターティングメンバーの発表、また戦術説明を一通り耳に入れた選手たちは各々士気を高めていた。そんなロッカールームの一角でスマホを見ていた凛に潔は声を掛けた。

「いや、試合前にスマホ見てんの珍しいなって思ってさ。お前って音楽聞いてテンション上げるタイプでもないだろ?だからなんかあったのかなって」

ブルーロック時代には互いのエゴとエゴとをぶつけ合っていた二人ではあるが、その関係性は今も変わっていない。それは海外チームでの彼らの活躍ぶりを見ればよく分かる。そして此度は日本代表としてツートップでの活躍が期待されていた。絵心もまた新たな化学反応を期待し彼らを軸にした戦術を取っていた。

「別にお前には関係ねぇだろ」
「まぁな。でもメンタルブレて試合ンときに足引っ張られでもしたら迷惑だから聞いてんだよ」
「それこそ余計なお世話だな。お前こそあの青薔薇野郎に随分と飼い慣らされたんじゃねぇのか?試合前にぬりぃアップしてんじゃねよ」
「なんで今カイザーの名前が出てくんだよ!」

あーめんどくさい、とこの場にいる全員が凪誠士郎になり彼らのことを無視した。エゴイスト同士の喧嘩に巻き込まれること以上にめんどくさいことはない。

「ほっとけ潔。凛のはただの恋煩いだ」
「コイワズライ?」
「にっ……兄貴!」

試合開始のホイッスルよりも先に乱闘開始のゴングが鳴り響きそうになるが、寸でのところで木槌は下ろされる。
この場の空気に流されることなく二人の会話を聞いていた彼はラセットブラウンの髪を掬い上げながらこちらへと歩み寄ってくる。その指の隙間から覗く瞳は弟と同じ色をしていた。

「一週間ほど前からずっとこの調子だ。どうやら気になるあの子からの連絡がなくて落ち着かないらしい。そのくせ今日の試合に来るのか自分からは聞けずにいる。まったく、手の掛かる弟だぜ」

凛の兄である糸師冴は、そう淡々と弟の現状を説明した。この兄弟も以前は大きな確執があったものの、今では少しだけマシになった不自由で良好な関係が築けている。その関係性に至ってはマリアナ海溝よりも深い経緯がある為ここでは割愛させてもらう。

「そうだったのかよ凛」
「なにクソみぇな目向けてんだよ潔!兄貴もテキトーなこと言ってんじゃねぇ!」
「毎晩バカみてぇにベッドタウンばっか聞いてりゃ嫌でも察するわ」
「割と重症じゃんか……まぁこれだけ大きな試合だしテレビ中継くらい見てくれてんじゃね?」
「黙れ!今日の試合でテメーは絶対殺すからな!」

凛は潔を盛大に睨みつけ控室を出て行った。その背中を見つめながら潔は、アイツもそうゆうのあるんだなぁと感心していた。てっきり二十四時間サッカーのことしか考えていないと思っていたので。そして隣に並んでいた冴もまた、マジで図星だったんだなとちょっと驚いていた。半分は鎌をかけたようなものだったので。ただそうなると少なからず懸念も生まれるわけで、冴は隣で揺れていた双葉に視線を送った。

「おい、潔。アイツが使いモノにならなかった場合、パスは全てお前に回す。取りこぼすなよ」
「え?」
「取りこぼしたら殺す」
「なっ……しねぇよ!」
「よし」

そして冴も潔の元から去っていった。
試合前に二人から殺人予告を受けた潔は半笑いである。でももうこんなことには慣れっこだ。だから特段感情的になることもなく、己の中のエゴを静かに滾らせた。





後半戦、アディショナルタイム一分——残り時間十秒のタイミングで今日一番の歓声がスタジアムに轟いた。元より試合は三対一で日本がリードしていた。もう勝利は決まっている。しかし、ダメ押しとばかりに追加得点が決まったのだ。

『糸師冴からのパスで糸師凛が決めました!そしてここで試合終了、四対一で日本の勝利です!!』

紛れもなく世界で一番フットボールが熱い場所がここにある。この時ばかりはシャイで大人しいと言われる日本人も肩を叩き合い、大声を出して喜びを露わにした。

「すごいすごい!今の見た?!凛のゴールめっちゃすごかった!」
「いやそれよりも冴のパスだろ!ディフェンス付きで普通はあんなピンポイントに撃ち出せねぇって!」

そして糸師兄弟のユニフォームを着た姉弟も抱き合いながら日本の勝利を喜んでいた。というよりも、選手たちの活躍に感動していた。なんせ姉弟で推している兄弟がスーパープレーを決めたのだから。その二人の喜びようと言ったら第一クール放送終了後に二期の制作発表とそのスピンオフ作品の映画化が決まったときのオタクと同じくらいの騒ぎだった。

「残り一分の時点で前線に走り出してたところからもうさすがって感じだよね!潔選手の動きも分かってて飛び出したの!」
「あそこで味方をステルスにするとは思わなかったわ!しかも利き足じゃない方で撃ってたんだぜ?!」

そしてそんな騒々しい場面をカメラがスルーするわけもなく、スタジアムのモニターには彼らの姿が映し出されていた。しかし当然ながら二人は喋ることに必死でそのことには気付いていない。ついでに言うなら好き勝手喋っているため互いの会話が成立していないことにも気付いていなかった。ただの限界オタクである。

「凛、インタビューお前からだってさ」
「あぁ」

熱狂の中心にある青々とした芝生、勝利の余韻に浸る暇もなく選手たちにはまだ仕事が残されている。その中でも本日得点を決め、今まさに観客たちを沸かせた男が一番に呼ばれた。
凛は一度大きく息を吐き出してユニフォームで顔の汗を拭った。そして長い睫毛を震わせ瞬きを一つ。そうして張りつめていた緊張の糸を緩め、顔を上げた時だった。

「は?」

ターコイズブルーの双眸の先には大型モニター。そこに映っていたのは凛が連絡を待っていた彼女である。
まさか見に来ていたのか、と心臓が跳ねる。大はしゃぎをして笑顔を見せる彼女は凛が焦がれていた姿だった。おまけに自分の背番号のユニフォームまで着ているというオプション付き。控えめに言って最高だった。

「あW?」

だがしかし、その顏は破顔するわけでもなく真顔のままだった。そして心中は大層荒れ狂っていた。だって彼女の隣には男がいたのだから。それも二人は抱き合っているという始末。ソイツは誰だとばかりに、切れ長の眼をカッと見開いて凛はその場から動けずにいた。

「おい凛、どうしたんだ?おーい!」

中々来ないことを心配した潔が凛の元へと駆け寄ってくる。しかし凛はモニターを見上げたまま動かない。というのも、凛は彼女に弟がいることを知らなかったのだ。というか兄弟がいることすら知らなかった。それは彼女が凛と冴の関係を気にして自分のことを語らなかったからなのだが、当然いま現在硬直状態でいるこの男が知る由もなかった。

「おい凛、呼ばれてんぞ」

必死に呼び掛ける潔と壊れかけのレディオと化した凛を見かねて冴が二人の元へ行く。しかし八割方壊れているのだから動きはしないのだ。こうなったら物理で解決するしかないと、年俸額億を超える左脚で冴は凛を蹴った。

『それでは本日ラスト一分で追加得点を決めた糸師凛選手です!お疲れ様です、冴選手からのパスを繋げてのゴールでしたが振り返っていかがでしたか?』
「…………」

モニターは既に切り替わり、今はインタビューを受けている凛の顔が映し出されている。しかし視線はそちらへ向いたままだった。
凛の瞳には先ほどの光景が未だに焼き付いているのだからインタビューどころではなかった。そして冴が蹴ったことにより完全にぶっ壊れたのだ。身体じゃなくて脳が。そうなってしまえばティックトックが如く映像が脳内再生し続けるだけある。しかも自動送りではなくループというバグ付きだ。

『あのー凛選手?』
「…………は?」

元より凛は多くを語らず、ヒーローインタビューでもほぼほぼ一問一答のような受け答えをして早々に終わらす。だからこの時点で観客はかなりざわついていた。疲れてる?どこか痛いのか?ってゆうかなんか客席見てない?誰か来てんの?という具合に。
そして選手たちも遠巻きにそんな姿の凛を見ていた。凛ちゃんどったの?首でも痛めてるんとちゃう?つーかどっか見てね?可愛い子でも見つけたとか?という具合に。

『ラストゴールの感想をお願いします』
「……あぁ、…あ?」

そして凛自体をバグらせる出来事が発生した。なんと再び彼女がモニターに映し出されたのである。これは運営側の配慮であった。もしかして凛選手緊張しちゃってる?じゃあ自分のファンの姿でも見たら落ち着けるんとちゃう?というお節介が招いた悲劇だった。
彼女は凛のインタビューだと、にこにこしながらその口が開くのを待っている。でもその手はがっちりと弟と握りあっていた。

『えっと試合の感想を……』
「は?」
『えー……』
「退け、時間オーバーだ」

涙目のリポーターを助けたのは冴だった。助けたというか、これ以上弟の醜態を晒したくなかったのだ。まぁその原因も少しばかりは冴にあるのだがそんなことは知ったこっちゃない。
ただ、冴は凛が思考停止した理由には察しがついていた。だからこそ今、心の底から思う。試合中に彼女を見つけなくてよかったと。まぁフロー状態であるならばそんなことに気取られることはないだろうが、ここまでポンコツにでもなられたら本当に使いモノにならなかった。本当に、よかった。

「凛のインタビュー終ったな」
「だね……」



いや、なにもよくはなかった。連日のニュースで試合の映像は流れど凛のインタビューは全カットされた。しかしネット上には瞬く間に拡散され様々な憶測が流れる始末。その結果、ファンが出した結論は「試合の日にサプライズで彼女が見に来ていた」であった。

さて、不覚にもこれで外堀は埋めることができたわけである。今後、凛と彼女がどういう道筋を辿っていくのかが非常に楽しみなところではあるが、この話の続きは冷房冷えの風邪ほど拗らせることになるためここでは割愛させてもらう。