ドイツから帰国した氷織羊が彼女の家に行く話
肉じゃがに豆腐田楽、ふろふき大根にだし巻き卵。季節じゃなかったからサンマは用意できなかったけれど皮がカリカリになるまで焼いた銀鮭とアサリの味噌汁は用意した。それから常備している漬物と副菜を小鉢に移して並べればザ・日本の食卓の出来上がりだ。
「あっきた!」
炊飯器が白米の炊き上がりを教えてくれたのと同時に家のチャイムが鳴り、インターホンの確認もしないまま玄関へと直行する。そしてはやる気持ちを抑えずに目の前の扉を押し開けた。
「羊くん、おかえりなさい!」
「ただいま」
久しく見ていなかったアイスブルーが目に飛び込んでくる。思わず手を伸ばしたくなるような丸い水色頭にお人形のような大きな瞳。でも身長はかなり高くて自販機と同じくらいはある。だから私は見上げるようにして数ヵ月ぶりに会う彼を出迎えた。
「国道の方で事故があったってニュースで言ってたけど大丈夫だった?」
「あぁ、だから渋滞しとったんね。せやけどタクシーのおっちゃんが機転きかせてくれはったから巻き込まれずにすんだわ」
キャリーケースを運び込んで家の中へと招き入れる。そしたら羊くんの鼻が、クンと動いた。それと同時にお腹の鳴る音が。
「ふふっ羊くんのお腹の中から怪獣の鳴き声が聞こえた」
「もう揶揄わんといて。これも全部この匂いのせいや、こんなん食テロやん」
浮かれて作り過ぎてしまったと思ったがどうやら功を奏したようだ。聞けばフライト中の機内食が口に合わずあまり食べられなかったらしい。だから私は嬉々として腹ペコ怪獣を飼っている羊くんを早速リビングへと案内した。
「日本食や!向こうじゃ全然食べられへんし自炊も得意やないからこないな品数見んの久しぶりやわ」
「そう言ってもらえると作った甲斐があるかな。お箸とか用意するから座って待ってて」
予め連絡を貰っていたのでおかず類は冷めていない。だから急いでお箸と取り皿、そしてお味噌汁とご飯も用意して羊くんの元へと戻った。
「えっなんで写真撮ってるの?!」
トレーに乗せて運んできたものをテーブルに並べる傍ら、羊くんはスマホのカメラを料理へと向けていた。そして何度かシャッターを切っている。自分ではそれなりに上手くできた方だと思うがいざ形として残されるのは恥ずかしい。
「日本におる可愛い彼女が僕のために手料理作ってくれたら写真も撮るやろ。それに後でみんなにも自慢するし」
「恥ずかしいからやめてよ!それに全体的に茶色いから見栄えは悪いし……」
「そんなコトあらへん。現に料理見とったら腹の虫が大合唱して堪らんくなっとんねん、早う食べたいわ」
とりあえず写真のことは置いておき、羊くんの怪獣が大暴れし出す前に箸を渡す。そして私も羊くんの向かいへと座り、二人揃って手を合わせ「いただきます」をした。
「めっちゃ美味しい。味付けも塩梅もちょうどええわぁ」
「よかった。好きなだけ食べてくれていいからね」
「おん」
それっきり羊くんは無心で箸をすすめていた。
現在、ドイツのクラブチームでプロのサッカー選手として活躍している羊くんは日本に帰ってくる機会もそう多くない。でも帰国の度にうちに来ては美味しい美味しいと食べてくれるので私の料理の腕は自然と磨かれていった。
「ご馳走様でした」
「すごい!全部食べきれるとは思わなかった!」
「ホンマ美味しくて箸止まらへんかったわ。たくさん作ってくれてありがとう」
「どういたしまして。食器片付けるからゆっくりしてて」
「ご馳走になったんやから洗い物はやるで」
「大丈夫だよ、ありがとう」
トレーに食器を乗せて流し場へ。さすがに量が多かったから何度か往復する必要があったけれど羊くんが手伝ってくれたおかげで運ぶ回数は少なくてすんだ。
「あっ羊くん、ちょっと待って!」
よし、と気合を入れてスポンジを泡立てたところで服の袖を捲り上げていなかったことに気付く。このままでは濡れてしまうが、かと言ってせっかく泡立てたスポンジを無駄にするのも憚られた。
「どしたん?」
「服の袖捲ってもらっていい?」
だからリビングへと戻りかけた羊くんを引き留めて代わりになんとかしてもらうことにした。
私がスポンジ片手に肘を上げてアピールすれば意図が伝わったらしい。踵を返して戻ってきてくれた。
「ええよ」
と快諾してくれたが、何故か私を通り過ぎていった——かと思ったが後ろから突如伸びてきた腕にそういうことかと理解する。わっすごい!これ漫画で見たやつだ!
「羊くんは顔に似合わず大胆だよね」
「なんやそれ」
「分かっててやってるでしょ?」
「何のコトやら分からんわぁ」
羊くんからは顔が見えないことを良いことに、私はだらしなく頬を緩ませた。それと同時に改めて帰ってきたんだと実感する。テレビ越しでも電話越しでもなく、触れられる距離に確かにいた。
「これでええ?」
「うん、ありがとう!」
両袖を捲ってもらったのでこれで濡れることはないだろう。もう安心だけどもう少しだけこのままでいたかったなぁなんて思う自分もいる。ちょっとだけ名残惜しい。
「わっ……」
そんなことを考えていたらその感情を包み込むように後ろから抱きしめられた。捲ってもらっているときも同じような状態だったけれど腕がお腹の前に回され先ほどよりも身体がぴったりとくっついた。
「会いたかった」
吐息を感じられるほどの距離で囁かれた言葉。視界の端にアイスブルーが見え羊くんが首筋に顔を埋めたのが分かる。そして私はその丸い頭に頬擦りをするように顔を寄せた。
「私も」
「今までも電話もLINEもしとったから寂しくはないつもりやってんけど、実際顔見てキミの手料理食うたらやっぱ寂しかったんやなぁって実感したわ」
「そこは会えて嬉しいって言って欲しかったな」
ネガティブな表現を打ち消すように笑って言えば羊くんも小さく笑う。それがくすぐったくて身じろぎすれば身体がわずかに離される。しかしそれも一瞬で、頬に熱いものが触れた。
「ひゃっ……」
「嬉しいよりは愛おしいの気持ちのが強いわ」
リップ音一つ残して離れていった唇に動揺が隠せない。私が顔を真っ赤に染めるなか、頭上からは愛おしくも憎らしい笑い声が降ってきた。
「もー!」
「ふふっ揶揄いすぎてもうたね。続きはまた後でな」
愛らしい顔と声とは裏腹にSっ気があるのが氷織羊という人間である。しかしそんなところも含めて好きになってしまった私は何も言えずに皿洗いに取り掛かることしかできなかった。
そして皿洗いを終える頃にはいくらか冷静になれ、食後のお茶を持ってリビングへと戻る。すると羊くんはキャリーケースを開けて荷物整理をしていた。
「洗い物ありがとう」
「いえいえ、お茶いれて来たからこっち置いとくね」
「おおきに」
マグカップをローテーブルの上に置き傍のソファへと腰掛ける。BGM代わりに流しているテレビからはバラエティ番組特有の賑やかしい笑い声が流れていた。
「せや、これキミへのお土産」
「えっいいの?ありがとう!」
ぼぅっとテレビを見ながら一息ついていたところで紙袋が手渡される。早速中を覗いてみれば長方形の可愛らしい箱が入っていた。
「ドイツで有名な店なんやと。クラブの人に教えてもろうてキミも好きそうやったからこれにした」
「ショコラーデ……ってことはチョコなんだ!ミルクにビターにキャラメルと……イチゴ味かな、色んな種類が入ってる」
一緒に入っていたカードを見ながら中身を確認する。本当は実物を見たかったけれど開けるのがもったいないため我慢した。今はお腹いっぱいだし明日から大切に食べようっと。
「なぁ、」
「うん?」
先ほどまで床に座って荷物を片付けていた羊くんが私の隣に座った。ソファのスプリングが沈み重心が少しだけ羊くんの方へと傾く。そして顔を上げれば口元に綺麗な弧を描いた羊くんと目が合った。
「ドイツ語よお分かったな」
「え?あー……簡単な単語くらいなら分かるよ」
「へぇ〜」
その含みを帯びた笑顔には妙な圧がある。別に後ろめたいことはないけれど居た堪れなくなり視線を逸らす。そしたら唐突に伸びてきた手に容赦なく両頬を挟まれた。羊くんってもしかして意外とパワータイプだったりする?
「むっ……、なんで挟むの?!」
「僕から目ぇ逸らすんやもん」
「それだけで?!」
「あと僕に隠し事しとるやろ?例えばそうやなぁ僕に隠れてこっそりドイツ語勉強しとるとか」
「ぅえっ?!」
頬を抑えられているせいで思わず声が裏返る。そしてそれは羊くんの言葉を肯定しているようなものだった。確かに私は一年ほど前から語学のテキストを揃えドイツ人の先生のレッスンを受けながらドイツ語を学んでいた。
「なんで隠すん?」
「だってまだ上手くないから恥ずかしいし……」
視線を逸らせば先ほどとは逆に手を離された。
今思えば羊くんは私に鎌をかけただけなのだろう。ドイツ語と言えども英語が分かればなんとなく文字の並びで読み取れないこともない。
「誰でも初めはそんなもんやで。日常会話ぐらいやったら僕もできるし頼ってくれてええのに」
「でもそれだと意味がないというかなんというか……」
「どうゆう意味や?」
でもこの時の私はひどく動揺していた。それは羊くんが私が想像していることのさらに先まで見透かしてると思ったからだ。だからつい余計なことまで言ってしまった。
「だって私がドイツ語勉強してるって知ったら羊くんを追いかけてドイツに行くって思うでしょ?なんかそれって押し掛け女房みたいで引かれるかなって……あっ結婚したくないってわけじゃないんだよ?寧ろその為の準備っていうか……っ、ごめん今の忘れて」
やばい、絶対結婚意識してるって思われた……
周りの友達も少しずつ結婚してきて意識していないと言ったら嘘になる。でも私たちは国を超えての遠距離だし羊くんはプロのサッカー選手でもあるから周りの子たちと同じように事が進むとは思っていない。でもやっぱり結婚というものに憧れはあったりする。
「なんで忘れなあかんの?」
「羊くんはこういうの苦手でしょ?その……一方的に願望や期待を押し付けられるの。それに私は今のままでもじゅうぶ……ぶっ?!」
「自分どこまでアホなん?」
先ほどと同じように両頬を挟まれてぐっと顔を引き寄せられる。やっぱり羊くんは思いのほかパワー系らしい。
「自分の好きな子にそんなコト言われて嬉しないわけがあらへん」
「え……重いって思わないの?」
「思わへんよ。それにキミの場合は押し付けてないやろ。寧ろドイツ語勉強して僕に合わせようとしてくれてるやん」
頬から手が離れていったと思えばそのまま背中に回され抱きしめられる。それだけで十分すぎるほど自分が愛されてるんだなって伝わってきた。
「キミから言わせてごめんな」
「ううん……」
「ならもう覚悟はできてるっちゅうコトやな?」
「えっ?」
幸せに満たされていればとんでもないセリフが返ってくる。いや、私の方が先に言ったのだけども。でもそれを肯定するかのようなセリフに耳を疑った。
「僕はこれからもずっとキミといたいって思っとるんやけど、ちゃうん?」
「へ……あっ、わ、私も一緒にいたい…!!」
叫ぶように言えば喉を鳴らして笑われた。そして背中に回された腕が緩められ身体を起こせばそこには愛おしい人がいた。
「ほな明日指輪見に行こか。実はいくつか候補はあんねん。それでキミに似合う指輪選んで僕からちゃんとプロポーズさせてもろてええやろか?」
「それは嬉しいんだけど、急すぎない…?」
嬉しい、嬉しいのだけども、あまりにトントン拍子で話が進みすぎているような……
「まだ婚約指輪やもん」
それでも急なのでは……しかし羊くんの笑顔の前では頷く以外の選択肢はない。そして顔を近づけられてしまえば目を瞑るほかなかった。それにしても、
「末永く一緒におろうな」
誓いのキスには早すぎる。