飴と鞭の使い分けが上手い氷織羊の話


Q.なぜ休みの日まで仕事をしなければいけないのか?
A.押しに弱い私が上司に仕事を押し付けられたから。

「ほんま災難やったなぁ」

朝食後のコーヒーを飲みながら愚痴っていれば代わりに洗い物をやってくれていた彼氏さまが同情の目を向けた。対面キッチンのためダイニングテーブルにいてもその顔はよく見える。だから私はぐでたまのように上半身をテーブルに預けながら更に愚痴を続けた。

「同僚の人が風邪ひいちゃった分、仕事が残ってるからしょうがないんだけどね。でもなんで私なの……」

他にも同じ部署に人はいるのにね。昨夜、仕事用の携帯にメールが着ており念のため確認したところ「月曜の朝までによろしく!」の一文と共にPDFが送られていたのだ。泣ける。

「それはキミが優秀やからやろ」
「違うよ、私が断れない性格なの知って押し付けてくるんだよ」

洗い物を終えたのか流水音が止まった。そしてぐるりと回って私の真向かいへと座る。突っ伏したままの状態で視線だけで確認すれば本日の青空にも負けない澄んだ水色がこちらを見ていた。

「あんま自分を卑下するもんやないで。ほれしゃんとしい」
「だって私ばっかり……」
「どっちにしろ引き受けたんなら責任持ってやり」
「羊くんが甘やかしてくれない!」
「いま甘やかしたとこで何の解決にもならんやろ」

私としては「テキトーに終わらせればええやろ」とか「仮病使うて上司に言い訳しぃ」とか、そんなことを言って欲しかったのだけど返ってきたのはただの正論だった。しかも有無を言わさないような圧まである。

「う゛ー……」

未だに会社に行く気力が湧かない私はテーブルにおでこを擦りつけた。
羊くんの言う通り、引き受けたからにはちゃんとやろうとは思っている。甘やかしてもらったところでテキトーに終わらせるつもりも下手な言い訳をするつもりもなかった。

「せっかく羊くんも休みなのに」

しかし本来ならば今日は羊くんと出掛けるはずだったのだ。基本、暦通りの休みである私がクラブチームに所属する羊くんと休日が被ることは早々ない。それは土日に試合があることがほとんどだからだ。

「はぁ……」

でも珍しく今日は丸一日オフで旅行はできないけどお出掛けしようかって話をしてた。一緒に暮らしてはいてもデート別物だ。

「中目黒にできた生ドーナツに東京駅のピスタチオサンド」

相も変わらずぐでたまのようにだらけていれば頭上から魅力的な言葉が降ってきた。それは私が兼ねてより食べてみたいと思っていたお店の商品だ。

「あとは缶が可愛い言うてたクッキーがあったなぁ」
「大丸にあるやつ!」

勢いよく起き上がり叫ぶように言えば「せやったね」と頬杖を突きながら羊くんが小さく笑う。そしてにっこりと微笑んだまま言葉を続けた。

「仕事頑張ってくる言うなら僕も今言ったモン買いに頑張ってくるわ」
「ほんと?!」
「でもこのままウチでぐーたらしてる子ぉには食べさせへんで」
「着替えてきます!」

すぐさま立ち上がり部屋に駆け込んで着替えと化粧を済ませる。
分かりやすく提示されたご褒美に私のやる気スイッチは完全にオンになった。今となっては仕事を押し付けてきた上司に感謝までしているほどだ。

「よし、行ってきます!」
「ちょい待ち、スマホ忘れとる!」
「あっごめん!」
「しかもブラウスの襟捲れてんで」

飛び出す勢いで靴を履いた私を羊くんは慌てて呼び止める。そして母親のように服の襟を直し乱れた髪までも整えてくれた。それから示し合わせたように目が合って。だから期待して瞳を閉じた。

「…………え?」
「ほな、いってらっしゃい」
「なんで?!」

今のは絶対にいってらっしゃいのキスの流れだったじゃん?!しかし羊くんは絶えず笑みを絶やさずにこにこするばかり。私が期待してたの気付いてたよね?

「リップとれてまうやろ」
「また塗るからいいの!」
「でもなぁ」
「えー!なんっ……」

ふにっと唇に人差し指が添えられる。そしてようやく静かになった私と視線を合わせるように羊くんが屈んだ。

「したら行かしたくなくなるやろ?せやからこの続きはとっとこうなぁ」

デザートは食事の後に、好きなものは最後に食べる——そう言われたようなものだった。そしてそれを自分に言い聞かせるように言った言葉に、私はただただ頬を染めるだけだった。

「そ、うだね……」

火照った顔を冷ますように玄関扉を開ければ外から柔らかな風が入り込む。そして外は見事な晴天である。こんな日にオフィスに篭っての仕事は嫌だがおかげでやる気湧いた。

「じゃあ行ってきます!」
「ふふっ仕事終わらせてきたらめいっぱい甘やかしたるわ」
「?! すぐに終わらせてくる!」

そして追い打ちとばかりに言われた台詞に、私は今度こそ家を飛び出した。