同棲中の糸師冴のトロフィーを壊してしまった話
立ち尽くしておおよそ三分、当然のことながら目の前の光景は一切変わっていなかった。
「やってしまった……」
私の足元にはポッキリと先端が折れたトロフィーが転がっている。三分前まではある一人の選手の功績を讃えるに相応しい黄金の輝きを放っていたというのに今となっては落ちた隕石のごとくひどい有様となっていた。
「冴くんのトロフィー……どうしよぉぉ……」
それをやらかした犯人である私はついに現実を受け入れて膝から崩れ落ちた。
冴くんとスペインで暮らし始めて早一年。同棲を機に引越しをして広くなったリビングの一角に冴くんが今までにもらったトロフィーやら賞状を飾っていたのだ。そして部屋の掃除をしていたところうっかりトロフィーの先端に手が当たってしまい今に至る。
「接着剤で付くわけないよね……」
落ちた破片を拾い集めてみるがそう簡単に直せるものでもない。しかもこの落としたやつは冴くんがスペインで初めてその功績が認められたときに貰ったものだ。
「はあぁぁ」
申し訳なさと自分の注意力のなさにため息が漏れる。
冴くんのことだから正直に話して謝れば怒ることはないだろう。そもそもこのトロフィーすら引越し前はクローゼットの奥底に仕舞い込んでたくらいなのだから。元々、物に執着しないタイプだし「怪我はなかったか?」と優しい言葉すら掛けてくれることだろう。でもこのまま彼の功績を粗末に扱うことだけはしたくなかった。
「一体どうすれば……あっ!」
絶望の地へと落ちかけた私に打開策が降ってくる。そうだ、そういえば一つだけ伝手があった!
私は素早くスマホを取り出してある場所へと電話を掛けた。
◇
「おお〜!すごい、凛ちゃん二得点目だ!」
「前のゴール外さなければ三点目だったな」
「またそんなこと言って……あっごめん」
冴くんとソファに並んでP・X・Gとマンシャイン・シティの試合を見ていれば不意にスマホが着信を告げた。画面には先日連絡した相手の名前が表示されている。私は慌ててスマホを手に取り別室へと移動した。
「はい」
『夜遅くに悪いね。キミから依頼を受けていたものが無事に直ったよ』
「本当ですか?!」
相手はスペイン郊外に工房を構える店主からだった。以前インテリア照明を購入した際、そこでは家具やアンティーク製品の修理も行なっているとの話を聞いていた。そこでなんとか直してもらえないかとお願いしていたのだ。
『ああ。もういつでも取りに来てくれて構わないよ』
「なら明日伺います!」
『わかった』
ここ数日の胸のつかえが取れたかのような気分である。
実はまだ冴くんには壊してしまったことは言っていない。直したトロフィーを渡して謝ろうと思っていたため、冴くんに隠していることへの罪悪感も含め私を苦しめていたのだ。
「誰からだ?」
「え?」
足取り軽やかにリビングへと戻れば冴くんから鋭い眼光が飛んできた。サッカーの試合はちょうどハーフタイムへと突入したのかテレビには飲料水のCMが流れている。
「電話」
冴くんからの問いかけに再び彼へと視線を戻す。そのターコイズブルーは真っ直ぐに私を見つめていた。
「友達だよ」
「日本の?」
「そうそう、高校の時の友達」
そそくさと先ほどまで座っていた位置に腰を下ろす。しかしどういうわけか未だに痛いくらいの視線が突き刺さってくる。
「明日どっか出掛けねぇか?」
不審がられたかとそわそわしていれば冴くんがいきなり話題を変えてきた。私としては助け船。そしていつもなら飛びつきたくなるほど嬉しい話。だがしかし、明日というのは頷けない。
「明日?」
「おう。俺も丸一日オフだし偶には出掛けんのもいいだろ」
出掛けたい。めっちゃ出掛けたい。冴くんからデートのお誘いなんて久しぶりだし偶にはお家以外の場所で過ごしたい。でも、明日は無理なんだ……
「ごめん。実は明日は絶対に外せない予定があってちょっと無理かも……ごめんね」
「……そうか」
再び沸いた歓声が耳に飛び込んできてテレビを見れば後半戦が始まったところだった。そうなればまた自然と会話がなくなって。でもなんとなく気まずい雰囲気だけはなくならなかった。
◇
朝イチで身支度をしていれば冴くんも出掛けてくると言って私よりも早く家を出て行った。昨日、お出掛けを断ってしまったことは引きずってはいないらしい。それに安心して私も急いで家を出た。
「こんにちは!」
「やぁ待ってたよ」
バスを乗り継ぎ辿り着いた工房。店の扉を開ければ連絡をくれた初老の店主に迎えられる。彼と握手し一言二言言葉を交わすと裏から例のものを持ってきてくれた。
「これだよ。出来はどうかな?」
「すごい!完璧です!」
あの時の悲惨な姿の面影もなくそこには金色の輝きを取り戻したトロフィーがあった。細かすぎて拾いきれなかったカケラ部分も専用の塗料で補強してくれたらしく不自然な凹凸もない。完璧なまでの職人の仕事であった。
「ハハッ満足してもらえてよかったよ。実はその修復は息子がやったんだ」
「そうなんですか?」
「私は家具の専門でね、陶器なんかの修復は息子がやってるのさ」
誰が担当しようとも直ってくれさえすれば満足である。私は改めてお礼と、そしてお代を払い店を出た。
「そこのキミ!もしかして修復品を取りに来てくれた子かい?」
お店を出て数歩、同い年くらいの青年に呼び止められる。私がそうだと答えれば彼はその店の店主の息子だと名乗った。
「トロフィーを直してくださった方ですね!素晴らしい出来でした、ありがとうございました」
「満足してくれてよかったよ。それで、そのトロフィーの持ち主はレ・アールのサエで間違いないのかい?」
「実はそうなんです……」
「そうか!」
どうやら彼は冴くんの熱狂的なファンらしい。十代のまだ下部組織にいた時代から冴くんのことを知っていたらしくクラブチームの年パスも持っているのだとか。
「今回修理に出してくれたトロフィーはラ・リーガでの功績を讃えたものだろう?こんな形だったけどその貴重な品を手に取ることができて嬉しいよ!修復したトロフィーを見た瞬間、あの時の授賞式の光景が蘇って……」
「わかります!当時は盛り上がりがすごかったですもんね!その時のインタビューはある意味伝説ですし!」
「例の十秒コメントだろう?あのクールさこそサエだよな!」
まさかこんなところで冴くんについて語れるなんて。
彼の熱意に後押しされるように私の口も自然と回る。
「もはや伝説ですよね!そうだ、伝説と言えば今シーズンのバルサとの試合のゴールもすごかったですよね!コーナーキックからの直接ゴール!」
「ああ、あれは僕も感動したよ!まさかチーノ以外にあんなゴールを決められるなんて!それにしてもどうやらキミとは気が合いそうだ。もしよければこの後……」
「俺の恋人に何の用だ?」
前のめりになっていた身体が後ろに引かれる。そしてぽすっと頭が柔らかいものに当たった。これは一体どういう状況か。しかし振り返るより先にふわりと鼻孔をくすぐったハーバルウッディノートの香りに誰が私を抱き寄せたのかが分かった。
「サ、サエ……?!あのレ・レアールの?!」
「ああそうだ。で、人様の恋人に言い寄ってるテメェはなんだ?」
「冴くんちょっと待って!」
「あ?」
なんでこんなところに冴くんが。でも今はそんなことを気にしている余裕はない。
「この人はお店の人で今日はお願いしていた商品を引き取りに来てたの!だから、」
「そうか。世話になったな」
帰るぞ、と右手首を掴まれそのまま引きずられるように連れて行かれる。修理を請け負ってくれた彼にはなんとか会釈だけはしておいた。あとでご主人の方にお詫びの電話くらいは入れておいた方がいいかもしれない。
しばらく歩くと見知った車が見えてきた。どうやら冴くんは車でここに来たようだ。
「…………」
そして助手席に座らされ冴くんも運転席へと乗り込んだのだがエンジンを掛ける気配はない。それと同時にのしかかるは沈黙という名の気まずさ。これは絶対怒っている。しかし何から話せばいいだろうか。デートを断ったことか、何も言わずにこんなところまで来ていたことか。いや、違う。
「おい、本当のところあの男とは——」
「冴くんのトロフィー割っちゃったの!ごめんなさい!」
「……は?」
全ての発端は今私が抱えているトロフィーである。
持っていた紙袋の中に手を入れ梱包されたそれを取り出す。そして緩衝材を剥ぎ取っていき輝きを取り戻したトロフィーを冴くんの前に差し出した。
「実はこの前、掃除をしてた時に床に落として壊しちゃったんだ。それで修理をお願いしてたの。さっきの人はこのトロフィーを直してくれた職人さんだよ。ずっと黙ってて、ごめんなさい」
冴くんはトロフィーを手に取りターコイズブルーの瞳でそれをまじまじと見た。完璧な職人の仕事と言えどもそこまでしっかり見られてしまえば継ぎ接ぎに気づいてしまうかもしれない。
「はぁ……」
「ほ、本当にごめんなさい!直したものを見せて冴くんにはちゃんと説明しようと思っ……えっ?!」
冴くんのため息には全身が凍り付いた。自分の犯した罪は自覚しているけれど冴くんに嫌われたくない。その一心で見苦しい言い訳を口にしようとしたら、ポイっとトロフィーが後部座席へと投げられた。それは椅子の背中に当たり柔らかくバウンドして座席に転がった。
「なんっ…——んぅ」
後部座席を見ながらあんぐりと口を開けていればふいに顎を掴まれる。そしてそのまま角度を変えられたと思ったら唇には熱いものが押し付けられていた。半開きだった口の中にぬるりとした感触があって、先ほどよりも濃くなったハーバルウッディの香りに冴くんが私の口をふさいだのだと理解した。
「ふっ……ん、…はぁ」
「ったくそんなコトかよ」
ようやく離れた唇に息を整えていれば冴くんは吐き捨てるようにそう言ってまた一つため息をついた。
私はその様子に苛立ちを覚える。悪いのは百パーセント私だけど、この数日間ずっと気を悩ませてきたのだ。それを「そんなコト」で片づけないでよ。
「だって冴くんの実力と努力が認められてもらったトロフィーなんだよ?全然よくな……むっ?!」
顎の次には片手で頬っぺたを挟まれた。親指と人差し指、中指がそれぞれ頬にめり込んで地味に痛い。
ギブアップを示すように冴くんの腕を叩けば「少し黙ってろ」と言われ、可能な範囲で首を縦に振った。
「あれが壊れようがなくなろうが俺のやってきたコトはなに一つ変わんねぇ。でもお前は一人しかいねぇだろうが」
冴くん言葉は確かに耳に届いたのに、言っていることの意味が分からずに瞬き二回。そしたらグッと顔を近づけられたので思わず目を瞑ってしまった。だってまたキスされると思ったから。
——しかしその時は一向に来なかったためうっすらと目を開ける。開かれた視界の先には綺麗なターコイズブルーがあった。
「よそ見すんじゃねぇ。俺だけを見てろ、そしたらお前を世界一幸せにしてみせる」
「うん……!」
鈍い私でも分かるように伝えてくれたその言葉に二つ返事で頷いた。そして再び目を閉じれば啄むようなキスが落とされる。そうしてしばらく、じゃれ合うように互いを求めあった。
「ねぇ、冴くん。せっかくだから帰りに少しデートしてかない?」
痺れるくらいの余韻が残された口を開きそう冴くんに提案してみた。
もう午後になってしまったけれど今日という日はまだ終わっていない。だから今からふたりの一日を仕切り直したかったのだ。
「却下」
「えっなんで?!」
しかし秒で断られてしまった。冴くんは法定速度の範囲内で車を飛ばしている。ナビを見る限りそのまま自宅に直行しているようだった。
「お前の場合、口で言っても理解できてるか怪しいとこあるからな」
「なにが?」
「……家に帰ったらわかる」
翌日、すっかり足腰に力が入らなかった私はようやくその言葉の意味を理解できた。
そして思いのほか冴くんに愛されていたんだなぁとその身をもって知ったのだった。