長い長い戦いは、ついに終息したらしい。
時代を超えて人々の安寧を脅かしてきた鬼という存在に、ついに人々が勝利を納めたのだそうだ。
それはなにより素晴らしいことで、鬼に一族を殺され天涯孤独になった私にとっても、やっと報われる時が訪れた今、本来ならば手放しに喜ぶべきであるはずなのに。


「お別れ、かぁ」


鬼がいなくなったということは、つまり鬼狩り様方もその責務から降りられるという事だろう。
これまで数多の尊い命が鬼によって葬られてきたのだから、もうそんな事がなくなった今、それは祝福すべきことなのに。


親が残してくれた一人で住むには広すぎる屋敷で、縁側に腰掛けてぼぅと庭先を見つめれば、私の脳裏にはあの人の姿が映る。


時には夜分に、
ある時には早朝に、
傷付いたそぶりなんてこれっぽちも見せずにいつだって涼しいご尊顔の彼は、いつも小さな声で告げる「こんな時間にすまない」という一言の詫びと共にこの屋敷を訪れた。
綺麗な所作で食事を済ませて、烏の行水の如く湯浴みをしたら、まるで死人のように静かに眠る。
彼はこれまでこの屋敷を訪れたどの鬼狩り様より手のかからない方だった。


そんな彼に、いつだったか珍しく傷の処置を頼まれた時があった。
その日彼が屋敷に訪れたのは深夜と呼ぶにも早朝と呼ぶにも難しいもうだいぶ深い頃合いで、生憎お医者様をすぐにお呼びできるような時間でもなく、申し訳なさを感じながらも私が手当てをさせて頂く運びとなったわけだけれども。
湯浴みを終えこちらで用意した浴衣を身につけて、いつも結い上げている少し固そうな髪を下ろしている姿の彼に、不謹慎ながら胸がどくり、と高なった。


(綺麗、だなぁ)


それはもうとっくに成人した立派な男性に向けるには不適切な言葉かもしれないけれど、伏し目がちにされてあまり光を取り込まない黒目がちな彼の瞳を縁取るまつげは長くて、きゅっと結ばれた薄い唇は上品で、やはり彼には綺麗、という言葉が1番似合っていると感じた。

あれほどまでに時間を長く感じた時はこれまでにあっただろうか。
肌消させた浴衣からのぞくその白い肌に、消毒液に浸した綿球をそろりそろりと近付けて撫でれば、痛みに小さく跳ねる肩に思わず私も小さく跳ねた。


「も、申し訳ありません…」
「すまない、続けてくれ」
「夜が明けたらお医者様をお呼びしますから」
「いや、この手当てで十分だ」
「でも…」


たしかに縫うほどではないけれど、痛々しいその傷に出来る限りの手当てをしながら、頭上にある彼の表情をちらりと覗く。
いつだって物憂げな、濡れたような漆黒の瞳
思わずその瞳に吸い込まれそうになり、私は顔を何度か小さく横に振る動作で現実に引き返して、そのまま口を開く事なくただ淡々と傷の手当てを終えて彼が過ごす客間を後にした。
そのまま私も自分の寝室で布団に潜り込んで目を閉じるのだけれど、目蓋の裏にはつい数分前に目にした彼の瞳が焼き付いて離れなかった。


(傷付いてるのは、彼の心の方かもしれない)


なんでかそんな気がしたのだ。
だって、あんなに悲しそうな瞳を私は生まれてこの方始めて目にしたから。


結局その夜私は眠れなくて、夜が明けたらすぐにお医者様を呼びに行こうと朝日が昇るとともに布団から出たけれど、その頃には彼、冨岡さんもすでに起きていらしていて、彼はつい数時間前に身につけていた浴衣姿ではなく、いつも身につけていらっしゃる半々のきれが合わさった不思議な羽織と鬼狩り様の隊服姿で屋敷を後にするところであった。
手負いの身であるのだしせめて朝食を召し上がってから出たらどうかと慌てて声をかけたけれども、次の任務先への道中が遠いから、と冨岡さんは結局そのまま屋敷を後にされた。


でもその2日後の晩、また彼は屋敷を訪れて、いつもどおりに「こんな時間にすまない」と告げられたかと思ったら、その後にいつもと違う言葉を続けられた。
「明日は朝食をいただいていく」と。
そんな律儀な彼に思わず小さく笑いを溢すと、「何か可笑しいか」なんて言いながら不思議そうな顔をする彼に私は思わずまた笑いをこぼした。
それから冨岡さんは屋敷を訪れるたびに朝食をとってから次の任務に出向かれるようになった。
好物だなんて決して口には出さないけれど、朝食に鮭大根を出した日には口元に弧を描く彼に気がついてからは、彼のために腕によりをかけて振る舞った。
いつしか急に姿を見せなくなる他の鬼狩り様とは違って彼は、来る日も来る日も必ずこの屋敷を訪れてくれた。
それでもいつも、屋敷を後にする半々羽織の後ろ姿を見送りながら私はいつも決まって彼の無事を祈った。


私と冨岡さんの名前のない関係が始まったのはその時からだ、と私は勝手に思っている。
それは決して男と女の恋物語でもなんでもないし、何でもないただの藤の花の家の主人と一人の鬼狩り様の関係でしかないのだけれど。
でもそれは私にとっては特別なものだったから。
他の何でもないその名前のない関係が私にとっては何より愛しい生活だったから。
しかし名前のない関係には明確な終わりなんていうものはなく、きっとこのまま何事もなかったようにお互い鬼のいなくなった平穏な世界で、それぞれの新しい生活に溶け込んでいくのだろう。


(私はこのままこの屋敷で一人、これからどう生きていこう。)


刀なんて到底握れない非力で病弱な私の代わりに鬼を討ってくださる鬼狩り様を非力ながら支えていくことが私にとっての生き甲斐だった。
おかげさまで親の残してくれた遺産を食いつぶせば、贅沢なんて到底できないけれど一人慎ましく生きていくことくらいはおそらくできるだろう。
しかし、もう誰も訪れなくなるであろう村のはずれのこの広い屋敷でただ一人、今後の人生を終えることを思うと、明るいはずの未来が真っ暗な闇に飲まれるような気がして、慌てて首を横に振った。


「名前、」

「ああ、ほら、聞こえないはずの声まで聞こえてくる」


冨岡さんはいつしか私の事を名前で呼んでくれるようになって、それは孤独な私にとって親を亡くした時以来数年ぶりの出来事であったから、 あの時は思わず涙が溢れて彼のことを困らせたっけ。


「おい、名前、」

「え…っ?」


先ほどより少し大きな声で私を呼ぶその声に、その声のする方に振り返ると、そこには見慣れた半々羽織を羽織った冨岡さんの姿。


「やだ、幻覚まで見えてきたのかな…」

「さっきから一人で何を言っているんだ」

「ふぇ、…い、痛いです!」


一歩一歩近づいてくるほどに鮮明になる冨岡さんの姿に、これは夢ではないかと何度かまばたきを繰り返していると、目の前に立った冨岡さんに頬をきゅっと摘まれる。
その指先はひんやりつめたくて、でもその冷たい指に摘まれた私の頬はどんどん熱を持っていって、ああこれは夢なんかじゃないんだ、と実感したら勝手に涙が溢れていた。


「こんな時間にすまない」

「こ、こんな時間にって、まだお昼ですよ…っ」

「ああ、そうだ。こんな時間に藤の家を訪れる鬼狩りはいないだろう」

「本当に、そうですよ…」


少し久しぶりに見る冨岡さんの姿はひどく疲弊していた。
おそらく大きな怪我でも負ったのだろう、まだ所々に包帯を巻いて血が滲むその痛々しい姿に私の瞳からはさらに涙が溢れ出る。


「お医者様を呼んできますからっ…」

「大丈夫だ、治るにはまだ時間はかかるがもう傷の手当はうけている」

「じゃ、じゃあ、どうしてここにいらっしゃるんですか」

「理由が必要なのか」


目の前の状況が何が何だかわからずにわんわんと声を荒げて泣きじゃくる私を横目に、いつもの様子で淡々とした様子の冨岡さんは私の問いに少し難しい顔をして、考えるようなそぶりを見せる。


「どうして、か」


けれどすぐにこちらに向き直って、飄々とこんなことを言って抜かすのだ。


「任務を終えたから、帰ってきた」

「…ばかじゃないですかっ」

「そうかもしれないな」

(ああ、またほらそうやって)


冨岡さんが時折見せる笑顔はなんだかまるで困ったように眉を下げてそれはもう不器用なもので、でも私はそんな彼の笑顔が大好きで、もっと見たい、なんて思ってしまうのだから。


(ばかは私の方かもしれない)



それはちいさなひかりのような



「冨岡さん、」

「なんだ、名前」

「おかえりなさい」



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