引かれたい(菜都さんへ/マツバ)
「も、もういいです!もう充分です…っ」
「そう?」
これからいいとこなのに、そう言って意地悪そうにマツバさんは笑んだ。
「落ちも読めましたし!」
「あれ、読めた?」
怖い体験を多くしたと言うマツバさんに、話す時も怖く話せるんですか?と聞いたのが間違いだった、怖すぎる。びくびくと震える私に反して目の前の彼は目をらんらんと輝かせているような気がするが、気のせいだろう。(…怖がる名前も可愛いね、なんて呟いた気がするが、それも気のせいだろう。)
「お別れの時、あいさつに来たってことでしょう?」
「そうだよ。」
「箇条書きみたいな感じで言ってくれたら怖くないのに。」
「それじゃ怪談にならないよ。」
テーブルを挟んだ向かい側、マツバさんはゆっくりとした動作でお茶をふくんだ。
「でも、いくらお別れでも怖いのは嫌です。」
「そうか…。じゃあ成功だね。」
「…成功?何がですか?」
「だって、今、怖くないでしょ?」
そう言って湯のみを両手で包むマツバさんが綺麗に笑う。私はその笑みに見惚れかけていたけれど、慌てて頭を働かせる。…今?どういう意味だろう?
「僕は今、名前にお別れを言いに来てるから。」
「最後の最後が怪談なんて絶対嫌ですよ。」
なんて趣味の悪い冗談だろう、いい大人が悪ノリしているな。そう思ったので影を落としながら笑うマツバさんに冷ややかな視線を浴びせる。するとマツバさんは妙な笑顔のまま私の手を握った。ひたり、恐ろしく冷たい手に、私の背筋が思わず一度大きく跳ねる。
「ほら、僕の手、冷たいでしょう?」
「…怒りますよ。」
「…バレた?」
今は真夏。今晩も熱帯夜である。つまりそんな季節に若者が熱いお茶など欲するはずはなく、私達の湯のみには氷がたっぷりその体積を多く占めていた。両手で包んでいれば当然その手は冷える。
「バレますよ。バカにしないでください。」
「だって随分怖がってたみたいだから、その流れで怖がってくれるかなぁと思って。」
「そんなに私を怖がらせたいんですか。」
「そりゃあ、まあ、怖がってくれるなら極限を目指したいし。」
「なんですか極限って。」
思わず頭を抱えた。抱えたその手がじっとり湿っているのは喜ばせたくないので秘密にしておこう。
「でも、本当にさ、」
「?」
マツバさんは目を湯のみに向け、一度躊躇ってから続きを紡ぐ。どうやらおふざけモードは終わりらしい。
「本当にお別れの時は、怖がらせても会いに来たいなあ。」
「………。」
不謹慎な、そう思ったけれど、恐らく彼はそれを知っているから一度躊躇ったのだろう。だがそこにはきっと、今すぐと言った意味は含まない、だから口にしたのだ。つまりそれは、いつかの日の話。遠い未来と仮定した話として。ならば私も真面目に答えようか。
「その時はマツバさんの方は見ないし、声も聞いてあげませんよ。」
「…ひどいなぁ。」
「だからずぅっと私の隣であたふたしてるといいですよ。」
わざとらしくにっこり笑ってやるとマツバさんは苦く笑って、湯のみが流した汗を台布巾でするすると拭った。
「それは嬉しいけど、もしかしたらあたふたしないかもしれない。」
「あっさりいっちゃうんですか。」
「うーん、まあそうだね、」
マツバさんは残りのお茶を飲み終えると、私の湯のみと一緒に流しに持っていく。私の家はとても狭いアパートなので、流しは今いるテーブルと同じ場所にある。壁一枚隔てることなく、喋るのに困る事も無い。
「あっさり、名前の手を引いちゃうかもしれない。」
がらがら、流し台に転がる氷がうるさく泣き喚く。それを眺めるマツバさんの顔はこちらから見えない。
「いいですよ、引いても。」
単純愚直考え無し。今の私を指すのにお似合いの言葉だろう。いざその場になったらどうなのかもわからない現在、何とでも言える。ただ、私は怖いとか嫌だとか思っていたならそれをそのままそう言うし、マツバさんもそう言われても特に何とも思わないだろう。
「そっか。」
振り向いたマツバさんは何だか照れている。ああ、取りようによっては今の私達の会話は、バカップルの愛してる!私も愛してる!並みに甘ったるかったかもしれない。けれど例えだとか空気だとかが明らかに苦い、もしくは暗いものだったので照れるのは何か違うだろう、それでいいのかマツバさん。そう思うのに彼が照れるのを見て結局自分の頬も熱くなっていたら世話無いだろう。
「そろそろ寝ようか。」
「そうですね。」
マツバさんが差し出した右手は、室内、それもベットまでの数歩の距離には全く不必要なものだ。けれど私は考える事もせずにその右手に左手を重ねる。その行為は反射的でも、習慣的でもない。
「段差気をつけてね。」
「ここは私のうちなんですけど。」
手を引かれたい
(ただ、それだけ。)
(手を繋いでどこへでも。)
100628
back
site top