リボンに口づけ

 規則正しく時を刻み続けるのは、誰の時計だろう。
 ペーターはアリスの後ろ姿を眺めながら、ふとそんなことを考えた。
 この時間の狂った世界で、心臓代わりの時計だけが一寸の狂いもなく針を進めているなんておかしな話だ。それこそ異質で、奇妙で、狂気じみている。
 正確な時計なんて、誰も持っていないのかもしれない。
「僕も、アリスも……」
 そんなつもりはなかったのに、自然と声が出ていた。
 小さな呟きは言葉としてではなく、音としてアリスに伝わってしまう。鏡の中の彼女と、目が合った。
「ペーター? 何か言った?」
「ええ。大好きです、と」
「あー、はいはい」
 いつものように嘆息を吐いたアリスは、再び髪にブラシを通し始めた。さらり、さらりと緑がかった茶色の毛がブラシによって流れていく。窓から差し込む陽光に照らされた毛先は稀に色彩を変えた。
 アリスの全てを把握しておきたいペーターの瞳は、無意識に揺れ動く毛先を追いかける。
「ペーターのそれ、癖よね」
「え?」
「そんなにじっと見ちゃって」
 アリスは零すように小さく笑った。頭が僅かに揺れたことによって、またしても髪の毛がさらりと揺れる。
「そんなに見てましたか? すみません」
「別に、いいんだけど……。いつもと同じことの繰り返しなのに見てて楽しいのかなって」
「もちろんです。あなたに関することなら何でも」
「またそんなこと言って」
 アリスは呆れながら水色のリボンを手に取って、髪の内側に通す。ペーターの長い耳に、シュルリと布地擦れの音が届いた。
 その音に、どこか焦燥感を駆られる。
 何かに突き動かされるように、ペーターの脚はアリスのすぐ後ろまで駆け寄っていた。そして、リボンに絡む細い指先を掴む。
「な、なに!?」
 突然のことに驚いたアリスはペーターを仰ぎ見るように顔を上げた。
 今度は逆さまになった彼女と、視線が重なる。
「……このリボン」
「え?」
「僕が結んでもいいですか?」
「ペーターが? ええと、じゃあお願いしようかな」
 アリスは躊躇いがちにリボンから指を離した。
「ありがとうございます。痛かったらすぐ教えてくださいね」
「わかったわ」
 軽く頷いたアリスは正面に向き直って、膝の上で指先同士を組み交わせた。手持ち無沙汰になったことによって、手をどうしたらいいのか分からないのだろう。
 リボンを結びたいだなんて、咄嗟に出た言い訳だった。本当はこれをどこかに隠してしまいたいくらいだ。
 それでもペーターはぐっと腹の底に焦燥感を押し込め、リボンをアリスの頭の頂上で緩く絡めた。そして、リボンの結び目を絞っていく。それがどこまでもいけるような気がして、アリスの頭の小ささを改めて思い知った。
 こんなにも小さくて、愛しい存在があることをゆっくりと噛み締めた。
「ああ、なんて幸せなんでしょう」
「大袈裟ね」
「そんな事ありません。愛してますよ、アリス」
 リボンを結び終えれば、アリスはこの部屋から出ていくだろう。
 その背中を引き止めたくて仕方ない。本当は、この部屋にずっと留まっていてほしい。そんな願いがペーターの奥底で渦巻いていた。
 アリスの幸せを願ってこの世界に連れてきた。だというのに、彼女が望んでいないことをしてしまいそうになる。
 それでもアリスの幸せを願っているからこそ、ペーターはギリギリのところで行動に移さないでいられた。
 役持ちと関わりながら、この狂った世界で生きていく。これがアリスの幸せならば。
 ペーターはリボンのハート模様に祈りを込めて、そっと唇を落とした。
 ――この先ずっと、アリスが幸せでありますように。