「ナイトメア様。いい加減、病院に行きましょう」
「嫌だ! 私は絶対に行かないからな!」
子どものような駄々を捏ねる上司に、グレイは小さくため息を吐いた。
ナイトメアは「私はとっても偉い夢魔なのだからもっと尊敬されるべきじゃないか?」と常々言っているが、尊敬されるにはそれに見合った言動をするのが大前提だということを忘れているような気がする。
まずは、部下の手を煩わせずに病院へ行く。これが尊敬される上司への第一歩に違いない。
「あっ、今なにか失礼なこと考えただろう」
「そんな事ありませんよ」
グレイが思考を読んでみろとばかりに笑顔を向ければ、ナイトメアは「ぐっ!」と息を詰まらせ、悔しそうに顔を歪ませる。グレイはそんな彼をからかうように笑うが、内心では安堵していた。
ナイトメアの体調は、だいぶ落ち着いてきている。吐血は止まっている上に、喘鳴も聞こえてこない。先程の息も絶え絶えな状態が嘘だったかのようだ。
それでも、いつまた発作が出るか分からない。
吐血している時、他者が無理に身体を動かすのは病状を悪化させる可能性がある。だから今のうちに診てもらった方がいいだろう。
しかし、強引に病院へ連れて行こうとすれば夢の中に逃げられてしまう。そこから引っ張り出すのは不可能ではないけれど面倒だった。
どうしたものか、とグレイは思考を巡らせた。するとそこで、アリスの愛らしい声がグレイの耳に飛び込んでくる。
「病院に行かなきゃ駄目なの? ここに来てもらってもいい気がするけど……」
執務室までコーヒーを運んできてくれたアリスは、会話の途中からでも何の話をしているか分かったらしい。グレイはアリスからコーヒーを受け取って礼を言うと、彼女の問いに小さく頷いた。
「ああ、もうその段階は過ぎているんだ。器具が揃ってる病院でないとな。カテーテルとか」
その言葉を聞いた瞬間だった。ナイトメアが椅子を倒して立ち上がり、部屋の隅の柱にしがみついたのは。
「無理だ! そんなの無理に決まってる! 想像するだけでおぞましい……。ああ、なにやら気分が、うぇっ」
「柱に吐くのは止めてださい」
ナイトメアには言葉を本当に実現する力が備わっていた。要は、病は気からという部分も大きいのだ。
それを知っているグレイがヒクヒクと痙攣を起こす背中を擦り、アリスは真っ青な唇にハンカチを添える。
「う、ぅ……すまない……」
「ナイトメア。治療を受けてみたら? 今より少しはマシになるかもしれないわよ」
「うぐっ! 少しマシ程度で、あんな拷問を受けるくらいなら……ずっと具合悪い方が、マシだ……っ」
「あー……。私の言い方が悪かったわ」
アリスは額に手を当てて、緩く首を振った。
「アリス、また説得してみてくれ。君が説得を続けてくれればナイトメア様もきっと重い腰を上げるはずだ」
「え? そんなことないと思うけど……」
アリスはグレイの確信を不思議がった。
本人には分からないだろう。だが、グレイには分かる。ナイトメアもまた然り。
なにせアリスは余所者で、余所者はこの世界で愛される存在なのだから。
余所者の願いを退け続けられるほど、ナイトメアはこの世の理から外れていない。
グレイの意図を正確に理解したナイトメアは奥歯をギリッと噛み締める。そして真っ青な顔で啖呵を切った。
「私はどんなに言われても絶対に病院には行かないからな!」
これにはグレイもアリスも呆れるばかりだった。
そんなやり取りがあった数時間帯後、グレイに急を要する案件ができた。
いつもナイトメアを診ている医者が引退すると言い出したのだ。忌み嫌われる夢魔の診察を快く引き受けてくれる医者は滅多にいない。後任を探すのは骨が折れることだろう。
ならば後任が見つかるまでの薬を貰ってこなければならない。
グレイはすぐさまアリスを捕まえて、事情を端的に説明していった。
彼女は自分に対して多少卑屈で厳しいところがあるけれど、他人にはとても優しい。こちらの話を最後まで聞くと、アリスは難しい顔をして考え込んだ。
「問題はどうやって連れて行くか、よね。グレイはともかく私の考えてることは読まれちゃうもの。飲み物に薬草をちょっとだけ混ぜた時もすぐに気づかれたわ」
「ああ、あの時の……」
グレイは僅かに目を細めて思い返す。ナイトメアの執務室へ書類を届けに行った際、その現場に鉢合わせしたのだ。ナイトメアが「せっかくアリスが淹れてくれたものだから……ぐっ、う……」と唸りながらも時間をかけて飲んでいたのを覚えている。
薬草を飲ませるだけでも、アリスは相当手こずっていた。それが尾を引いているようで、眉間に皺を寄せてああでもないこうでもないと算段を立てては打ち消していく。
ナイトメアの身体を心配してくれるのは嬉しい。しかし、他の男のことでこんなに悩んでいる姿は正直なところ面白くなかった。自分から協力を依頼したというのに。
グレイは子どもじみた嫉妬に心の中で嘆息を吐き、アリスの眉間に親指をそっと当てる。
「えっ!?」
アリスは目をまんまるにして、グレイを見つめた。眉の間にあった皺も綺麗にほどけている。
少しだけ、溜飲が下がったような気がした。
グレイはアリスの額をひと撫ですると、唇の端をゆっくりと吊り上げる。
「大丈夫だ。君はナイトメア様を待ち構えてくれればいい」
「どういうこと?」
そうしてアリスが指示された場所は、裏口のすぐそばだった。
ここから伸びている廊下はクローバーの塔にしては狭く、人とすれ違うには注意が必要だ。そのため、滅多に通る人はいない。だからこそ、裏口の手前にある一室は物置部屋とされていた。
グレイはこの袋小路までナイトメアを誘導してくれるらしい。ナイトメアが裏口から抜け出せると気を緩めているところで、アリスが捕まえるのだ。
これで捕まえられなかったらどうしよう、と一抹の不安を抱える。夢の中に逃げられたら、アリスは手の出しようがない。
すると、髪を振り乱してやってくるナイトメアが見えてきた。彼はもうヘロヘロらしく、駆け足というよりは早歩きくらいのペースで通路を蛇行している。見るからに疲れ果てているけれどまだここにいるということは、もしかしたら夢の中に逃げ込めない状況を、グレイが作ったのかもしれない。
ナイトメアはゴール間近のランナーのような顔をしていた。しかし、裏口前で待ち構えているアリスを認識した途端、悲壮感丸出しの表情を浮かべる。
「はぁっ、はぁっ、アリス……頼むから、どいてくれ……ッ!」
ナイトメアはだいぶ息を切らしている。この調子なら女の細腕でも捕らえられそうだ。
「駄目よ、ナイトメア。一緒に病院へ行きましょう!」
「嫌、だぁあ!」
アリスが手を伸ばすと、ナイトメアの上着に指先が触れる。それを掴んで手繰り寄せようとするが、布地はするりとアリスから逃げていった。
ナイトメアが踵でブレーキをかけたのだ。そしてその勢いのまま急旋回し、物置部屋に飛び込んでいった。
「あっ!」
失敗した! とアリスの唇から思わず声が零れ落ち、前のめりになっていた身体によって少したたらを踏んでしまう。アリスがバランスを整えようと壁に手を当てたその時、ナイトメアの叫び声が物置部屋から聞こえてきた。
「ぐぁッ!」
「どうしたの!? 大丈夫っ?」
血を吐いたのかもしれないと焦ったアリスが部屋に入ってみると、様々な家具や備品の隙間からグレイがナイトメアの首根っこを掴んでいるのが見えた。どうやらあの叫び声は、グレイに捕えられた時のものらしい。
「ぐ、グレイ……! っごほ、行儀が悪いぞっ!」
「ナイトメア様は往生際が悪いですよ」
「悪くて、結構だ……ッ!」
ナイトメアはじたばたと暴れて、グレイの手を外そうと奮闘する。しかし疲れているのか、すぐに抵抗をやめてしまった。嘆息を吐き、だらんとグレイに寄りかかる。
そんな上司を、グレイはしっかりと支えていた。これでようやく医者に診せることができるので、アリスはひとまず胸を撫で下ろす。
そしてふと、とある疑問が浮かぶ。いったいどうやってナイトメアを捕まえたのだろう。
ナイトメアを追いかけていたなら、元々この部屋で待機していた可能性は低い。それに、出入り口は一つしかないのだから通路で待機していたアリスの目にも止まったはずだ。
アリスが突然現れたグレイの仕掛けに首を傾げていると、爽やかな風が首筋を撫でた。
荷物は窓を避けるように置いてあるので、換気はきちんとできる環境になっていた。風に揺られてカーテンが柔らかく膨らんだり萎んだりを繰り返す。
あの窓からなら、グレイも侵入は可能だ。けれども、彼がそんなことをするはずがない。
まさかね、とアリスは思い浮かんだ可能性を否定した。
「っう、はぁ、はぁ……そのまさかだぞ」
「え?」
小さくて聞こえなかったナイトメアの呟き。アリスはとっさに聞き返すけれど、ナイトメアこそアリスの声を聞き逃す。彼が急に、ハッとした表情になって頭を掻きむしり始めたからだ。
「グレイ……ッ! 敢えてアリスの心を読ませたな」
「なんの話ですか?」
「うぐっ! ……アリス。君、本当にこの男でいいのか?」
いいのか、なんて問われたアリスは首を傾げた。
「え? ええ、そうね」
今更な質問だ。グレイを選んで、この世界に残ると決めたのだから。もちろん心残りがないわけではないけれど。
なぜか胸の奥がツキリと痛んで、アリスはエプロンの裾を静かに握る。するとナイトメアが気まずそうに頬を掻いた。
「あ、あー……そうじゃないんだが……。まぁ君が幸せならいい」
「ナイトメア様、アリスに余計な事は言わないでください。早く行きますよ」
グレイはナイトメアの首根っこを掴んだまま歩み始めた。その動きに釣られて、渋々とナイトメアも病院へ向かおうとする。
いじけたせいで尖った唇はミステリアスな雰囲気を見事にぶち壊していて、グレイはやれやれと言わんばかりに肩を竦めさせる。そして、アリスを振り返って軽く頭を下げた。
「アリス、協力してくれてありがとう。行ってくる」
「うん、行ってらっしゃい」
アリスが緩やかに手を振ると、グレイはぎこちなくも同じように手を振り返してくれた。その仕草がアリスの胸を高鳴らせる。
「っ、狡いわ」
「何がだ?」
「何でもよ! いいから早く行って!」
「おっと、アリス?」
アリスは何も分かってないグレイの背中をぐいぐいと押して、物置部屋から追い出した。途中でナイトメアが吐きそうになっていたが、それどころではなかった。
扉を閉ざし、完全に一人きりになる。
「いつも大人な態度でかっこいいのに。あんな可愛いところもあるなんて……!」
本当に狡い人、とアリスは頭を抱え込む。もう抜け出せないところまできていると、認めざるを得なかった。