伝染

 ジャク、ジャク、と赤いパンプスが砂利を踏む。アリスは大きな石に足を取られないようにしながら、小さく嘆息を漏らした。
 道なき道を歩いているのは、アリスの意思ではない。相変わらず爽やかな笑みを浮かべたエースに肩を抱き寄せられて「こっちの方に花畑があったんだ」と寄り道させられているのだ。
 花畑なんて、メルヘンの代表格といってもいい。
 自分には似合わない場所であると自覚している。しかし、エースが連れて行ってくれると言うのなら、と大人しく身を任せてしまった。
 そうして判断を間違えたと気づく頃には、もう後戻りはできないところまで突き進んでいた。
 本当に、恋とは恐ろしいものだ。アリスはしみじみと認識を深める。
 正常な判断ができなくなる。後から自分に呆れることが多くなるくらいに。だから恋なんてしたくなかったのだ。
 アリスがそうやって自分を責めていると、木々の隙間から見えていた空がゆらゆらと色を変え始める。これは時間帯が変わる前兆だった。
「えっ、嘘! もう変わっちゃうの!?」
 アリスが驚いているうちに、昼の空は夜の空へと色を深くした。この世界は、いつどんな時間帯になるのか全く読めない。エースでさえもこの事態には目を丸くしていた。
「ははっ、短い昼だったなぁ」
「ええ、本当に。夕方ならまだしも、まさか夜になるなんて……」
「どうする? アリス。夜は寝るって決めてるんだろ?」
 エースは肩に掛けていたテントセットを降ろす。もう、テントを張る気満々だ。
 アリスの意向を聞きつつも、エースの中では野宿が決定しているらしい。アリスが「休まない」と言うはずがないと思ってのことだろう。
「ええ。一旦休むことにするわ」
 遊園地にある自室でたっぷり寝てきていたので、まだ眠気はやってこない。それでもエースの意志に沿うのは、この暗闇の中で歩き進めれば確実にアリスまで道が分からなくなるからだ。
「じゃあ……こっちにテントを張ろうか」
 エースは右側を指し示した。木の根が地面からあまり浮き出ていない場所だから、横になっても背中が痛くならない。
「そうね。エース、ロープを貸してくれる?」
「お、頼もしいな」
「誰かさんのおかげでね」
「ははっ、誰だろうなぁ?」
 早速テントの設営を始めるエースを、アリスは手際よく手伝っていく。もう何度も設営しているので、手順は覚えていた。
 二人で流れるようにテントを張って中に入れば、ほっと一息つくことができた。
 知らず知らずのうちに、アリスにとってテントは憩いの場となっていたみたいだ。まだ眠れそうにないと思っていたのに、自然と瞼が落ち始めてくる。
「夜になれば眠くなるって不思議だなぁ」
「癖みたいなものよ。結構歩いて、疲れてるし」
 自分で疲れを口に出した途端、ふくらはぎの張り具合を自覚した。靴下の上から揉みほぐせば血行がよくなって、じんわりと温かさが広がっていく。
 この温かさが、さらに眠気を増長させる。思わずあくびが出てしまい、アリスはとうとう横に寝そべった。
「眠いわ……」
「本当、健康的だな」
 エースはコートを脱いで、アリスの身体をすっぽり覆うようにそれを被せた。
 コートに移ったエースのぬくもりが心地よくて、アリスの目をとろんとさせる。もう何をするのも億劫なくらいだ。
 しかし、礼を告げねばと「ありが」まで言いかけたその時、アリスはハッとして勢いよく飛び起きた。
「に、匂いが移る!」
「え〜? ひっどいなぁ。この間水浴びしたばっかりだぜ?」
「そうじゃなくて……。あの、居候の猫に気づかれるから」
「あ〜なるほど。くくッ、あっははは!」
 笑いごとではない。エースの匂いをつけて帰れば、ボリスに妙な勘違いをされるのだから。
 以前もそうだったように、ボリスはくんくんと鼻を鳴らしながらアリスの匂いを嗅いで、「ふ〜ん?」と意味ありげな笑みを浮かべるに決まっている。
「とにかく返すわ」
 アリスは赤いコートをエースに手渡しした。もっと拒まれるかと思ったが、エースはすんなりと受け取ってくれる。
 けれども、アリスがほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、エースは再びアリスにコートを背中側から被せてくる。
「えっ!?」
「ほら、アリス。じっとしてくれないと、息が止まっちゃうぜ?」
 エースはコートの袖を、アリスの顎の下で結んだ。
 ギュッと強めに締め上げられて、アリスの唇から潰れたカエルのような声が零れ落ちる。だというのに、エースは口笛でも吹きそうなくらい上機嫌だ。
「ん、ぐ……エース! 苦しいっ」
「もっと」
 エースの小さな呟きは、アリスの耳にしっかりと届く。まるで、言霊をアリスの身体に染み込ませているみたいだ。
「もっと、移ればいいよ」
 エースは長い腕の中にアリスを閉じ込める。そして自身の身体をぴったりと、アリスに重ね合わせた。