住まわせてもらっているハートの城で、舞踏会が開催されるのはおおよそ五十時間帯後らしい。
それが近いのか遠いのか、アリスにはまだ分からない。急に時間帯が変わる時もあれば、なかなか変わらない時もあって、この変化に慣れ始めているからこそ余計に分からなくなっていた。
アリスとは違い、役持ちやメイドにとっては、舞踏会はあと少しという感覚なのだろう。城中がバタバタと慌ただしい雰囲気に包まれている。
そんな忙しい時期であっても、ペーターはアリスに会いに来る。この時間帯はビバルディと打ち合わせがあると聞いていたので、すっかり油断していたのだ。
「ああ、アリス! 会いたかったです!」
「げっ」
忙しそうにしているメイドたちの手伝いをしようと、自室から廊下に出たところだった。待ち構えていたかのように弾ける笑顔を向けるペーターに、アリスはため息を深く吐いて頭を抱える。
「あんたねぇ、打ち合わせはどうしたのよ」
「ああ。あんなの、すぐに終わりましたよ。だからほら、あなたに会いに来たんです」
ペーターが頬をほんのり朱に染めながら両腕を広げるものだから、アリスは口元を引き攣らせて一歩下がる。しかし閉まってしまった自室のドアに阻まれて、ペーターとの距離を取りそこなった。
そこをペーターは見逃さない。長い腕でアリスを掻き抱くのではなく、手袋を嵌めた手で両頬を挟み込んできた。
「んぅ!?」
強引に上を向かされて、唇が押しつけられた。後頭部がドアにぶつかって痛みを生んだけれども、ペーターはキスに夢中で気づいていない。
──この! ×××ウサギめ!
「ん、ッんん!」
「っはぁ、アリス……ん」
ペーターはだいぶキスに慣れてきていた。それでもアリスに会えた嬉しさを制御できないのか、唇の圧が強いことが多い。
「ふぁっ」
アリスは息苦しくなって、無理矢理唇をずらして空気を吸い込んだ。しかし、ペーターの唇はどこまでもアリスを追いかけてきて、再び唇をぴったりと重ね合わせる。
「まだ、です」
「あ、んんぅッ!」
苦しい、離して、とペーターの胸を強く叩いてもびくともしなかった。華奢なようでいて、しっかりと男性なのだと思い知らされる。
しかし、ここで大人しくなるアリスではない。ゆっくりと足を持ち上げたあと、勢いよくペーターの足に振り下ろした。
「っいた!」
「いたっじゃないわよ! 私を殺す気なの!?」
「あなたを殺す気なんて、あるわけないじゃないですか。心外です」
ペーターは長い耳をピンと立てた。若干毛が逆立っているのは、きっと足を踏まれた痛みからだろう。
いい気味だ、とアリスは溜飲を下げる。
「心外? だったら加減しなさいよ。息ができなくて苦しかったわ」
「加減……。そうですよね。あなたに会えた嬉しさで、つい熱くなってしまうんです」
反省しているのは分かる。けれども善処できていやいから、アリスは頭を抱えるしかない。
「なんでそう極端なのよ……」
「え?」
「あっ、いえ。何でもないわ」
ペーターはこうして出会った時にだけ、大はしゃぎで熱烈なキスをぶつけてくる。
二人で部屋にいる時の甘い雰囲気で交わされるキスは、こんなに重苦しいものではない。むしろ可愛らしくて微笑んでしまうくらいだ。
しかし、それをペーターに伝えてしまうとますます熱に拍車がかかりそうなので、アリスは適当に誤魔化した。
「それより舞踏会の準備はどうなの?」
「ああ、それが遅れ気味でして。陛下のヒステリーが治らないことにはもう……。まったく、いい加減にしてほしいですよね」
ペーターはこれ見よがしにやれやれと深くため息を吐いた。
「あんたまさか……。いえ、きっとそうね」
きっとペーターがまた余計なことを言って、ビバルディの火に油を注いだに違いない。舞踏会を執り仕切る女王陛下の癇癪に拍車がかかれば、準備がますます進まなくなるのも頷ける。
「はぁぁ……。ねぇ、ペーター」
「はい。なんでしょう?」
「舞踏会が終わるまで私にキスするの禁止ね。もちろんハグも、何もかも!」
「そんなっ!」
人差し指を突き出して強く宣言すれば、ペーターは赤い瞳を悲しげに潤ませる。か弱いウサギを思わせる表情に、アリスは「うっ……」と絆されてしまいそうになるが、心を強く保った。
「準備が遅れてるなら当然のことよ。私もこれからメイドの手伝いに行こうと思ってたんだから」
「手伝いだなんて。あなたが仕事をする必要はないんですけどねぇ」
「その話は前に解決したでしょ。私はやるわ。……それにね」
アリスは背伸びしてペーターの耳に唇を寄せようとする。しかし、どんなに踵を上げても彼の長い耳には届かない。
「なんです? あなたから内緒話なんて珍しいですね。ふふっ、嬉しいですけど」
ペーターは首を傾げながら、少し身を屈めてアリスの口元に耳を近づけた。
ふわふわとした白い毛が頬や鼻先に当たってくすぐったい。アリスは僅かに喉を鳴らして唇をゆっくりと開いた。
「離れてたら離れてただけ、次に触れ合った時は今以上の幸せを感じるらしいわよ」
「アリス、それは……っ!」
しょぼくれていた瞳に生き生きとした光が宿る。それと同時に、ペーターは頬をぽっと赤らめた。
──何を想像したんだ。何を。
いや、想像というより妄想と言った方がしっくりとくる。
「僕はMじゃないんですけど……。焦らしプレイというのもたまにはいいですよね。あなたに触れられない時を、あなたに触れる時のことを思いながら過ごすのも一興です。どんな風にして触れようかと思い描くだけで、ああ……っ」
ペーターは頬に手を当て、くねくねと身を捩らせる。アリスはその様を間近に見せられ、早まったかもしれない、と笑顔を引き攣らせた。