体の感覚が麻痺しそうだ、とバーボンは皮肉げに笑った。
冷房の効きすぎたダンスフロアは、人の熱気で不自然に湿度が高い。半袖のシャツから覗く腕を触ってみれば、ひんやりとしているが、少し汗ばんでいた。
青や紫のライトによって薄暗くされたフロアに激しく響き渡るEDMは、バーボンの鼓膜をビリビリと震わせる。中でも、一定のリズムを刻む低音がひどく煩わしいほどに、腹の奥を強く叩いている。バーボンにとっては、騒音と言ってもいいレベルだ。こういった音楽は好きではない。
絶えず襲ってくる不快感によって、眉間に皺が寄りそうになる。数日間通っていても、ここの環境に慣れる気配は一向にない。本当に肌に合わないのだろう。慣れる前にさっさと任務を終わらせたい。
十日ほど前に持ち込まれた任務は、とあるメモリーの回収だった。どんな内容の物かは、バーボンもスコッチも知らされていない。
コードネーム持ちをふたりも導入するということは、相当重要なメモリーなのだろう。回収したら組織にバレないよう、どうにかして本来の立場である公安部に内容だけを届けるつもりだ。
その為にはまず、メモリーを回収しなければいけない。
ターゲットはIT系企業に勤める男性社員だ。まだ二十四歳といった若手でたいした役職はないが、数々の功績を残しているらしく、将来有望とのこと。けれども、彼の輝かしいそれは裏取引をしているからに過ぎない。
大方、組織も何らかの取引を彼としていたのだろう。けれども交渉は決裂し、記憶媒体だけをいただくようにしたと言ったところか。
始末を命じられていないだけ幸いだ。男もいけるクチだというターゲットの嗜好が彼自身を救ったと言っても過言ではない。ハニートラップだけで済んでよかったと思っていただきたい。
ため息を深呼吸に変え、ゆっくりと視線を巡らせてターゲットを探す。二手に分かれたスコッチの潜入先のバニーボーイの店よりはマシだ、と自分を宥めながら。
薄暗いフロアは人探しに向いていないが、夜目が効くバーボンにとっては苦ではない。視界の端に、何度も脳裏に叩きつけた男の顔が映った。
「いた……。チッ、今日もあの女と一緒か」
そうは言いつつも、バーボンは自分の声色が明るいものになっているのに気づいていた。
腕にいくつものアクセサリーを着け、いかにも遊んでいるといった出で立ちのターゲットの傍らにはやけに目立つ女がいる。
目立つといっても、下品なものではない。明るく染められた茶髪に似合うように施された化粧は、彼女の顔を華やかにしている。
トップスは襟ぐりの広いタンクトップだけども、胸を強調し過ぎず、かといって隠し過ぎてもいない。スカートもそうだ。丸く形のいい膝から少し上くらいの長さのそれは、彼女に寄り添い、女性らしいラインを浮き上がらせている。
ベルモットみたいなタイプだ。けれども、彼女はベルモットとは全く違う感じがしていた。それはターゲットを観察するついでに、彼女の様子も観ていたから気づけたことだった。
初夏の太陽みたいな女性だと思ったのは、最初に彼女を見かけた時だ。軽快に踊る姿が、バーボンの視線を引き付けて離さなかったのを覚えている。
彼女は薄暗がりのダンスフロアで楽しそうにステップを刻んでた。こんな熱帯夜には似合わないくらいの、明るく爽やかな空気感を醸し出しながら。
そんな彼女はターゲットと接触していることが多い。元から仲がよかったのか、と周囲にそれとなく聞き込みをしてみたが、実はそうでもないらしい。
彼女もまた、バーボンと同じく最近このクラブに顔を出すようになった、と証言を得た。どうやら、ターゲットとはすぐさま気が合ったみたいだった。
そうなると、バーボンは下手に近づけない。ターゲットがひとりでいるところを狙うならまだしも、何の関係もない女性がいるところでハニートラップを仕掛けるのは気が引ける。
ターゲットに近づくには、彼女を先に堕とした方がいいのかもしれない。
そうしてバーボンが標的を切り替えてから、数日経った。けれども彼女は思った以上に手強く、なかなか上手くいかない。そんな所を、バーボンはどことなく気に入っていた。
ターゲットが彼女から離れてしばらくしてから、彼女のいるテーブルにグラスを置いた。常に爆音が流れているフロアでは小さなグラスの音はかき消される。
こちらの気配に気づいていない彼女の耳元に、バーボンはそっと唇を寄せて囁いた。
「今日も来てたんですか」
「え? ああ、トオル君か。ふふっ、それはこっちのセリフだよ」
バーボンの偽名を口にした彼女は、穏やかに笑みを浮かべながらグラスの縁に唇を付けた。ミントの浮かべられた液体は色が薄いのか、照明の青紫色が映っている。それがゆっくりとグラスの縁に流れていった。
まただ、とバーボンは目を細める。
彼女は酒を飲んでいるように見せかけているだけで、実は飲んでいない。これは彼女に近づいてみて分かった事実だ。
気がついたのは、ほんの小さな引っかかりだった。
彼女は唇周りを指で隠すような飲み方をする。しかも違和感を感じさせることなく、自然にだ。むしろ、その仕草には妖艶さが現れていた。
これは薬を入れられても、飲んだように見せるためのブラフのように思えた。
もしかしたら、彼女は同業者かもしれない。狙いはバーボンと一緒のものだろうか。この考えに至るには、そう時間はかからなかった。
「フッ、お互い暇人ですね」
「んもー、一緒にしないで。私は息抜きに来てるのにぃ」
彼女は少女のように、唇をツンと尖らせた。
つい十数秒前に見せた大人の女性の雰囲気とは、全く違う。同業者だとしたら大した演技力だ。
ますます興味が惹かれてしまうが、まずは探りを入れなければいけない。
「はいはい、そういう事にしておきますよ。そういえば、いつも一緒にいる彼はどちらへ?」
「ああ、なんか今日ね、VIPルームでご飯用意してくれてるんだって。それでスタッフさんに確認しに行ってるとこ」
「ホォー……VIPルームですか。それにしては遅いですね」
彼女はスカートのポケットからスマートフォンを取り出した。彼女の手には少し余るそれを、危なげなく操作する。
「あ、連絡入ってたわ。ごめん、トオル君。もう行くね」
「ええ、楽しんできてください」
軽く手を振って彼女は人混みに紛れていった。
常人だったら、ここで彼女を見失うかもしれない。けれどもバーボンは迷うことなく足を踏み出した。彼女の後を追うために。
楽しんで、とは言ったものの、バーボンは面白くない。ふたりきりでVIPルームを貸し切りなんて、食事だけで済むはずがないのだ。
人と人の隙間を猫のようにすり抜け、階段を上がる。
下のフロアを見れるようにバルコニー式になっているだけで、二階のフロアは一階とそう変わらない。中央でステップを踏む人もいれば、端の方で小さな丸テーブルを囲んで酒を飲んでいる人もいた。
VIPルームは丸テーブル地帯の奥にある。暗色の壁と似た色をしている扉で一般のフロアと分けられているのだ。彼女は吸い込まれるようにして、濃紺の扉の向こうに入っていった。
この騒音だ。VIPルームの声はほぼ漏れてこないだろう。それでも壁に寄りかかって休むフリをしながら聞き耳を立てれば、何かしら聞こえるかもしれない。
バーボンはVIPルームの扉近くを目指して足を向けた。すると、酒を片手にテーブルで談笑していた派手な女に通せんぼされてしまう。
「お兄さん、めっちゃイケメーン! ねぇねぇ、ちょっとお話しようよ〜」
間延びした語尾は酔っていることをアピールしているのか。それにしては目がギラギラと鋭い光を放っていた。
ハニートラップにしては杜撰すぎる。バーボンは嘲笑するように喉を鳴らした。騒音に紛れたそれは、女に気づかれていない。
少し困ったような顔を作ったバーボンは、紅の禿げた女の唇に人差し指をそっと当てる。
「あなたのような美しい人の相手を、僕なんかが務まりませんよ」
「……っ!」
そう返されるとは思わなかったのだろう。女は目を見開いて、ピシリと石のように硬直した。
他愛もない、とバーボンは唇を歪める。彼女もこれくらい単純だったら、とも思うが、それだと面白くない。
「では、失礼します」
少しだけ身を屈んで会釈すると、女に背を向ける。それと同時に、女の唇に触れていた人差し指を親指に擦り合わせて感触と汚れを拭った。いつまでも知らない女の気配を纏わりつかせておく必要はない。
すると、どこからか騒音に紛れて鈍い音がバーボンの耳に僅かに届いた。
「え?」
微かな音量だったが、バーボンが間違うはずがない。音の方向は前方からだ。そこは目的地であるVIPルームがある。
バーボンは駆け足で近づいて、VIPルームのドアに手をかけて中に押し入る。
中は小さなカラオケボックスのような作りだった。黒く艶やかなソファと、それに合わせたダイニングテーブルが設置されている。テーブルの上にはサラダやピザ、そしてバケツで冷やされたワインが綺麗に並べてあった。
パーティーを思わせる雰囲気とは裏腹に、彼女は冷たい目をしてソファを見下ろしていた。
「どうかしました?」
薄暗い照明でも分かる。彼女の視線の先あるものは、ソファに転がったターゲットであるということが。
「あ、トオル君。ちょっと強引だったから、ね。女に優しくしない男は嫌いよ」
何が起きたのか、理解できてしまった。おおかた、欲をさらけ出したターゲットが彼女に返り討ちにあったのだろう。
彼はビクともしない。どうやら気絶しているようだ。いい気味だ、と思うがそれと同時にそれなりに体格のある男を気絶に追いやる彼女の手腕が気になる。もし彼女もメモリーを狙っていたとしたら、既に奪った後に違いない。
どうやって探りを入れるか、とバーボンは思案する。すると彼女は手をプラプラと振りながら、出入り口であるこちらに向かってきた。
「ふふ、なにその顔。やぁだ、もしかしてヤキモチ?」
彼女は唇を細長い指で隠して小さく笑った。可愛らしくも妖艶な仕草は、明らかにバーボンを挑発している。
挑発には冷静な対応をしなければならない。理性はそう働きかけるが、バーボンはどうにかして彼女の演技じみた顔を崩したい衝動に駆られてしまう。
これは仕事だ、と自分を納得させるために言い訳をした。
「ええ、そうですよ」
「ひゃっあ、んんぅっ!」
華奢な彼女の体を抱き寄せ、奪い取るように口づける。驚いたせいで開きっぱなしになっていた唇の隙間に、舌を強引に突き入れればビクンと背中がしなった。
「む、う……っ!」
逃げ惑う舌を追いかけ、絡ませる。柔らかい舌の感触を楽しむように舌先でなぞると、奥の方からとろりと甘い唾液が湧き出してきた。それを味わいたくなったバーボンは強く吸って、自分の口腔に引き込む。
彼女が先程まで飲んでいた甘い酒の味ではない。やはり、飲むフリをしていたらしい。これは、彼女自身の味だ。ほんのりと甘みのついた唾液をゆっくりと嚥下していく。
ゴクリ、と喉が低く鳴った。それが彼女にも聞こえたのか、抗議するようにバーボンのシャツを掴んでくる。
「んんーッ!」
物慣れないのは演技なのか。
「……ん、っ」
バーボンの息が上がっていく。
抱きしめた体も重ね合わせている唇も、何もかもが柔らかい。そして、太陽のような暖かい香りがする。自制が効かなくなりそうだ。
そうなる前にメモリーを探さなければ、と彼女の背中をゆっくりと下に向かいながら撫で擦る。
「ん、ふぅ……やっあ!」
指先を軽く食い込ませれば、柔らかい丘は簡単に沈む。バーボンはわざと焦らしながら尻ポケットの上に指を這わせる。
しかし、硬い感触はしない。そこにあるのは、肉感的な尻だけだ。
すると彼女は首を僅かに横へ振り、バーボンの胸をポンポンと軽く叩いた。離せと言っているのか、とバーボンは悟り、名残惜しくも唇を解放する。
「ッは……残念、正解はこっち」
濡れた唇を妖艶に歪めた彼女は、胸の谷間に指を差し入れる。そして、バーボンに見せつけるようにメモリーを取り出した。
「それは……」
「中身聞いたけど、私が欲しい物じゃなかったからトオル君にあげる」
コロン、と手のひらに乗せられたメモリーをバーボンは握りしめる。これで目的は達成した。
けれども、達成感より戸惑いの方が大きい。
「君は一体……」
「ふふっ、次会った時に教えてあげる。約束よ」
背伸びをした彼女は触れ合うだけのキスをバーボンに贈ると、安っぽいドアを開いて騒音の中へと紛れていった。