愛しくて愛しくて

 これは、新たな挑戦だ。
 警察庁ならどこにでもあるドアを前に、私は立ち竦んでいた。この一枚の板の向こう側には、今まで見たことのない世界が広がっているのだろう。
 聞こえはいいけれど、これは冒険譚といったワクワクするようなものではない。
「ふー……」
 スチール製のドアは白く塗装されていて、軽そうに見えた。
 見た目だけではなく、実際にこのドアは軽い。頭で分かっていても、私にとってはとてつもなく重いように感じられた。
 ようやく私は拳を作り、中指の背で硬質な板を三回鳴らした。中が空洞だと丸分かりな軽い音が響く。
「どうぞ」
 ドアの向こう側からの返事に、私は僅かに肩を跳ねさせた。一枚隔てているから声がこもっているが、これは間違いなく彼の声だ。
 支給されたカードキーを翳してからドアノブに手をかけてみたものの、指先が細かく震えてしまっている。これは緊張なのか、恐怖なのか。
 肺にある空気を全て押し出すように吐いた息も、かすかに震えていた。
 それでも、いつまでもこうして立ち往生なんてしていられない。
「っ、失礼します」
 意を決して、室内に足を踏み入れた。
 会議室のようなそこは八畳くらいの広さだった。書類を山積みにした作業デスクが並んでいる中で、正面奥に一際大きなデスクがある。そこでかつて釜の飯を共にした同期が待ち構えていた。
「待ってたよ」
 書類仕事をしていたのだろう。ペンを持つ手はそのままに、二つの澄んだ瞳が正面から私を射抜く。あまりの強さに思わずゴクリと生唾を飲み込んだ。
「っあの、降谷さん、本日付けでこちらの配属になりました。これからよろしくお願いします!」
「ああ、よろしく。それにしても……固い話し方だな。昔みたいに『降谷くん』でいいんだけど」
「いえ。今は貴方が上司で、私は部下ですから」
 同期だとしても立場は変わってしまった。
 降谷さんは私の知らないところでどんどん先に進んでいったのだ。今では上司と部下という関係にもなった。
 こんなにも私との差をつけているのにもかかわらず、以前と同じように接することなんて私にはできない。
 物理的に私たちを隔てるデスクのように一線を引く。すると降谷さんは唇の端を吊り上げて、僅かに顎を聳やかした。
「君のそういうところ、尊敬するよ」
 これは一体どういう意味だろう。ただ私を見上げただけなようにも思えて、素直に受け取るべきか、皮肉として受け取っておくべきか、たじろいでしまう。
 生憎、表情からは何も窺えない。さすが何年も公安警察として動いてきただけはある。
「……お褒めの言葉、嬉しいです。それにしてもどうして私が?」
 私に警視庁からここへの辞令が下ったのは、つい一週間前だった。特に功績をあげたわけでもない私が急に呼ばれるだなんて何かしらの理由があったのかもしれない、と真意を探ってみる。
 すると降谷さんは一瞬きょとんとした後、いたずらっ子のように笑った。
「僕を楽にさせてほしいから」
 らしくない言葉に、今度は私がきょとんとする番だった。
 途端に肩の力が抜けて、腹の底から空気が押し出される。
「フッ、ふふふふ! そんなこと言って手が空いた分、新しい仕事を自分で詰め込むんでしょう?」
「バレたか」
 降谷さんが妥協しないのは警察学校にいた頃からよく知っている。だから、これは彼なりの冗談だ。
 私の緊張を見抜き、私に合った方法で自然と肩の力を抜けさせた。こういうこともできてしまう降谷さんは、相変わらず多才で羨ましい。
 私が気を緩めたことに安心したのか、降谷さんは僅かに目元を和ませた。
「そうだ。早速だけどこれを警備課の斉藤さんへ届けてくれないか。場所は分かるだろう?」
 降谷さんは手元にあった資料を私に差し出した。これをきっかけに挨拶してきて、という意味も込められているのだと察した。
「分かりました。失礼します」
「ああ、頼んだよ。さて、僕も行くとするか」
 私が頼まれごとを遂行しようと動けば、降谷さんも続いて廊下に出てくる。
 節電なのか知らないが、等間隔に点けたり消したりされている蛍光灯のせいで廊下は薄暗い。影の差した降谷さんの金髪が濃い蜂蜜色に変わる。
 ざわり、と心の奥が騒がしくなったような気がした。
「うん? どうした?」
「……いえ、何でもないです。では」
 私は急いで降谷さんに背を向けて目的地へ歩き出す。
 ──早く、早く、離れなければ。
 あの薄氷色の瞳で見つめられたら、自分でも分からない感情を暴かれてしまいそうだ。
 心の奥にある、ざわめき。正体不明のそれはどんどん膨れ上がっていって、私は思わず胸元を掴んだ。
 この感情は、一体なんだ。
 無意識のうちに奥底へと仕舞っていたものが、降谷さんと接したことによって解き放たれてしまったみたいだった。
 ぐるぐると渦巻く感情に、どこか既視感を覚える。
 それは自分の過去にはない。何かの物語のワンシーンだったはずだ。
 私は薄暗い廊下に立ち竦む。すると足元から崩れ落ちそうな錯覚に陥って、慌てて壁に手を当てた。
 ひんやりとしたコンクリートの壁が気持ちいい。ざわめいた何かが凪いでいくのを感じる。
「……ああ、そっか」
 少し落ち着いたところで、ようやく答えに辿り着いた。
 答えを認めた途端、地に足が着いた気がした。すると自然に諦めにも似た笑みが零れ落ちる。
「愛しくて愛しくて憎いって、ね」
 彼にも狡く汚いところがあればいいのに、と願ってしまうほど、彼が羨ましくて羨ましくて、妬ましい。けれども、それと同時に愛しているのだ。


 壁に手を当て、しばらく何かを考え込んでいた彼女がようやく歩き出した。
 もしかしたら、僕の期待が重荷だったのかもしれない。
 けれども辞令の撤回は効かないところまできたのだ。今更元の部署には戻れやしない。
 クッと、暗い笑みが零れ落ちた。
 警察学校時代の彼女のことは今も瞼の裏に焼きついている。
 過酷な訓練と勉学に追い込まれて退学する者もいる中で、花が咲くような彼女の笑顔は一際目を引いた。周りがどんどん警察官らしく厳しい顔つきになっていっても、彼女だけは変わらないのだ。
 だからこそ彼女に居心地のよさを感じていた。それは僕だけではないはずだ。柔く目尻を下げ、慈しむように微笑んだ彼女はマイナスイオンそのものだった。
 これは一種の才能であり、彼女の最大の武器だろう。自分にないものを持っている彼女が羨ましく、妬ましかった。
 それでも求めずには、愛さずにはいられない。
「……ああ。やっと、手に入れた」
――愛しくて愛しくて憎い、僕のアマデウス。