愛より勝るもの

 真ん中に切れ込みを入れたクロワッサン。それに挟まれたレタスとスライストマト、チェダーチーズが私の目を奪った。なんとも食欲をそそる彩りをしている。
 まさに、遅く起きた朝にぴったりの食事だ。
「やったぁ! 私の好きなものばっかり。いただきまぁす」
「君は好き嫌いをしないからね。いつも美味しそうに食べてくれるし、作り甲斐があるよ」
 零は口元に笑みを浮かべながら、コーヒーカップを傾ける。ミルク色にほんのり染まったコーヒーが、緩やかに彼の口の中に流れ込んでいった。
 食後のコーヒーを、ただ飲んでいるだけだ。それなのに、零がやってのけると優雅に見える。私とは大違いだった。
 私は腹の虫に急かされるがまま、クロワッサンにむしゃぶりついた。
「おいひぃ〜」
「それはよかった。で、今日なんだけどさ」
「うん? 今日?」
 私は小さく首を傾げた。
 今日は土曜日。暦通りの仕事に就いている私が心待ちにしていた日だ。特に何も予定を入れていないが。
 零はというと、元々仕事だったのが急遽非番になったらしい。警察官は本当に大変だと、しみじみ思う。
 私が仕事からの解放感にテンションが上がって夜更かししていたところ、零は「僕も明日非番なんだ」と私の家を訪れた。そしてあれよあれよという間にベッドに上がり込まれて添い寝をし、今現在に至る。
 決して示し合わせた休日ではない。
「今日って確か、零は仕事のはずだったんでしょ? そんな日に何か約束してた覚えないけど……」
「やっぱり分かってなかったか」
 零は意地悪そうに目を細めた。その瞬間、下腹部の奥が甘く唸る。
 この反応は、私の身体が淫乱だからではない。夜の営みを彷彿とさせる表情を浮かべる零が悪い。
 零に手懐けられた身体を恨めしく思いながら先を促す。
「やっぱりって? んもぉ、焦らさないで」
「焦らしたつもりはないよ。……この間の夜、気持ちよすぎて僕の話を訳も分からず頷いてたんだなって」
「っ!?」
 ぶわっ、と一気に顔が熱くなる。零の艶やかな表情は恋人同士のいちゃつきを思い出していたものだったのだ。
「フッ、かわいいな。耳まで真っ赤だ」
「か、らかわないで」
 零が手を伸ばしてくるので、私はそっぽを向いてクロワッサンを頬張った。それでも彼はめげずに私のこめかみに触れ、ゆっくりと髪を掻き上げる。
 こそばゆいような気持ちよさに喉を鳴らせば、零は吐息だけで密かに笑った。
「僕と一緒に、 ブライダルチェックを受けてくれないか?」
「んっ!?」
 ゴクンと勢いよくクロワッサンが喉を通りすぎ、胃に落ちていった。若干胸に痛みがあるものの、驚きすぎてそれどころではなかった。
 私は恐る恐る顔を上げて、零と向き直る。薄水色の瞳は揺らぎという言葉を知らないかのように凪いでいた。
 それだけ本気だということがひしひしと伝わってくる。
「零、あの、えぇっと……」
「僕はそろそろ、受けてもいいんじゃないかと思ったんだが……」
 付き合い始めて早二年。プロポーズもされて、入籍待ちという状況だ。ブライダルチェックをしても、なんらおかしくない。
 それでも私には、二の足を踏む理由があった。もちろん、いずれは零との子どもを産みたいと考えている。そのためには診察を受けておいた方がいいだろう。
 私が相も変わらず言いよどんでいると、零は私の手を両手で包み込んできた。大きな手の内側に、すっぽりと私のそれが納まる。
 いつも温かい手が、今は冷たく感じた。
「気が早い、か?」
「あっ! いや、そうじゃないの。零とのことを考えるならちゃんと受けるべきだと、私も思うし……」
「うん、ありがとう。それじゃ、あまり乗り気じゃない理由って?」
 零は優しく微笑んで手の甲を撫でた。節くれ立った指にほんのりと体温が戻っている。
 そのぬくもりによって、私はどこか安堵した。
「あの、うまく言えないんだけどさ」
「うん」
「し、診察台。あれがまず怖いの」
 独特な形をした椅子を想像するだけで嫌気がさす。軽く身震いした私は零の指に自分のそれを絡ませた。
「……だんだん脚が開かされるのは知ってるでしょ?」
「ああ、そういう形状だったな」
「それだけでも十分恥ずかしいし怖いのに、座面も動くんだよ⁉︎ お尻から外されちゃうの。脚を乗っけてるとはいえ、ずり落ちちゃうんじゃないかって気が気じゃないわけよ。あとはやっぱりお医者さんとはいえよく知らない人に、零しか許したことない場所を触られるのも、ね」
 受診した方がいいと分かっていても、尻込みしてしまう理由がこんなにある。怖いから、恥ずかしいから、という感情は様々なところからやってきていた。
 こんな私を、零はわがままだと思うだろうか。呆れられても仕方ない。
 覚悟を決めて、少し腹に力を込める。けれども予想とは裏腹に、零は眉の間を広くして申し訳なさそうに笑った。
「そう、だよな。僕には分からない怖さだ」
 零は私が絡めていた指を丁寧に外した。そして、手のひらを揉みほぐしていく。
 じんわりと広がっていく気持ちよさが私に喉を鳴らさせる。
「痛いか?」
「ううん。気持ちいい。もっとして」
「ああ。こういう風に、ブライダルチェックも無理して受けてほしいわけじゃない。嫌なら嫌でいいんだ。受けないからといって子どもができないわけでもないしな」
「うん……」
 零は私に甘い。蜂蜜に砂糖を溶かしたくらいの甘さがある。
 情事でのいやいやを除き、私が嫌がることを絶対にしないのだ。
「フッ、そんな難しい顔しなくていいんだよ」
「あぅっ」
 母指球をグッと押され、情けない声が零れる。常日頃からの疲労が溜まっているみたいで、中まで響くような重たい刺激を与えられた。
 不意打ちに成功した零は満足そうに唇の端を吊り上げる。
「子どもがなかなかできなかったら、その時にまた考えればいい話だ。ただ......」
「ただ?」
「君の身体だから」
「わたし?」
「子どもを産むのは君だから。身体に負担をかけてしまうのは申し訳なく思う。だからこそ、事前に妊娠しやすいのかしにくいのか、病気の元が隠れていないのか、調べてもらった方がいいんじゃないかと思っただけなんだ」
「確かに、病気なんかも調べられるもんね。……そっか、そっかぁ。ありがとね、零」
 そこまで考えてくれていたなんて、思ってもいなかった。心の奥底から温かなものが広がっていく。
 今の私は最強かもしれない。あれだけ嫌だと思っていた検診も今なら受け入れられるような気がした。
 私は再び零の指に自分のそれを絡める。今度は、先程とは違う意思を込めて。