マズいことになった。これは非常にマズい。
潜入に潜入を重ねている身の上として、なるべく目立たないように過ごしていたつもりだ。けれども、トラブルは常に想定外のところからやってくる。
この仕事はやっぱりバーボンがやったらよかったんだ、とスコッチは舌打ちをした。どの仕事を選ぶかの勝負で負けた自分を恨む。
夏の夜の繁華街は、うるさいくらいのネオンの輝きで満ち溢れていた。そしてそれに負けず劣らず、人々はどこからともなくやってきて、ガヤガヤと街を賑やかす。
人と人の間をすり抜けることに慣れているスコッチであっても、前に進むことはなかなか難しい。特に今は急いでいるから、それは尚更だった。
東京特有のじっとりとした暑さは、陽が完全に落ちていても大して変わらない。アスファルトに吸収されていた熱がじわじわと放出されていく。
精神的な焦りも相俟って、スコッチの額からは幾筋も汗が伝い落ちた。それが鬱陶しくなって頬から顎にかけて、汗を肘で拭えばジョリッと薄く生やした髭が皮膚を擦った。思わぬところからの不快感に眉根を寄せる。
それでも前に進まなければいけない。この通りを抜ければ目的地だ。
「あと、もう少し……!」
しかし、近道をしようとコンビニの角を曲がったスコッチの肘が、丁度その角から出てきた女性の肩に当たってしまう。
「ひゃっ!?」
「あッすみません!」
体勢を大きく崩した彼女の肩を咄嗟に掴み、転ぶのを防いだ。その拍子に彼女の肩に掛かっていたトートバッグが、ドサッと重たい音を立てて落ちる。
「すみません、本当にっ!」
幸いなことに、鞄の中身は飛び出していない。慌てて拾い上げて軽く埃を払って、彼女に手渡す。
「い、いえ。私こそぼんやりしててすみません」
頭を下げた彼女の髪がさらりと肩に流れて、女性らしい身体の曲線に寄り添う。その軽やかな動きにスコッチは少しだけ目を見開いた。
今日はうんざりするくらいの熱帯夜だ。それを感じさせない何かが彼女にはあった。
「あの?」
急に動かなくなったスコッチを不思議に思ったのか、彼女は心配そうに見上げてきた。そこで我に返ったスコッチがもう一度謝ってから立ち去ろうと慌てて口を開いた瞬間、甲高い女の声がざわめく繁華街に響いた。
「どこに隠れてるのよーーっ!」
ビクッとスコッチは肩を跳ねさせてしまう。クセのある声は誰のものかだなんて、一発で分かった。
瞬時に思考を巡らせたスコッチは謝罪の言葉を引っ込めた。
「今の声聞こえてました? あの人に追われてるんです。助けてくれませんか!?」
「え! あ、はい!」
彼女は衝動的に頷いただけだろう。
それでもいい。あの女から逃げきるのが先決だ。
彼女が完全に状況を理解する前に行動に移す。トートバッグを持っていない方の彼女の手を自分の腕に導いた。
「えっと?」
「本当に申し訳ないんですけど恋人のフリ、お願いできますか?」
「わ、分かりました……!」
彼女は自分の意思で腕を絡ませた。添えられた華奢な手はひんやりとしていて気持ちがいい。
こちらから言い出したとはいえ、こんなにチョロくて大丈夫なのかと心配になる。相手が悪い奴だったら即ホテル行きだ。
なんだか悪いことをしている気分になってくる。脚を動かしながら、つい言い訳じみた言葉を吐き出した。
「ありがとうございます。向こうの通りの白ウサギ亭までで大丈夫ですので。彼女、ストーカー行為が激しくて店から出禁扱いになったんですけど、そうなると出勤前後で狙ってくるようになって、ね。店の前には彼女の顔を知ってるキャッチがいるからそこまでは来ないんだけど……」
これだけ避けても諦めてくれないのは、引き際が分からなくなっているのかもしれない。非常に迷惑な話だ。
「それは、大変でしたね」
肩口から見上げてくる彼女の瞳に、心配の色が浮かんでいた。人を疑うことに慣れているスコッチは「うっ」と喉を詰まらせる。
ネオンの派手な色が瞳に映っていても純粋さを失っていない。まるで王子に拾われたばかりの人魚姫のようだ。
欲望渦巻く繁華街に、彼女は似合わない。肌を見せすぎないオフィスカジュアルな服装からして一般的な企業に勤めているのだろう。
身元を明かせない仕事をしている最中だというのに、彼女に少し興味を惹かれてしまった。
いったい、どうしてこうなったのか。
私はやたらと座り心地のいいカウンターチェアの上で視線を彷徨わせた。
明るめのオレンジ色のライトに照らされたバーカウンターの内側。そこでは、さっき出会ったばかりの男の人が慣れた手つきで、スマイルカットされたレモンの果肉に切り込みを入れていた。
先程「源氏名はケイって言うんです」と自己紹介してくれた彼が何かの動作をする度に、彼の頭の上で白くてふわふわのウサギの耳が動く。
「うん?」
私の視線に気づいたのか、ケイさんは顔を上げて首を傾げた。釣られて長い耳がひょこんと可愛らしく揺れる。
「い、いえ! 何でもないです」
本当に、どうしてこうなったのか。
ケイさんと『白ウサギ亭』まで恋人のフリをする。ほんの僅かな時間、五分も一緒に歩いていないだろう。たったそれだけのことで人助けできるなら安いものだ。
私はそのことに微笑んだ。今日あった嫌なことを忘れられはしないけれど、少し気分が浮上したから。
店の前まで来て「これでもう安心ですね。それでは」と軽やかな気持ちで別れようとケイさんの腕から手を離す。けれどもその手を彼に取られて「よかったらお礼させてください」と、あれよあれよという間にカウンター席に座らされてしまったのだ。
ケイさんの職場である『白ウサギ亭』は、若干目のやり場に困る。名前の通り白ウサギがいるのだけど、それはウサギのコスチュームを身に着けている人間の男性だった。
長い耳のカチューシャに、付け襟と蝶ネクタイ、丈の短いベストにぴったりとしたパンツ。それら全てが白い。逆にそれ以外は身に着けていなかった。
カウンターの高さはそれほどでもないから、ドリンクを作っているケイさんの姿がよく見えてしまう。V字のベストは胸の全てを隠すことなく、緩く盛り上がった胸筋が私の目には眩しく映った。それだけではない。丈が短く、肋骨辺りまでしか生地ないから、綺麗に鍛えられた腹筋やスッとナイフを入れたような形のいい臍が丸見えだ。
こういうところに来たことがなかった私は居たたまれなさ半分、興味半分でチラチラと周りの様子を伺ってしまう。
テーブル席には若い女性や会社帰りの壮年の男性など、様々な人がいて少し安心した。店員は客の隣に座るけども、ただ話をしているだけ。どうやらいかがわしい店ではないみたい。
「はい、お待たせ。パナシェです」
グラスの縁にレモンを差し込んだケイさんが、私の前へと静かにドリンクを置いた。
黄金色の液体の上に泡が敷き詰められ、シュワシュワと音を立てて弾けていく。その音とほんのりと漂うレモンの爽やかな香りが夏を感じさせた。
「あの、いいんですか? 本当に、その……」
「ああ、全部サービスなので気にせず。店長にも許可貰ってますから」
助けてくれたお礼です、とケイさんは人懐っこい笑みを浮かべた。
彼の笑顔にはホッとさせる何かがあった。彼をストーキングしているという女性も、この笑顔に悩殺されてしまったのかもしれない。
「じゃあ遠慮なく、いただきます」
おずおずと泡と一緒に冷えた液体を口に含む。するとビール特有の苦みとレモンの涼やかな酸味が舌を楽しませた。
「美味しい……!」
「よかったです。ビールにレモンの炭酸水が入るだけで口当たりが優しくなりますよね」
「本当に。こんなに飲みやすくなるなんて」
「他にも作りますので飲んでみたいヤツ言ってください。ああ、お酒だけだと胃が荒れるのでフルーツもどうぞ」
コトンと小さく音を立てて置かれた大皿には、てんこ盛りの旬のフルーツが乗っていた。メロンにスイカ、パイナップル。そして高価なシャインマスカットまで。
さすがに悪いと思っても一度客に出した物を再利用なんてするはずがないので、みずみずしいフルーツに手を付けていく。
ケイさんは不思議な人だ。断ろうと思っても先回りされていて、いつの間にか彼の思い通りにされている。私に嫌な思いを一切させないまま。むしろ彼の話は私に癒しを与えてくれる。
美味しいアルコールと楽しい会話で時間はあっという間に進んでいく。
もう何杯飲んだのかさえ、分からない。
「ちょっと飲ませすぎちゃったかな。ごめんね、お水でも飲んで」
「水……ありがと、ございます……」
アルコールは着実に私の体を蝕んでいた。頬から目にかけてぼやっと熱を持ち、舌は上手に回らない。
デキャンタとグラスを持ってカウンターから出てきたケイさんは私の隣に腰掛けた。差し出してくれた冷たい水を喉に流し込めば、僅かに酔いが覚めたような気がする。
それでもまだ目元は熱い。
「ケイさんは本当に優しいですねぇ……」
「……どうした? 何かあった?」
涼やかな声色は私の心にすぅっと入り込んでくる。気がつけば、私は口を開いていた。
「実は私、今日フラれたんです……。付き合うってことは体の関係もあるってことで。それはわかってたんですけど、どうしてもダメだったんですよね。もし病気になってしまったら? もし妊娠してしまったら? ってその先も考えてしまって、それが彼の気に障ったようで……」
事実を、思っていたことを言葉にして放つと、心臓の奥の方がツキンと痛くなる。それでも黙って聞いてくれるケイさんの気配に後押しされて最後の言葉を吐いた。
「他に女ができたってフラれました……」
どんなに彼のことを想っていても「好きよ」と言っていても、体を許さないのが駄目だったらしい。それは、体目的で付き合っていたと言われたようで苦しい。
胸元に引っかかった苦しさを紛らわすように、水を一気に呷る。すると、ケイさんがすかさず空になったグラスにデキャンタから追加の水を注いでくれる。
「……まぁ、人間も生物だしね。本能で求めてるってこともあるんだろうけど……。体を重ねるのは愛情表現でもあるからなぁ。一方で君が言っていた通り、リスクもある。『ものの良し悪しは考え方ひとつで変わる』ってヤツかな」
その言葉は聞き馴染みがある。私の好きな話に出てくる名セリフだ。
まさかここで出てくるとは思ってもいなくて、目を瞬かせた。苦しくなっていた息が楽になったような感じがする。
「それって、ハムレットですよね?」
「そう。でもそういう見方もあるってことで! 君は君の考え方でいいと思うよ。セックスのリスクは女性の体にかかってくるしね」
パチンと音が鳴りそうなほどの綺麗に作られたウインク。真面目な回答をしてから最後にお茶目を発揮してくるケイさんは、本当に会話が上手だ。
「ふふ、ありがとうございます。なんか気持ちが軽くなりました!」
「そう? 役に立ててよかった」
「それに私、ハムレット好きなんですよ。ケイさんもお好きですよね? 『生きるべきか死ぬべきか』ってセリフは結構知られてるけど、あのセリフはなかなか出てこないなって……」
「お、名推理。俺も好きなんだ。どのシーンが好き?」
そうやってケイさんは私に好きな話をさせてくれる。これが仕事なんだとは分かっていても、勘違いしそうになる。今日フラれたばかりなのに現金だな、と心の中で笑ってしまった。
でも、そういう日もあってもいいかもしれない。
「オフィーリアの死、ですかね。『裾が広がって、人魚のように』って表現が幻想的で、でも着実に死に向かっているところが現実的で……」
「ああ、なんとなく分かるかも」
ケイさんの同意が嬉しくて、パッと彼の顔を見上げれば、その瞳に薄暗い何かを感じた。けれどもそれは一瞬にして消え去る。
もしかしたら私の見間違いかもしれない。首を傾げていると、彼の大きな手が私の髪を緩やかに撫でた。
「ケイさん?」
「……君は、オフィーリアみたいにならないでね」
「はい」
意味を尋ねたらいけない気がして、私はただ頷く。
そういえば私の話ばかりでケイさんのことは全然知らない。彼のことを知りたいと思い始めていた私は、またここに来ようと決意した。
ひとまず今日は名刺を貰わなければ――。