犬と柔らかいもの

 まさか、かつて上司が見合いをした場所で、自分も見合いをすることになるとは思いもしなかった。しかも話を持ちかけてきたのは、その上司である。
 風見は胃が痛くなりそうなのを堪えて、小さく頭を下げた。
「今日はよろしくお願いします」
「あっ、はい。よろしくお願いします!」
 少し困り顔をしていた彼女が、こちらに釣られて礼をする。すると、肩にかかっていた毛先がさらりと流れ落ちた。
 風見はその様子に思わず見入ってしまう。
 これはきっと、杯戸シティホテル特有の高すぎる天井のせいに違いない。随分と上から降り注ぐ照明が彼女の毛を暖かく照らし、より柔らかそうに見せた。
 普段なら気にも留めないのに、こうも意識を向けさせられるのは上司から散々聞かされた惚気話が理由かもしれない。
 風見は気を取り直すように、目の前に置かれたガトーショコラを口に含む。途端に、濃厚なチョコ特有の甘みと僅かなほろ苦さが口腔に広がった。
 一言で表すなら、美味しい。
 さすがはホテル内のカフェだ。甘ったるいだけでなく、カカオの風味がきちんと効かせられている。美味しさのあまり、自分の頬が少し緩むのが分かった。
 風見は咀嚼した甘味を胃に送り込む。それと同時に、彼女が小さく息を跳ねさせた。
「ふ……っ」
「あの、どうしました?」
「っ、いえ……何でも……ッ」
 何でもない、と言う割には肩が震えている。手のひらで隠しきれていない唇は歪な弧を描いた。どうやら笑いを頑張って堪えているらしい。
「自分、何かしました?」
「あの、違くて……!すみませ……ふー……」
 彼女が胸に手を当てて、長めに息を吐く。なんとか自分を落ち着かせようとしているので、風見は黙ってコーヒーを飲んだ。
「本当にすみません。急に友人の話を思い出してしまって……。もう大丈夫です!」
「それは、一体どんな?」
 風見が踏み込めば、彼女は目を大きく泳がせた。話を切りたがったのは察したが、彼女をここまで笑わせる原因が少し気になってしまったのだ。
「ええっと、友人が昔一緒に仕事していた方なんですけど……。その人の特徴が『柴犬とドーベルマンを足して二で割った感じ』って言っていて」
 聞き覚えのあるセリフに、風見は目を見張った。それから、ふと思い至る。そういえば佐藤警部の友人だったな、と。
 その伝手で、この見合い話が回ってきたのだ。
「その時はよく分からなかったんですけど、ガトーショコラを食べる風見さんを見たらピンと来てしまって……。風見さん、凛々しいお顔立ちしてるからちょっと怖いなって最初戸惑ったんです。でもケーキを食べた瞬間の顔の綻びようと言ったら……」
 彼女の言葉尻に揶揄のようなものはない。ただ単に、記憶の中のセリフが腑に落ちただけなのだろう。
「そう、でしたか。そんなに緩んでました?」
 自分では少しだけだと感じていたけれども、どうやら思いっきり緩んでいたらしい。
 ここに上司がいなくてよかった、と風見は本気で胸を撫で下ろす。また「これでよく公安が務まるな」と怒られるところだった。
「ええ。ガトーショコラがお好きなんですね。とても幸せそうに食べていたので」
「……いえ、すみません」
「どうして謝るんですか?美味しそうに食べる人、私は好きですよ」
 目を細めて、彼女はふわりと笑う。まるで自分が幸せだと言うかのように。
 ――ああ、柔らかいな。
 風見は諦めに似た感情に包まれて、眉尻を下げた。そして脳裏を過ぎるのは「君も、そろそろ身を固めたらどうだ?」と共に聞かされた上司の惚気話だった。
「柔らかいものに触れればストレス発散になると、研究結果が出てるんだが……。触れなくても、手放しで安心できる柔らかい存在が傍にいるというだけで心底癒されるよ」
 そう言って、幸せそうに微笑んだ上司の顔が忘れられない。
 きっとそれは未来の自分の姿になると、風見は予感していた。