阿笠邸にある大きな窓から、春の陽光が麗らかに差し込む日曜日の昼下がり。テレビの前のソファは柔らかい光が当たっていて、寝心地が良さそうだ。志保はそこに誘われるようにして近づいていく。
徹夜明けの体は休息を求めていた。
「ふぁぁ……」
大きな欠伸をひとつしながら、ソファの座面に横になる。今まで陽の光で暖められていたおかげで、座面はほんのりと熱を持っていた。
優しいぬくもりが志保の体を包み込み、眠気をさらに誘った。
ゆったりとした長閑な時間。新一に頼まれていた調べもののせいで、忙しかった志保にとって至福のひと時だ。
しかしそれは、突然やってきた従兄によって壊されてしまった。
従兄は黒いジャケットを脱がないまま、クリップ止めされた紙束を突き出してきた。まるで何かに急かされているみたいだ。
「この研究施設に見覚えはあるか?」
「何よ、急に……」
相変わらずね、と志保は円卓キッチンの内側からコーヒーを差し出した。代わりに紙束を受け取る。
久しぶりに訪れてきたと思えばこれだ。ふ、と小さく息を吐いて数枚の紙をパラパラと捲っていく。
活字で書かれたそれは調査資料だった。今はもう使われていない研究施設についてらしい。志保は目をすがめた。
この施設はきっと……。
「残念だけど、私が関わった施設じゃないわね。……ここが何か?」
「いや、知らないならいい」
赤井は興味を失ったかのようにコーヒーを口に運んだ。
ああ、やっぱりそうなのね。私だけをそうやって除け者にする、と志保の唇が緩やかな弧を描く。それは少し皮肉げに歪んでいた。
「知らないとは言ってないわ。出入りしていた人間を何人か知ってるもの」
「……何が望みだ?」
赤井は鳩が豆鉄砲を食らったような顔を見せた後、苦々しげに眉根を寄せた。
珍しく崩した表情に志保は淡く笑った。ほんの少しだけ溜飲が下がる。
「私もここに連れて行ってくれない?」
「駄目だ」
答えなんて、わかりきっていた。しかし、志保にも引けない理由がある。
彼をしっかりと見据え、敢然と言い放った。
「私はもう、『灰原哀』じゃないわ」
燻って、燻って、どうしようもなくなっていた感情。
体は『宮野志保』に戻ったけれど、心は『灰原哀』のままだ。あの頃のまま、囚われ続けていた。
何か暖かいものに守られている。その正体に迫ろうとすれば、すっと目を閉じさせられる。もどかしさを感じながらも、何もできなかった。
心に降りしきる焦りと悔しさと疎外感。
今はそれに加えて、また私の手に触れないようにして、という腹立たしさがあった。
感情たちが入り乱れ、混沌に陥っていく。
「守られてるだけの姫なんて、もううんざりよ」
強く従兄の目を見つめる。彼の緑色の瞳もまた、志保を捉えていた。
鋭い眼光に押されつつも引く気はない。無言の攻防戦は数分にも及んだ。
「はぁ……わかった、連れて行こう。ただし、俺の指示は聞け」
この戦いに終止符を打ったのは、赤井のため息だった。
「ええ、もちろんよ。……それで? 詳しく教えてくれる?」
志保はカウンターから抜け出した。赤井の隣に腰掛け、パサリと資料をふたりの間に置く。
資料に目を送った赤井が、とある一文にトンと指を添えた。
「ここにも書いてある通り、最初の調査では異常なかった。……だが前回の最終調査で、最近の残されたものだと思われる痕跡を発見したそうだ。仮に奴らだとしても、そんな痕跡を残すはずがない。何かの罠だろうとこちらは踏んでいる。……まぁ、物取りの可能性もあるが……」
あそこにはガラクタしか残っていないのにな、と赤井は顎に手を当てて訝しんだ。
罪人たちは全て捕らえた、と聞いている。もしそれが間違っていたとしたら、残党はどこかに潜んで反撃の機会を伺っているだろう。もしかしたら、その施設の近くに潜伏しているのかもしれない。
資料に置かれた、トリガーを引く無骨な人差し指。志保はそれをぼんやり眺めながら、あれこれ考えを巡らせた。
するとこちらの視線を感じたのか、ピクリと指が跳ねた。
「そんな顔をするな。何があっても守ってやる」
「……姫扱いしないでって言ってるのだけど」
「姫は姫だが……。そうだな。戦姫、といったところか」
どうしても姫に仕立てあげたいらしい。謎のこだわりの強さに今度は志保が折れた。
「そう……。なら、後ろは任せたわよ。騎士さん?」
共に戦えるよろこびに頬を緩ませる。
彼がいるなら私は戦える、と志保は一歩踏みだした。
さようなら、『灰原哀』。
少し寂しいけれど、これは悲しい別れじゃないわ。
今まで一緒にいてくれて、ありがとう――。