ふわりと漂ってきた香ばしいコーヒーの匂いで、降谷は目を覚ました。額に乗せていた腕を退けると、高い天井が見える。
「……ああ、そうか」
ここは阿笠邸。降谷が目覚めた場所は、広いリビングにあるテレビの前のソファの上だった。
昨晩は懐かしい面々との再会があり、大いに盛り上がってしまった。車で来ていた降谷は、泊まっていいから、と言われたのでその言葉に甘えてソファを借りていたのだ。一室を案内されそうになったが、それは丁重に断らせてもらった。
ゆっくりと体を起こして、着けっぱなしにしていた腕時計で時間を確認する。まだ朝の七時だった。
すると、こちらの動いている気配を察したのか、志保が円卓キッチンから声をかけてきた。
「あら、おはよう。……ごめんなさい。起こしてしまったかしら?」
「おはよう。いや、自然に目が覚めたんだ」
心配は無用だ、と微笑みかければ彼女はホッとしたのか、表情を和らげた。そしてマグカップを持ってキッチンから出てくる。
「……これ、良かったら」
マグカップがソファの前にあるローテーブルの上にコトリと置かれた。
ゆらりと湯気と一緒に、馴染みのある匂いが立ちのぼっていく。どうやら心地よい目覚めの出処はこれだったようだ。
「ありがとう。いただくよ」
上澄みに少し息を吹きかけてから一口だけ含む。熱さとほろ苦さが舌に広がり、目が冴え渡っていった。
「美味しい……」
ほう、と降谷が深く息を吐けば、志保は微笑んで白衣を翻した。
大きな窓から朝陽が差し込み、汚れのないそれを穏やかに照らす。その姿に一瞬、初恋の人の面影が志保と重なった。
それは幻だ。緩やかに輝く朝日が見せた幻影だとわかっていたのに、ポロリと口から言葉が滑り落ちていった。
「……エレーナ先生?」
「え?」
志保が背中越しに降谷を振り返った。白衣と赤みがかった茶髪がふわりと揺れる。
しまった、と降谷は頭をガシガシと乱暴に掻き毟った。
「あー……。すまない」
「……やっぱり似てるかしら?」
「まぁ、ね……」
クスリと小さく笑った彼女は自分用のコーヒーを手に取り、向かいのソファに腰掛けた。
一緒に朝のゆっくりとした時間を過ごしてくれるようだ。
気を取り直すようにコーヒーに口をつけ、そっと志保を伺う。すると目の下にクマができてるのが見えた。
そういえば、彼女は朝が弱いと聞いている。昨日遅くまで起きていたから、本来ならまだ寝ているはずだ。
「志保さん、もしかして寝てないのか?」
「ふふ……ええ、昨日の夜は楽しかったから……。なんだか寝てしまうのが勿体ない気がして」
「そうか」
クールそうに見えても、彼女はまだティーンネイジャーだ。
特に組織壊滅後は、年相応な言動を垣間見れることが多くなってきていた。それが本来の彼女なのだと思える。降谷は静かに口角を上げた。
しかし、笑ってしまったのを、からかったように見えたのだろう。志保が少しだけムッとした。
「子ども扱いしないでくれる?」
そういえば昨夜は散々赤井に甘やかされていたな、と思い出しては、やはり感情が剥き出しになった彼女に嬉しくなる。
「いや、そんなことないよ。楽しかったようで何よりだ。……君のお母さんもそう言っていたしね」
「え? ……それ、詳しく聞かせてくれる?」
彼女は前のめりになって聞く体勢を取るので、降谷はコーヒーで唇を湿らせてから語り紡いでいく。ひどく懐かしい思い出を。
『人はいつかは必ず死ぬ。だからこそ、生きている今を大いに楽しむのよ』
かつて、初恋の人はそう言った。今でも、彼女の言葉はしっかりと耳に残っている。
――それは穏やかで優しく、少し寂しいような休日の朝だった。