シュルリ、と濃紺のネクタイの擦れる音がやけに大きく響いた。ウールが多めに配合された布地であっても、静けさに満たされた洗面所では鼓膜が敏感に音を拾う。
まだ陽も出ていない時間のせいだ。生活音なんてものはなく、ただひたすらに静寂が広がっている。
「昼間とは大違いだな」
降谷は僅かに目を細めて、口の端を吊り上げた。
阿笠邸はいつも賑やかで暖かい。そんなイメージとは裏腹な状況がなんだか面白く、むず痒く感じた。
あの頃は、まさかここの洗面所で身支度を整えることになるなんて思ってもいなかった。
人生は本当に何が起こるか分からないものだ。
降谷は仕上げだと言わんばかりにネクタイを強めに締め上げた。首元が圧迫されると、緊張感が芽生える。
寒さと眠気によって鈍っていた筋肉が機能し始め、背筋がしゃんと伸びた。
そうして灰色のジャケットを羽織った降谷が洗面所から出てみれば、そこは暗闇ではなかった。
視線を滑らせてかすかな光の発信源を辿っていくと、リビングの中央に位置している円卓キッチンに行き当たる。
そこでは未だに白衣を着たままの志保が湯を沸かしていた。火にかけられた薬缶は、柔らかな水蒸気をもくもくと霧散させている。
洗面所から距離があったとはいえ、彼女が起きていたと全く気づかなかった。きっと、常日頃から博士に気を遣って、音を立てないように深夜活動を行っているのだろう。
彼女の日常を、ほんの少し垣間見れたような気がした。
「まだ起きてたんだ?」
降谷が静かに声をかければ、志保は驚いた様子も見せずにゆっくりと振り返った。彼女の口元には明らかな苦笑と、隠し味程度のからかいが含まれている。
「もう行くの? 一睡もしてないじゃない。目の下のクマ、私の従兄みたいになってるわよ」
降谷はすぅと目を眇めた。あの一家の中でくまの特徴があるのは奴だけではないのに、敢えて選んでくるなんて、彼女もなかなかの曲者だ。
「はぁ……その従兄に呼び出されたんだよ」
「あら、そうだったのね。悪かったわ。……じゃあ彼はどうするの?」
志保が顎で『彼』という人物を示すので、降谷は首を傾げながら彼女と同じ方向を見る。すると、テレビの前にあるソファで足をはみ出させて寝入っている風見が視界に入る。
ああ、と降谷は小さく頷いた。
「あれはもう少し寝かせてやろうかと。この後、体力仕事を任せてるしな」
「ふふっ、部下思いね」
志保が沸騰した湯をゆっくりとマグカップに注ぎ始めれば、顎のラインで揃えた髪の毛がさらりと流れる。くすぐったかったのか、目を細めた彼女は頬に落ちた毛を耳にかけた。
その仕草を認めた降谷は、思わず息を呑む。
「っ」
「どうしたの?」
「あ、いや……。やっぱり似てるな、と。エレーナ先生に」
志保の纏う柔らかな雰囲気が、どことなくかつて世話になった人を彷彿とさせた。
これから仕事だというのに、ひどく懐かしい気持ちに浸ってしまいそうだ。
「……そういえば、降谷さん。お母さんの話を詳しく聞かせてくれるって言ってたけれど……」
志保がトン、トン、とマグカップの縁を軽く叩いた。
母親のことを聞きたくて仕方ない。けれども、公安の仕事の状況を見ていると強引には聞けない。
そんな心理の表れだろう。
いくら大人びているとはいえ、彼女はまだ未成年だ。まだ大人に甘えていい年齢であるにもかかわらず、妙なところで遠慮するのは幼少期からの環境のせいだろうか。
「すまない、この件が片付いたら必ず」
「……本当に?」
「ああ」
降谷が力強く頷けば、志保は満足げに微笑んだ。
「楽しみにしてるわ。都合のいい日を連絡して」
そう言い残した彼女は淹れたてのコーヒーを持って、上機嫌で自室に戻って行った。
約束を取りつけた途端に彼女の押しが強くなって、降谷は思わず吹き出した。こういった強かさは明美に似ているのかもしれない。
これも今度話そう、と降谷は心に留めながら、ソファに近づいた。
眉の間を穏やかにした風見が、気持ちよさそうに寝息を立てている。家主に借りた毛布を引っ張り上げたまま寝落ちしたせいか、ソファからはみ出した足先には何も掛かっていない。
寒くないのか? と首を傾げるが、暖を求めるようにそこが少しだけ蠢くのを見逃さなかった。
どうやら寒気よりも眠気が勝っているらしい。降谷は起こさないように小さくため息を吐いて、毛布を足先まで被せてやった。
そうして降谷は向かいのソファを一瞥する。こちら側では、風見とは打って変わって、毛布にすっぽりとくるまった新一が寝ていた。
隣の実家に帰って、ベッドでゆっくり休めばいいのにここで寝ているということは、そこまでする余裕がなかったのだろう。
「まぁ、調べものも多かったしな」
毛布から少しだけ出している新一の手は、スマートフォンに触れていた。いつ着信がきてもいいように備えているみたいだった。
降谷はそれを拾い上げて、テーブルに置く。今は脳までしっかり休めてくれ、と。
そして空になった降谷の手はテーブルに綺麗に纏められた資料を掴んだ。
「これで被害者たちを魔の手から救い出せる」
それと同時に、まだ重い罪を犯す前だからこそ思い留まってほしいとも強く願った。
降谷が覚悟を決めてグッと奥歯を噛み締めた瞬間、カーテンの隙間からフラッシュのような眩い光が射し込む。
「ああ、いいタイミングだ」
いけすかない奴の車が到着したのだと悟り、降谷は居心地のいい阿笠邸を後にした。