イカロスの翼

 トトト……と手際よくキャベツを千切りにしながら、安室はこの後の予定を分刻みで思い浮かべる。
 十七時にこの喫茶店での仕事を終え、三十分後に風見と合流。それから一度家に帰ってハロの世話をして、十九時にベルモットと待ち合わせ。その後は……。
 ザクッという生々しい音と、人差し指に走った熱さ。
 そこでハッとして思考を止めた。考え事にのめり込みすぎて、どうやら指先を包丁で切ってしまったようだ。真っ直ぐに入った傷口から、ぷくっと赤い体液が顔を出している。
 赤は嫌いだ。
 安室は苦々しく眉根を寄せていれば、梓が異変を察したようだった。
「わっ! 安室さん、血が……! 救急箱取ってきますね」
「……すみません、梓さん」
 さすがというべきか。アルバイトの先輩である梓はこういうアクシデントに慣れているらしい。颯爽とスタッフルームへ駆け込んで行った。
 それに比べて自分はどうだ。自分が背負っているものは、中途半端な覚悟で成し遂げられるものではない。
 今やるべきことを成すためにしっかり顔を作れ、と気持ちを切り替えるように緩く首を振った。


 その様子を、カウンター席にいたコナンは頬杖をつきながら見ていた。この人がぼんやりするなんて珍しいな、と驚愕する。
 傷口を水で洗い流している安室の顔は、既に作られたものになっていた。
 綺麗なものだ。誰も『安室透』は実在しない人物だとは思いもしないだろう。
 コナンは精巧に作られた顔を、上目遣いに覗き込んだ。
「安室さん、大丈夫? 昨日の夜の疲れ、残ってるんじゃない?」
「……何のことかな?」
 彼はこちらを見ることはせず、血が付着してしまった器具を消毒し始めた。
 まるで踏み込んでくるなとでも言うような返答に、諦めに似たため息しか出ない。本当にこの人は……、さっきまでどこかへ消えてしまいそうな顔をしていたクセに、と。
 それは昨夜の出来事だ。
 昨日の毛利家の夕飯は蘭の手料理ではなく、外食だった。というのも事件があったせいで、帰宅が遅くなってしまったからだった。いつにも増して、小五郎が余計なことを言って捜査を撹乱したせいでもある。
 その遅い夕飯を食べた帰り道だった。街頭に照らされた住宅街を三人で歩いていると、黒に覆われた安室と出会った。
「あれ? 毛利先生じゃないですか。何か事件だったんですか?」
 先に気づいた安室が小五郎に挨拶をした。
 普段と違う装いに一瞬誰だか分からなかったのだろう。小五郎は目を細めた後、ニカッと笑った。
「まぁ、そんなところだ! そっちはどうしたんだ?」
「僕も探偵の仕事がありまして……」
 嘘だ。目の鋭さが物語っている。この人は安室ではない。黒づくめの組織の一員、バーボンだ。
 コナンは警戒心を剥き出しにしないようにしながらも、そっと小五郎の前に歩み出る。だが、こちらの気配を敏感に感じ取ったバーボンは緩やかに笑って、挨拶もそこそこに去って行った。
 通り過ぎたバーボンの残り香を吸いこみ、コナンは振り返る。
 彼の黒いスラックスの後ろポケットからは、白い手袋がはみ出していた――。
 昨夜のことに思い返していたコナンは、アイスコーヒーで口を僅かに潤した。バーボンのミステリアスで感情の読めない瞳が脳裏をよぎると、どうにも心がざわついてしまう。
 喉が無性に乾いて仕方ない。コーヒーだけでは足りなくて、ペロリと唇を赤い舌で舐めて湿らせた。
 彼は本当に顔を作るのが上手だ。完璧といっていい程に。
 けれども、彼も人間だ。完璧などあり得ない。どんなに繕ったとしても、小さな綻びは必ずある。
「……まぁ、いいけど。言いたくなったら言ってよね」
「え?」
 やっとこちらを見た安室に、珍しく本音を明かす。
 今、目の前にいる『彼』には正直になった方がいい。そう思えたから。
「あの時みたいに回りくどいことなんてしないで、直接ボクを頼ってよ。また協力者になってあげるから」
 安室が呆気に取られている。
 ぽかんと開いた唇がなんとも面白く、コナンは歯を見せて無邪気に笑った。


 底なし沼でもがき続ける降谷に照らされた、唯一の光。
 その存在が降谷を柔らかく包み込んで、絶えず酸素を送ってくれるからこそ、まだ戦えると思えた。
「君は……、狡いな」
 この子が欲しい。この子がいなければ、上手く息ができない。捕まえて縄で縛り付けて、どこへも行けないように。そうやって動けなくなった君に白い献花を送ってあげるから、ずっと、いや一生、片時も離れずにいて欲しい。
 心に深い染みを作る、どす黒い独占欲。
「ふふ……」
 無意識に唇に歪んでいく。
 ――ああ、これはまずい。今は安室のはずなのに。一体自分はどんな顔をしているのだろう。
 そうやって客観視する自分も、降谷の中にいた。しかし、それはただの傍観者だ。軌道修正するでもなく、ただただ自分の状態を観察しているだけ。
 ズブズブと沈んでいく意識に、コナンは異変を感じ取ったらしい。目の前で柔らかそうな手が振られている。
「安室さん、安室さん。大丈夫?」
「え……ああ、うん」
 ゆっくりと口角を上げ、コナンに笑いかける。
 今作っている表情は安室の仮面のはずなのに、彼は心配そうに見つめてくる。そして小さな唇からゆっくりとため息を吐いた後、手のひらをこちらに差し出してきた。
「安室さん、怪我した指を出して」
「うん?」
 どうしたというのか。首を傾げながらも白くて小さな彼の手に、赤い線の入った指をそっと乗せる。
 すると、コナンは青い瞳を瞼の奥に閉じ込め、ある言霊を唱えた。
「……痛いの痛いの、飛んでけ」
「ッ……」
 なんて、無垢な願いなのだろう。
 それを壊してしまったら、取り返しがつかなくなるような気がする。だから次から次へと溢れ出す欲望に、パタンと蓋を閉じた。
 ――今はまだ、どうかこのままで。