渋谷駅の改札から出た新一は、陽射しを避けるようにして街路樹に近寄った。
体感温度は影に入るだけでも全然違う。ここ最近、初夏並みの気温を叩き出しているから尚更だ。季節は春だというのに。
考えることは皆同じで、待ち合わせをしているであろう人々は日陰で涼んでいた。
「ん、ちょっと早く来すぎたな」
新一はスマートフォンを尻ポケットから取り出して、画面を明るくした。そこにはいつもの待ち受け画像が映し出されている。
ピンガからの連絡はまだ来ていない。
――そう、新一の待ち合わせ相手はピンガだった。
彼は都内でミーティングをしてから、こちらに向かうことになっている。それは組織の仕事ではなく、パシフィック・ブイの仕事らしい。
そのため、着替えなども必要になってくるからもしかしたら時間がかかっているのかもしれない。潜入のために女装するのも大変そうだ。
新一はニュースアプリを開いて時間を潰すことにする。するとこちらに近づいてくる靴音が耳に飛び込んできた。コツコツと、軽やかな音は明らかに女性のものだ。
きっと、新一の隣で同じようにスマートフォンを弄っている男の待ち合わせ相手だろう。ところが、パンプスを履いた足は新一の目の前で立ち止まった。
「お待たせ」
上から落ちてきた女性の声。きっと誰かと間違えたのだろう。
「すみません、人違いかと……え? なんでその格好?」
目の前にいたのは女装姿のピンガだった。いや、グレースとでも言った方がいいのだろうか。
「あらやだ、酷い言い草。仕事終わって急いで来たのに」
「……の割には、化粧しっかり直してきてるな」
「新一と久しぶりのデートだから気合入れてきたのよ。ひとまず移動しましょ」
「あっ、おい」
新一はグレースにしっかりと腕を組まれて、歩かされてしまう。身長に細工はしていないみたいで、緩くウェーブのかかった毛先が視界の少し上の方でチラついた。
なんだか別の人間といるような気がして、奇妙な感覚に陥る。
「ん? どうしたの?」
「いや、別に」
新一がそっけなく答えれば、グレースはからかうように笑った。こちらの戸惑いなんてお見通しらしい。
新一は唇を尖らせて、足を動かした。目的地まであと少しだ。
まだ開店準備にも入っていない居酒屋が並ぶ横丁に入った。閑静なそこに靴音を響かせてはいけない。互いに己の音に注意しながら横丁を抜けて、廃ビルに足を踏み込んだ。
路地の奥まった場所にあるせいで、陽光は僅かにしか差さない。グレースに続いて新一も、ポケットに忍ばせていた小さなライトで辺りを照らした。
室内であるにもかかわらず、砂とガラスの破片が混じったものが散らばっている。ジャリ……と靴の裏から不快な音が鼓膜を震わせた。
「相変わらず荒れ放題ね」
「片付けたいけど、一階は人がいる痕跡を残したくねーしな。……それにしても、もうグレースの口調じゃなくていいんじゃねーか?」
「この格好でいる時はグレースでいるのが私のポリシーよ」
「へぇ」
プライドが高くて野心家。そんなピンガだが、きっちりと努力しているのを新一は知っていた。でなければ、喉元を隠して五年も潜入なんかしていられないだろう。
「なぁに、惚れ直しちゃった?」
「ッ、バーロー。んなわけ……!」
「んふふ、そう?」
ライトに僅かに照らされた、グレースのぽってりと柔らかそうな唇が艶かしく歪んだ。
柔らかそうな、ではない。実際柔らかいことを、新一は知っていた。
今は唇の色も何もかもが別人のようなのに、しっかりとピンガのキスの感触を思い出してしまう。それだけ、この身体にピンガという存在が刻み込まれているらしい。
「〜〜っ! いいから行くぞ!」
「はいはい」
新一はからかってくるグレースを押しやり、ずんずんと階段を上がっていく。二階を通り越して三階フロアに辿り着くと、そこは今までのフロアが嘘だったかのように整えられた空間が広がっていた。
砂利もガラス片もない。中央にある作業デスクには埃一つない代わりに、いくつものファイルや筆記用具などが置かれている。備え付けの椅子もやたらと綺麗だ。
そんな中で、新一はあるものに目を奪われる。窓から差し込む陽光に照らされたロングソファが気持ちよさそうに見えたのだ。
そういえば徹夜していて寝不足だったな、と新一は自分の身体の状態を思い出す。ソファに腰掛けて背凭れに寄りかかれば、睡魔がじわじわと迫り始めていた。いけないと思いつつも、この暖かい日差しが睡魔を助長させる。
「新一。なに寝ようとしてるの? 逃走ルートの検証をするんでしょう?」
「んぁー……やばい。日向ぼっこ……」
「まったく、しょうがないわね」
グレースが呆れたようにため息をついたのが分かった。もう瞼を開けていられなかったので、視覚以外でしか感じることができない。
新一の腰のすぐ横、クッション素材の座面が僅かにへこんだ。グレースが体重をかけたのだろう。
近づかれても、睡魔に勝てない新一は微動だにしない。それをいいことに、グレースはゆっくりと新一の頬を撫でた。肌に触れる指先は少し冷たくて気持ちいい。
グレースの姿であっても、こういうところは変わらない。新一はいつものようにその指先に擦り寄った。
くつり、とグレースが喉の奥でひそかに笑った気配がする。その直後――
「ん……」
しっとりとしたものが唇を覆う。
ほんの僅かな触れ合いだった。すぐさま可愛らしいリップ音を立てて離れていく。
新一はその音でようやくキスをされたのだと気づいた。
「新一にこの色はまだ早かったみたいね」
「んぅ、色ってなんだよ……」
眠りを邪魔された新一が眉根を寄せながら薄らと目を開ける。すると、グレースの色の剥がれた唇が視界に飛び込んできた。
「っ! なっ……もう! 口紅移してくんなよ!」
新一が慌てて唇を手の甲で拭うと、グレースは残念そうにした。
「セクシーな色男だったのに……。じゃあルート検証が終わったら新一に似合う色を買いに行きましょうよ」
「じゃあの意味が分からねーんだけど⁉︎」
どうして口紅を付ける前提で話を進めてくるのか。突拍子もない話にすっかり眠気は覚めてしまった。
新一が覆い被さってくるグレースの肩を押そうとすれば、グレースはその動きを利用して首に腕を回させた。馴染みのないウィッグの毛が新一の指先に触れるので、一瞬躊躇いが生じてしまう。
こちらが狼狽えたのが分かったのだろう。グレースは口の端を意地悪そうに吊り上げながら、自分の唇に付いた紅を親指で拭った。
「……今度は新一から、私に色を移して?」