芽生え

 うだるような暑さは、気のせいでもなんでもない。現に連日、各地で真夏日を記録している。
 ポタリ、と顎から滴った汗が書いたばかりの筆算の上に落ちた。景光は慌ててそれを拭って、字が滲まなくてよかった、と算数ドリルに使われている紙の強度に安心感を抱く。
 四年生に進級すると同時に担任の先生が変わった。この先生は過程を大事にする人みたいで、こういう筆算も見せなければいけないのだ。
 今度は頬に伝う汗を手の甲で払って、景光はひと息ついた。
 遠くから近くから、聞こえてくる蝉の鳴き声。何重にもなって奏でられているそれに、首振り扇風機の音が混ざる。それから、零が鉛筆をノートに立てる音も。
 高学年になったらシャープペンシルを使える。家で使う分にはいいじゃんかと思うけれど、担任は許してくれなかった。線の太さで鉛筆かそうでないかをすぐに見咎められる。
 だから、丸くなった芯を鉛筆削りで律儀に尖らせなければいけない。景光の筆箱には鋭利な鉛筆が何本も入っていた。そこでふと、そろそろ削ろうと思っていたものが一本あることを思い出す。
 景光は先端が丸み帯びた鉛筆を取り出すと、ちゃぶ台の中央に置いていた鉛筆削りを使って、芯を尖らせ始めた。
 ゴリゴリと削る度に、茶と黒の削りカスが備え付けのゴミ箱に溜まっていく。そこから少しだけ、鉛と木の匂いが漂ってきた。けれども、い草の噎せ返るような匂いにすぐかき消されてしまって、景光の心の奥を妙に騒がしくさせる。
 これも夏の匂いだ、と思った。
 東京に来てからずっと仲良くしてくれている零との夏休み。来週にはプールに行く予定も立てている。カルキの匂いを思い出して心を弾ませた景光は、プール以外でもたくさん遊べるようにまずは宿題をやっつけなければ、と再び鉛筆を構えた。
 しかし一度切れた集中力はなかなか戻ってきてくれない。
 景光は零をチラッと覗き見た。彼は、自分と違って黙々と宿題をやり続けている。零だって、暑いと思っているだろうに。現に、汗が褐色の肌を滑り落ちてく。
 それは首筋から胸へと伝い、緩めのタンクトップの内側に流れていった。
 ドキン、と景光の心臓が跳ね上がる。
「っ」
 最近、景光は誰にも言えない悩みを抱えていた。
 零のとある部分を見ると、どうしてか心臓が大きく動き回るのだ。それと同時に人に言えない部分が熱を持ち、掻き毟りたい衝動に駆られる。
 今日も、また――。
 零のタンクトップは、襟ぐりが大きく開いているものだった。それに加えて宿題に集中しているからか、前のめりになっているせいで見えそうで見えないのだ。景光が気になって仕方ない、零の乳首が。
 それが余計に景光の心を騒がせる。
 景光は無意識に唾を飲み込んだ。すると、ごくりと喉が大きく鳴って、景光は再び心臓を大きく震わせる。零に聞かれていたら恥ずかしいと思うのもつかの間、零が声を張り上げた。
「あーあっつい! ヒロ、そろそろ休憩にしない?」
「う、うんっ!」
 景光は身体を跳ねらせて頷くと、 鉛筆をノートの上に転がした零は眉尻をほんの少し下げた。
「ごめん、声大きかったね」
「いや、暑くてボーッとしてただけ」
 零の胸を見ていたのがバレたのかとほんの一瞬焦ったけれど、どうやら気づかれていないみたいだ。景光は余韻の残る動揺を隠すように、空になった二つのコップに手を伸ばした。
「ちょっと待ってて。冷たい麦茶ついでくるから!」
「うん、ありがとう!」
 零の声を背に、景光は台所に駆け込んだ。叔母の姿はない。きっと自分の部屋にいるのだろう。
 景光が背の高い冷蔵庫の扉を開けると、中から冷気が流れてくる。白いもやを浴びれば、少し気持ちが落ち着いてきたような気がした。
 景光はコップに麦茶を注ぎ終えると、零さないように慎重になりながらも居間へ急いだ。
「お待たせ」
「おかえり。扇風機ちょっと弄ったよ」
「ふはっ、いいところ座ってるね、ゼロ」
 零は扇風機の前で涼んでいた。首振り機能を止めて、自分の方にだけ向けている。
 そこから左側にずれて、右隣の畳を叩いた。トントンといい音が鳴ると同時に景光の足の裏を振動させる。
「ヒロはこっちな」
「うん!」
 景光は零にコップを手渡しすると、自分のコップを脚が当たらない所に置いて腰を落ち着かせた。
 扇風機のスイッチは最強になっている。うるさいくらいにファンを回して巻き起こした風が、汗で湿った肌を冷やしていく。
 表面だけでなく、身体の内側も冷やしたい。景光はようやくコップに口をつけた。
 麦茶特有の香ばしい匂いが冷たさを伴って口いっぱいに広がる。喉を鳴らして飲み込めば、全身に冷気が染み渡っていたような気がした。
「っはぁ、美味しい……」
 思わず零れたのは、叔父がキンキンに冷えたビールを飲んだ時みたいな声だった。今なら、大人の気持ちがよくわかる。
 そんな景光を、零は肩を震わせて笑う。
「ヒロ、おじさんくさい」
「だ、だって本当に美味しかったからっ」
「それは分かる。暑い中、冷たいものを一気に飲むと気持ちいいよな」
「だよね!」
「僕も真似してみよ」
 零も麦茶を勢いよく飲み込んで「ふっ」と大きな息を吐いた。思ったよりも可愛い吐息に、景光は笑ってしまう。
「なんだよ」
 景光がいつまでも笑っていると、零はムッと唇を尖らせた。そして脇を肘で軽く小突いてくる。
「ごめんごめん、あんまりおじさんっぽくなかったなって、っ!」
 そこで景光は息を呑む。零のノースリーブの脇から控えめの乳首がチラッと見えたのだ。
 それを認識した途端、頬も耳も熱くなっていった。
 今まで、気にしたことなんてなかったのに。お泊り会で一緒に風呂に入る時、体育の授業の着替え、それを言うならブールの授業の時など、何回も見たことある。
 本当にここ最近どうしちゃったんだろ、と景光は狼狽えた。
「ヒロ、なんか顔が……。もしかして熱中症?」
「あ、ちがっ」
「え? ほんとに?」
 零は景光の熱を測ろうと、前かがみになる。すると広く開いた襟ぐりから二つの可愛らしい突起が見えてしまった。
「っ!!」
 喉の奥が狭まり、呼吸がしづらくなる。ますます熱が上がってしまったと自分でも分かった。頭が沸騰しそうだ。
「わ、どんどん顔が真っ赤に! ちょっと待ってて。ヒロの叔母さん呼んでくる!」
「だ、大丈夫だからっ!」
 零の乳首を見て熱が出たなんて、叔母にも本人にも知られたくない。景光は叔母を呼んでこようとする零の腕を、勢いよく引っ張った。すると不意をつかれた零がこちらに倒れこんでくる。
「わぁっ!」
「あいたッ」
 後頭部や背中や腹に強い衝撃が走って、景光は咄嗟に目を瞑った。しかし腹を襲った衝撃だけはすぐになくなる。
 それは衝撃というより重さだったのだ、と零の言葉によって気づかされた。
「ご、ごめん。ヒロ、思いっきり押し潰しちゃった。大丈夫?」
 景光がそっと目を開けると、零は畳に手をついて景光の上を陣取っていた。
 重力に従ったタンクトップは半円を描き、大きく口を開けている。零の小さな乳首が先程よりもガッツリ見えてしまった。
 上から見下ろすような角度は、突起がどれくらいぷっくりしているかを知らしめているみたいだ。
 景光は熱にくらくらしながらも必死に頷いた。早く退いてほしい、と。
「そっかぁ? なんかまた顔が赤くなった気がするけど。まぁこれだけの力が出るなら大丈夫か」
「う、うん! 大丈夫だよ!」
 零の乳首を少し見るだけでこんなになるなんて、どうかしてる。
 来週のプールが楽しみなはずなのに、楽しみではない気持ちが生まれていた。