衝動

 中学生になると、零は一気に大人びて見えた。この間までランドセルを背負っていたとは思えないほどに。
 きっと学ランを着ているせいだろう。制服を着るだけで、こんなにも印象が変わるのが不思議だった。零は零のままのはずなのに。
 ちょっとした仕草でも大人の男らしさが見え隠れしていて、景光の心臓は跳ね上がるばかりだ。
 同じクラスでよかったと嬉しく思う反面、クラスの振り分けをした教師を少し恨めしくも思った。それでも時はあっという間に過ぎ去っていく。
 ドキドキしっぱなしだった四月に、校外学習でクラスに馴染みが出てきた五月、六月の梅雨の間に衣替えをして、七月始めには初めての期末試験があってその結果に一喜一憂した。学校生活にも零の制服姿にもすっかり慣れた頃、もうすぐ一学期も終わりを迎えようとしていた。
 一週間後にやってくる夏休みのおかげで、誰も彼もが浮足立っている。
「ヒロ、終わった? 帰ろ」
 零が廊下から教室を覗くように、ひょっこりと顔を出した。
「あっゼロ。ごめん、ちょっと待ってて」
 今日は、放課後に各委員会ごとに集まって会議を開く一斉委員会の日だった。
 零が所属しているのは保健委員会だ。そちらの方が早く終わったようで、景光所属の風紀委員会が集まる三年の教室まで迎えに来てくれたらしい。と言っても居残りをしていただけなので、こちらも委員会自体は終わっていた。
 この教室にいるのは、景光と同様に同じクラスから風紀委員に選ばれた女子と景光だけだった。
 景光はボールペンの芯を引っ込めながら、隣に座っている彼女に声を掛ける。
「佐藤さん、これ以上ネタが思いつかないし、家で考えてくるってのはアリかな?」
「うん、そうしよっか。提出までまだ時間あるもんね。それに降谷くんも待ってることだし〜?」
「な、なに」
 含みを持たせる言い方は、景光を動揺させた。零に対して後ろめたいことがなくはないせいで、第三者の発言であっても敏感に拾ってしまう。
 すると彼女は悪戯が成功したかのように満面の笑みを浮かべた。
「ふふっ! 仲がいいなぁって思っただけ。じゃあまた明日ね」
「ッうん、バイバイ」
 彼女は机の上を素早く片づけると、さっさと廊下に向かっていった。ドアに寄りかかって待っていた零に「じゃあね、降谷くん」と挨拶している。
 それに弾かれるようにして、景光は零の元に急ぐ。なぜだか、零が彼女と話すことに焦りを感じたのだ。
「ゼロ、お待たせ」
「ん、そんな急がなくて大丈夫なのに」
「待たせちゃ悪いと思って。って佐藤さん、もうあんなに遠くに。何も用事ないから大丈夫って言ってたけどやっぱり早く帰りたかったのかも……」
 悪いことしちゃったな、と景光は小さくなった彼女の背中を眺めながら歩みを進めた。
「風紀委員って大変? 佐藤さんと一緒に残って何かやってたみたいだけど」
「ううん。風紀だよりを作る当番が回ってきたってだけ。夏休み前だし、そういうネタでってところだけ決まったんだけど、具体的に何を書くかなかなか決まらなくて……」
「ああ、そういえば保健委員もそういうのあった。こっちはまだ順番回ってこないな」
 月に一回の頻度で、各委員会から配られる会報。景光も零も特に興味ないから、その存在をすっかり忘れていた。
「ゼロのとこもあるんだ。こういうのってちょっとめんどくさいよね」
「ははっ、そうだね。っ、うわ、暑いな」
 零は嫌そうに顔を歪めた。校舎の外に出ただけで、アスファルトからの熱気がむわりと身体中に纏わりついてきたのだ。
「ほんと暑いね、夕方なのに」
 冷房のない校舎も暑いが、外に比べるとまだマシだったと実感する。
 景光がシャツを膨らませて風を内側に送っていれば、零は空を見上げて苦々しく呟いた。
「向こうの空、暗いなぁ。今日傘忘れてきちゃったんだよね。ヒロは持ってる?」
「あー……」
 折り畳み傘すら持ってきていない景光は言葉を濁した。すると零はそれだけでこちらの言わんとしていることを察して、小さく肩を竦めた。
「やっぱり? 今日の天気予報晴れだったしね。ちょっと急ごう!」
「うん!」
 学校から家まで、景光も零も徒歩三十分くらいだ。早歩きをしたら二十分程で着くだろう。それまで天気が崩れなければいい。
 そう思っていたのに、車通りの多い街道を進んでいたところで、頭上に曇天ができあがっていた。
 景光は話を切って、空を見上げる。
「何これ。夜みたいに暗くなった」
 すると、不安を煽るようにポツと頬に冷たい雫が当たった。
 もう雨が降り始めたのだ。まずい、と思った瞬間、零に腕を掴まれて引っ張られる。
「ヒロ、走ろう!」
「あ、わっ! 待ってよゼロ!」
 零に引きずられないよう、鞄を抱えながら景光も走り出す。その数秒のうちに、雨は本格的に景光たちを襲い始めた。
 これは紛れもなく、夕立の降り方だ。
 大粒の雨が視界を白く染めていく。人も車も建物も不鮮明で、ただぼんやりとした形にしか見えない。
 景光は夏の暑さにやられていた身体が冷えていくのを感じた。額に張りつく前髪を払い、零に呼びかける。
「ゼロ、もうちょっと行くとコンビニあったよね!? とりあえずそこで休もう!」
「分かった!」
 こんなに近くにいても、零の声が遠く感じる。雨音に掻き消されてしまうのだ。スラックスの張りつく脚で水溜まりを蹴り上げているから、ますます聞こえない。
 そうしてようやく、一時しのぎのためのコンビニの軒先に辿り着いた。顔に付いた雨水を簡単に拭ってから、スラックスやシャツの裾を絞っていく。パタタタ……と、まだ濡れていなかった地面に水滴の模様が広がった。
「うわーびちゃびちゃだ。ゼロ、鞄の中は大丈夫そう?」
「うん。ヒロの方も中まで濡れてなさそうだね」
 零は色の変化の少ない景光の鞄を見て、安心したようだった。そしてスラックスのポケットからハンカチを取り出して、褐色の腕に付いた水滴を拭っていく。
「ポケットに入れてたハンカチも無事で助かったよ。雨降りそうとは思ったけど、まさかこんなに降ってくるなんて」
「予想外だったよね」
 大人だったらすぐにビニール傘を買うのだろうけれど、中学生になりたての景光は財布なんて持ってきていない。零と同様に、景光もハンカチで水気を払った。しかし、どこからか飛沫が飛んできて、景光の腕を濡らす。
「あ、ヒロごめん」
 零はハンカチを全部広げてわしゃわしゃと自分の髪を乱していた。その際に水滴が散ったらしい。
「なんだ、ゼロか。ははっ、勢いよすぎ! 頭ぐしゃぐしゃじゃん」
「いいんだよ。これから整えるし」
 零は唇を尖らせながら、手ぐしで髪を梳かし始める。
 悪戯な雨は金髪を濃厚な蜂蜜色に変えていた。コンビニの看板特有の青白い光の下でも、それは美味しそうに見える。
 景光はなんだか悪いことしているような気分になって、そっと視線を下ろしていった。そして、とある地点を見て、景光はぎくりと身体を強張らせる。
 雨に濡れた零のシャツが肌に張りつき、可愛らしい乳首を浮き彫りにしていたのだ。
 幼馴染の透け乳首をなんとかしなければいけない。このまま帰路についたら、道行く人全員にシャツ越しの乳首を見られてしまう。
 景光に、妙な使命感が生まれた瞬間だった。
「ゼ、ゼロ!」
「えっ、なに?」
「シャツもびっしょりだから拭くの手伝うよ!」
「手伝う? いや自分を拭きなよ」
 怪訝な顔をした零が身体の向きを変えると、濡れそぼったシャツは乳首との密着度を高めた。
「いいからっ!」
景光は悲鳴をなんとか堪えて、零のシャツをごしごしと拭いていく。せめて透けない程度に乾いて、と願いながら。
 すると突如、零が鼻にかかった声を漏らした。
「んっ」
「……ッ!」
 零は勢いよく自分の口を塞ぎ、景光は目を見開く。
 艶帯びた、それでいて少年らしさのある色っぽい声だ。
 ずくり、と人には言えないところがむず痒くなって、景光は僅かに腰を揺らす。そしてすぐさまそれが性衝動だと理解し、今度は石のように固まった。
 景光が無意識の行為に愕然として動けないでいると、先に零の方が我に返る。
「ッごめん、変な声出して」
「ゼロ……。いや、こっちの方がごめん。痛かった?」
「あーそうじゃなくて……ああ、うん。大丈夫」
 零は気まずそうに目を逸らした。
 景光はともなく、零がそんな顔をするのが分からない。景光が首を傾げると、不意に自分の手元が視界に入ってくる。
 ハンカチを握る景光の手は零の胸の上に置かれていた。
 そこでようやく、景光は零のあえやかな声の原因に気づく。ゴシゴシとワイパーのように動かしていた手が、男でもくすぐったく感じてしまう乳首を擦ったのだ。
「あっあっ、ごめん!」
 景光は慌てて手を離した。雨に濡れたハンカチがなぜか熱く感じるのは、指先に血の気がないからだろう。
「ふっ、はは! 謝りすぎ。大丈夫だって。……それにしても雨止まないなぁ。当分雨宿りするか」
「……うん、そうしよう」
 返事とは裏腹に、景光は今すぐ雨に打たれたい気持ちになっていた。