やっと、厳しい暑さが終わった。夏は今、最後の気力を振り絞っている最中らしい。
そんな残暑を感じながらの体育祭だった。
祭りの興奮はまだ冷めていない。景光は今日一日の出来事を脳裏で反芻して、口元を緩めた。途端にじくりとした刺激が頬に走る。
「っ」
慌てた景光は火照った頬を癒そうと、氷嚢を押し当てた。この火照りは興奮と日焼けによるものだ。
壁に掛かった鏡を覗いてみれば、氷嚢を当てていない方の頬はリンゴみたいに赤くなっている。景光は日焼けをすると赤くなるタイプなのだ。
閉会式後、興奮冷めやらぬままのクラスメイトたちとふざけながら更衣室に向かう途中で、頬の色の変化を指摘された。
彼らの反応から察するに、相当赤かったのだと窺える。脚や腕はジャージを着ていたからなんとかなったが、それ以外の部分が駄目だった。気がつけば、焦った様子の彼らに「保健室また開いてっから!」と急かし気味に送り出されてしまっていた。特にゼロの心配っぷりは過保護だと断言してもいいくらいだったな、と暴光は苦笑する。
頬が十分に冷たくなってきたので、今度は反対側に氷嚢を当てた。カラリ、と氷が水の中で踊る音が室内に響く。
保健室にいるのは、景光だけだった。
このしんみりとした気持ちは、一人でいるせいもあるだろう。さらに景光の周りの風景とも合わさって、より切なさを感じさせていた。
開け放した窓から、秋めいた風が吹き込んでくる。クリーム色のカーテンはふわりと波打つ度に、夕陽の色をその身に纏わせていた。しかし夕陽はカーテンだけでは飽き足らず、保健室全体をオレンジ色に染める。もちろん、その空間にいる景光も例外ではない。
寂しそうな色に染まる夕暮れ時。それは楽しかった時間の終わりをまざまざと見せつけてくるから、景光を切なくさせていた。
去年までの体育祭だったら、こんなにセンチメンタルになっていない。今日が高校最後の大きな行事だったからだ。
これから、景光たちの学生生活は受験勉強一色になる。この先に待ち受けている受験という壁には、ため息しか出てこない。
景光が盛大に息を吐いた瞬間、ドアをノックする軽い音が聞こえてきた。それによって暗鬱としていたため息が掻き消される。
「失礼します」
この落ち着いた声色は、零のものだ。病人がいるかもしれないと思ったのか、静かに入室してくる。
景光がパーテーションから顔を覗かせればまだ体操着姿の零が見えたので「ゼロ、こっち」と呼びかけた。すると景光と目が合った零はすぐさま辺りを見回した。
「ヒロだけか。先生は?」
「救護テントの片づけに行ってる」
「ああ、なるほどね。着替えと鞄持って来たんだけどどんな感じだ?」
零は自分の荷物を右肩に、景光の荷物を左肩に掛けていた。それらを景光が座っている長椅子の端に置く。重たい振動が暴光の尻を震わせた。
「重かっただろ。ありがと、でもごめん。首も冷やしたいかも」
顔だけでなく、首も日焼けしている。そこを示せば、零は小さく頷いた。
「わかった。打ち上げの店には直接行くって志田に話してあるから」
「あ、そっか。しゃぶしゃぶ食べ放題だっけ? お腹空いたなぁ」
零を待たせることも申し訳ないが、空腹を告げている自分の胃袋にも申し訳なく思う。早く腹を満たしたい景光は、氷嚢を頬から首に移した。
しかし、あまりにも冷たくてすぐさま首から離してしまう。頬と首とでは冷たさの感じ方が全く違った。
「こら。日焼けって火傷の違う言い方なだけなんだから、しっかり冷やさないと」
零は怖気づいた景光の手首を掴むと、そのまま首にぐいっと氷嚢を押しつけた。
「ひ、ぃっ!!」
景光が容赦ない仕打ちに飛び上がると、零は腹を抱えて笑った。
「ははっ、なにその反応!」
「お、俺で遊ぶなよなぁ」
「悪かったって」
零は声を震わせながら謝ってきた。そしてすぐさま手首を離してくれたので、景光はトントンと軽く叩くようにして氷嚢を首に当てる。
「はー、まさかこんなに焼けるなんてすっかり油断してたよ」
「日焼け止めを塗り直すの忘れるくらい楽しかったってことだろ」
「まぁそうだけど。でもそれはゼロも同じじゃない?」
「さすが。ヒロには何でもお見通しだな」
零にとっても、今日は大切な一日だった。自分と同じように感じてくれているのが、景光は何よりも嬉しい。
「ゼロがはしゃぎまくってたの珍しいよね」
「うるさい」
景光がからかえば、零は再び氷嚢を押しつけようと手を伸ばしてきた。景光は「おっと」と魔の手を避けると、零は軽く舌打ちをする。
「チッ、騎馬戦で最後まで残ってただけはあるな」
「あーそれは馬になってくれた相田たちのおかげ。避けるの上手かったんだよね」
「確かに。あの逃げっぷりは凄かった」
零は思い出し笑いをしながら、体操着を捲り上げた。
まだ大人の身体つきとは言えないが、子どものそれとも違う。十代後半特有の線の細さが露わになる。それでも、腹にはうっすらと筋が入っていて、景光は息を呑んだ。
「っ」
景光の動揺に気づかない零はそのまま体操着を頭から引き抜いた。可愛らしい乳首も姿を見せるものだから、景光の視線はそこに釘づけだ。
「うわ、汗くさ……」
景光は零の呟きにハッと我に返って目を逸らした。そしてすぐさま「そ、んなことないけど」と少しだけ声を震わせながらフォローを入れる。
「そうかぁ?」
零は半信半疑の様子で鞄を漁って、制汗スプレーを取り出す。それを上下に軽く振ると、褐色の肌に白い靄をかけていった。
目を逸らしたものの、どこを見たらいいか分からない。気を抜くと、欲に忠実な瞳は零の乳首に吸い寄せられてしまいそうだ。
そうして景光が悶々としているうちに、零はさっさと素肌にシャツを羽織ってしまった。景光の心を揺さぶるものが隠された途端、安堵と落胆に襲われる。
まるで変態みたいだ。いや、みたいだではない。正真正銘、変態だ。
景光は煩悩を消し去りたくて、氷嚢を首筋に強く押し当てる。すると零がシャツのボタンを留めながら、ゆっくりと口を開いた。
「……なぁ、ヒロって」
「ん?」
「好き、だよな? 僕の乳首」
「んっ!?」
零の問いかけに驚愕した景光は氷嚢を手から滑らせた。楕円形の袋は重力に従って長椅子の座面に落ち、氷がガシャッと悲鳴を上げる。それは景光の何かが壊れたような音だった。
「ゼ、っ! ど、ど、して、それをっ!?」
「フッ、ははっ! 動揺しすぎ。どうしてだなんて、そんなの自分の胸に手を当てて考えてみろ」
「うっ」
思い当たる節がたくさんありすぎて、言葉に詰まる。零に気づかれたくなくて、必死に理性と欲望を戦わせていたというのに無駄だったらしい。そこでふと、この言葉を思い出した。
――深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ。
世の理はよくできている。景光は諦めて、眉尻を下げた。
「そう、だよ。ゼロのそこ、好きなんだ」
零は景光を気持ち悪がらず、いつも通りの反応を示した。むしろ長年の疑問が晴れたおかげですっきりした表情を浮かべている。
それでも聞かずにはいられない。
「ゼロは、気持ち悪くない?」
「え?」
「だ、だから、その、俺がゼロの乳首見てムラムラしてたの、気持ち悪くないのかって……!」
最後まで言葉にしたところで、ハッと口を押さえる。勢いに任せて言ってしまったけれど、これは明らかに気持ち悪い発言だ。
「あっ! や、今のは」
「気持ち悪くない」
「え?」
「正確に言うと他の奴だったら嫌だけど、ヒロならなんか、まぁ……」
零は珍しくもごもごと言葉尻を濁した。自分の感情をなんて表現したらいいか分からないみたいで、顎に手を添えて考え込んでいる。
はっきりと受け入れられたわけではない。それでも景光にとっては救いだった。
「はぁぁ、嫌われたかと思った」
「なに言ってるんだ。嫌うわけないだろ」
「よかった……。なぁ、いつからさ……その、気づいてた?」
景光が窺うように下から覗き込めば、零は少し躊躇いがちに口を開く。
「しょ、小学生の時。たぶん四年とか五年とか、そのくらいに……」
「ッうわー.....。そんな前から!」
絶対バレたくないと気をつけていた。そのはずなのに、現実は思いもよらぬ事実を突きつける。
七、八年間ずっと気づかれていないと思っていた自分に驚きを隠せない。えも言われぬ羞恥はピークに差しかかっていた。
「ヒロ、顔真っ赤……。日焼けのせいじゃないよな」
「っあんまり見ないで」
目の奥がジンとしていて、耳朶は痒みすらも感じるくらいだ。見た目に出てしまうのは仕方のないことだった。
景光は熱くなった耳に氷嚢を押しつける。そして唇を少し尖らせた。
「ゼロだって赤くなってるクセに」
「そ、そりゃこうなるに決まってるだろ。こんなこと、初めてだし……」
「そう、だよね」
景光は「初めて」という言葉に肩を揺らした。それが特別な響きなように思えて、なんだか心の奥がむずむずする。景光が緩みそうな唇を引き締めていると、零は着たばかりのシャツの胸元を引っ張って中を覗き始めた。
「ゼロ? どうした?」
「ん。あの、さ……見てみる?」
「えっ!?」
「ヒロにならそういう目で見られても嫌じゃないから」
この幼馴染は妙なところで思いきりがいい。景光の脳内処理が追いつかないうちに、零は留めたばかりのシャツのボタンを外していく。
「あ、ちょっ、ちょ、ちょっと待って!!」
「嫌だったか?」
零はきょとんとして首を傾げる。それでも少し眉尻を下がらせていた。
景光に拒絶されたと、もしかしたら心のどこかで思ってしまったのかもしれない。
「あっ、ちが……嫌なんじゃなくて。その、心の準備みたいなのがまだ、だから……」
「フッ、なんだそれ」
じゃあヒロの覚悟が決まったらな、と零は悪戯っ子のように笑った。