黒猫オーバーラップ

 ぽつり、と降谷の頬に冷たいものが当たる。
 気のせいにしたくなる程の軽い感触だった。雨か? と疑問が思い浮かんだ次の瞬間、今度は鼻先が濡れる。
 降谷は目を眇めながら夜空を見上げた。闇色に染まった空に灰色の雲がかかっていて、晴天の時よりも少し明るい。
「早かったな」
 予報では日付が変わるまでは降らないと出ていたので、すっかり油断していた。降谷は少し駆け足になって、MAISON MOKUBAへと急ぎ始める。
 突き当たりの角を右に曲がれば、目的地がある通りだ。しかし、降谷はある物を目にして、忙しなく動かしていた脚をぴたりと止めた。
 当然ながら、街灯が照らす範囲は限られている。明るく照らされた場所から少し外れた暗闇に、黒く大きな塊があった。
 目を凝らさなければ見落としてしまいそうなくらい、闇によく馴染んでいる。
 ゴミ捨て場にてしては標識がない。降谷が首を傾げつつも少し近寄れば、不審物の正体が人間だということに気づいた。
「おい! 大丈夫かっ?」
 降谷は瞬時に駆け寄ってしゃがみ込む。そして、鼻腔を僅かに掠める匂いに、顔をひどく顰めた。
 鉄錆にも似たそれは、血の匂いだった。濡れたアスファルトのむせ返るような匂いに紛れてしまっているが、彼は怪我をしているらしい。
 彼と表現したのは、キャップを深く被って俯いているもの、体格からして男だと判断できたからだ。ただ、まだ線が細い。
 高校生か、大学生くらいだろう。
「意識は……ないな。頭を打ったか?」
 血だまりはできていない。気を失ったのは出血過多ではないと判断する。
 降谷はひとまず救急車を呼ぼうと、スマートフォンを取り出しにかかった。すると男の身体がぐらりと降谷の方に傾き始める。
「おっと」
 咄嗟に抱きとめた身体は見繕っていた以上に細身で軽い。そして、何よりも驚くべきことがあり、降谷は目を大きく見開いた。
「工藤、新一……?」
 ほろり、と言葉が零れ落ちる。
 黒いキャップが外れたことによって見えた彼の素顔。それは、知り合いという関係にも満たない、ただ降谷が一方的に知っている人物だった。


 ぼんやりとした意識の中、耳に届いてくるのは日常生活で奏でられる音で、快斗はひどく懐かしい気持ちにさせられた。
 もう何年も一人で暮らしをしているので、うとうとしながらこんな音を聞くのは本当に久しぶりだ。時々、青子がお節介を焼いてくれるけれど、それは快斗が起きている時だからノーカウントということにした。
 心地よい音は幼い感情を呼び起こしてくる。子どもが二度寝を決め込むように、快斗はまた意識を手放そうとした。しかしそこで「待て待て待て待て!」と、理性が警鐘を鳴らす。
 快斗はハッと目を大きく見開いた。
「なんっ!? ッア、いってぇーっ!」
 驚愕によって勢いよく起き上がってみれば、上腕部に鋭い痛みが走った。咄嗟に痛みの中心部へ手を当てると、柔らかい布の感触がする。
 そこは、包帯が綺麗に巻かれていた。下着以外は脱がされていて、肌色の白い包帯がやけに目立つ。
「手当されてる……。いったい誰が──」
「ああ、起きたか」
 どこか聴き覚えのある涼やかな、それでいて少し低めの声。快斗の頭の中で、警鐘が鳴り響いた。
「アンタ、どうして……」
 キッチンから顔を覗かせた男の姿に、快斗は愕然と呟いた。
 一度目はミステリートレインで、二度目は美術館であい見えた降谷零という男だった。
「やっぱり君がそうか。……久しぶりだね。怪盗キッドの正体がまさか高校生だったなんて驚きだよ。黒羽快斗君」
「っ!」
 夜の仕事も、本名も、降谷にはバレている。いや、きっとキッドだと確信に至ったのは、快斗の唇から零れた言葉だろう。最初はまず「誰だ」と問いかけるべきだったのだ。
 快斗は降谷から視線を外さないまま、ベッドの上で身動ぎをする。ギシッと、緊張感漂う空間にベッドの軋む音が大きく響いた。
「そんなに緊張しなくていい。今ここで君を捕まえることはしないから。証拠もないしね」
 降谷は困ったように眉尻を下げて、肩を小さく竦めた。それでも快斗は警戒を解かない。
「証拠がないのに、なんでオレが怪盗キッドだなんて言いきれるんだ?」
 快斗は話を引き延ばす道を選んだ。
 公安警察相手に時間稼ぎができるとは思っていない。それでも、この場から逃げる方法を考え続ける。
「君が寝ている間に、身元を調べさせてもらったからな。パンドラというものを探しているそうだね?」
「……ハッ、そこまで調べられるなんて、さすが公安様だな」
 降谷の唇が紡いだ「パンドラ」という言葉に、快斗はさらに警戒心を露わにした。
 早く、ここから逃げ出さなければ危うい。分かっているのに、打開策が見つからない。まず、自分が着ていた服はどこにあるのだろう。
 探したいけれど、敵から目を離すことはできない。
 快斗はぐっと拳を握って、降谷の目的を問う。いくら考えても答えが出ないのなら、時間稼ぎはもう終わらせるしかない。
「アンタの狙いはなんだよ」
「フッ、まどろっこしいのは嫌いか。だったら、単刀直入に言おう」
 降谷は形のいい唇をゆっくりと動かしていく。
「公安警察の、協力者になってくれないか?」
「…………は?」
 まさかの展開に、思考が止まる。快斗が言えたのは、たった一文字の音だけだった。