まさに、青天の霹靂だった。
新一はポカンと開きそうになる唇を、慌てて引き結んだ。呆けている場合ではない。まずはこの状況を脱しなければいけないのだから。
「それで? 君はどうやってここに紛れ込んで来たんだ?」
耳殻までをも震わす降谷の低音には、明らかに怒気が孕んでいる。仕事中ということもあるだろうが、ふたりきりであるにもかかわらず、蜂蜜を溶かしたような甘さはいつもと違って一切感じられない。
降谷がここまで怒るとは珍しい。事件に首を突っ込むと、それに乗じてこちらを巻き込んでくるくらいだというのに。
気迫に押された新一は思わず、じり……と一歩下がってしまう。すると、すぐに背中が壁にぶつかり、これ以上距離を取ることは不可能となった。
それを鼻で笑った降谷は、新一が退いた分だけ前進してくる。
さすがは高級ホテルだ。長い廊下に敷かれた臙脂色のカーペットにコッ、とピンヒールの冷たい音は吸収され、廊下にこれっぽっちも響かない。新一の窮地に対して、あまりにも無慈悲だ。
追い討ちをかけるようにして、降谷を挟んで向こう側にあるパーティー会場では、催し物が始まったようだった。一段と騒がしくなったそこから、廊下に出てくる者は誰もいない。
新一に手を差し伸べてくれる者が誰も来ないことを、まざまざと思い知らされた。
背筋に冷たい汗が流れ、上質なシャツが濡れる。それを感じながら、新一は絶世の美女としか言い表せない装いをしている恋人から視線を逸らした。
「……っ」
一般的な男同士の交わりには、男役と女役がある。それが必然のように新一たちにも当てはまっていた。
年齢差、体格差、その他諸々の考慮や希望があって新一が抱かれる側だ。それはつまり、降谷は抱く側である。
そんな彼が、異国風の見目麗しい美女に扮していた。
「僕の質問に答えられないのか?」
「ち、ちがっ……! オレは園子に誘われて……」
「へぇ、園子さんに……?」
そうだ。特に何があってということではない。
潔白を証明するためにコクコクと首を縦に振れば、降谷の履いている黒いパンプスが目に入る。
ヒールはやや低めであっても、男性の物よりは、高さがある。いつも以上に背が高く感じるのは、そのせいらしい。
そして、鍛えられた逞しい体を隠すためか、彼はゆったりとした黒いドレスに身を包んでいた。かといって広がり過ぎないそれは、彼の体へ緩やかに寄り添う。
デコルテから上は、切り替えがされている。喉元から手首までひと続きのダークグレーの布地はやや薄く、僅かに彼の肌の色を覗かせていた。
その下にある褐色の肌を暴きたくなるような妖艶さが、そこにはあった。全体に細かく散りばめられている金色のラメによって、余計にそう思わされているのかもしれない。
変な気分になりそうだ、と新一は渇きを潤すように喉を鳴らす。すると同時に、降谷が小さくため息を吐いた。
左側に流した金髪のロングウィッグを、ベージュ色に染まった爪先で煩わしそうに払う。サラサラと零れ落ちる髪の毛の隙間から、左耳に装着されたイヤホンを新一は見つけた。
「とにかく、君はここを離れなさい」
「なんでだよ。仕事なんだろ? だったらオレも……」
「駄目だ。いい子だから言うことを聞きなさい」
子どもに言い聞かせるような諭し方は、新一には逆効果だ。
「なんで今日はそんなに邪魔者扱いすんだよ!」
カッとなって反論する新一を阻むように、降谷の唇が新一のそれを塞ぐ。
「んっ!?」
目を見開けば、甘く垂れた目尻にスラリと入ったアイラインが新一の注意を引いた。
相手は降谷だというのに、知らない人とキスをしているみたいだ。
いつものふわりとした柔らかいものとは違い、身長差を利用して上からプレスするように唇を重ね合わせてくる。
「ふぅ……ん、や……っ」
「ん……」
けれども、喉を鳴らす声は降谷のものだ。
考え事をしていたのが彼に伝わってしまったようで、ちゅうっと下唇に吸いつかれる。
「んんっ!」
気持ちよさのあまり、ビクンと肩を震わせれば、降谷が熱い息を吐いた。
「ハッ、まだまだなようだな。探偵君?」
「……っ」
感じてしまったことが悔しい。自分と違って余裕綽々な彼をジロリと睨んだ。
それを意に介すことなく、降谷はわざとらしく新一の唇をツン、と突く。
「ああ、紅がついたな」
「べに……、っ!?」
降谷の言っている意味を理解して、慌てて自分の唇を手のひらで塞いだ。
「それ、落とさないで会場戻ったら女と遊んでたなんて思われるよ」
降谷は揶揄うように唇を歪めた。そこに塗られていたオレンジ色の口紅が、ほとんど剥げてしまっている。
「そっちだって、口紅落ちてんじゃん!」
「知らないのか? 落とすよりも塗る方が早いのを」
「……クソッ!」
どう言い返したって負ける。キスをされた時点で、これは新一の負けだった。
しかし、それを認めたくない新一は降谷の腕の中から抜け出してトイレに急ぐ。幸いにもこの廊下は一直線で、トイレは突き当たりにあった。
「あーもう! マジで救いようがない……っ!」
流しの前にある鏡を見やる。そこに映っている自分の唇には、オレンジ色が濃く彩られていた。
あんな手に引っかかるなんて、思ってもいなかった。自分で自分に呆れてしまう。
自動センサーの水を流して、バシャバシャと唇を濡らす。そして荒々しく手の甲で拭っていく。
けれども、所詮は水だ。化粧落とし専用のものではないから、落ちが悪い。
「んぐっ……」
何回も何回も唇を擦り、ようやく落とすことができた。若干ヒリつくそこをハンカチで拭いて、急いでトイレから飛び出す。降谷が何をしようとしているのかを確かめなければ、と。
しかし、それは叶わなかった。
「どこへ行くんだ? 新一君」
「れ、零さん、なんで……?」
壁に背を預けた降谷が、飛び出してきた新一を待ち構えていた。にこやかな笑顔にはやはり怒りが込められている。いや、先程は気づかなかったが、これは怒りというより苛立ちに近い。
トイレから出てきて早々、そこへ引き返したくなってくる。
そんな新一の心情を読んだようで、ガシッと手首を強く掴まれて逃げなくさせられた。
「今日はコネクションを作るだけだったからな。君が頑張って口紅を落としている間に退席の挨拶をしてきたんだよ。ああ、園子さんにも君が抜けることをウェイターを通して伝えてあるから」
安心して、と降谷は新一の手を強引に引いてエレベーターに向かう。
何をどう安心しろというのか。むしろ不安しか感じない。
それを迂闊に口にしたら酷いことになりそうで、きゅっと唇を締めた。沈黙が続く中、ポーンと軽快な音が響く。エレベーターが到着したのだ。
新一の腰を抱いた美女はそのまま豪奢な箱に乗り込むと、綺麗に整えられた長い爪先で九階のボタンを押した。
「え? なんで九階?」
てっきり地下にある駐車場に向かうものだと思っていた。
「待機所として念のため取ってあったんだ。…………ほら、行くよ」
会場から近い階だったからか、最新式のおかげでスピードが速かったからなのか。新一たちを乗せたエレベーターは無情にもすぐに目的地に着いてしまう。そして、心の準備が整わないまま、新一は客室に押し込まれた。
「れ、れぇさん! ちょっと待って……!」
カーテンの隙間から僅かに差し込む光で、朧げにでもなんとか見える。暗闇に浮かぶ薄氷色の瞳はまるで、夜空に瞬く星のようだった。綺麗だと見惚れそうになるけども、今はそれどころではない。
ステイ、という意味を込めて手のひらを翳す。
「駄目。待たない」
「うわっ!?」
翳したのがいけなかった。その手を引っ張られ、ベッドへと押し倒されてしまう。
「いや待てってば! なんでそんなにイライラしてんだよ!」
暴れ回る新一の太ももを大きく跨いでいた降谷の動きが静まる。その様子に、新一も抵抗を止めた。
「零さん?」
「はー……。……こんな姿、君に見られたくなかったんだよ」
こんな姿とは、女装のことだろうか。
とても似合っているとはいえ、やはり降谷のプライドを刺激していたらしい。そんな時に恋人である新一が現れたのだ。どうしようもない苛立ちに襲われるのも頷ける。
逆の立場だったら、今見たことは忘れて欲しいと懇願していただろう。
ウィッグの前髪が目元にかかり、彼が今どんな顔をしているのか、新一には分からない。部屋の唯一の光源は薄い月明かりだけだから、尚更だ。
新一は、何か言わなければと口を開いた。
「いや、まぁでも、仕事なんだろ? だったら仕方ないというか……」
「……そう、仕事だったんだ。だから新一君、頑張った僕にご褒美をくれないか?」
「え……?」
不穏な言葉尻に、嫌な予感がした。自分の直感を信じた新一はふかふかなベッドから逃れようと身を起こす。
けれども降谷にトンと肩を押され、背中からベッドにダイブする。軽い力だったというのに、呆気なく制圧されてしまった。
「ッちょ、ご褒美って」
「……たまには、趣向を凝らしてみるのもアリだよな?」
疑問を投げかけているようで、言葉の圧は断定的だった。
「いや、ナシだろ!?」
「まぁまぁ、今はそうでも途中からアリになってくるかもしれないよ」
「んなわけ……」
「ああ、そうだ。せっかくだから明るくしようか」
降谷はバタバタと抵抗を示す新一の腕を軽い動作で避けると、体を乗り出してヘッドボードに設置されている照明ボタンを弄る。
明るめのオレンジ色のライトがパッと点き、新一は目を眇めた。それと同時に、降谷と視線がかち合う。
「あ……っ」
情欲の火を灯している瞳に見下ろされて、ずくんと腰の奥が疼いた。口では否定していても、体は期待しているようだ。それに動揺した新一は、ゆらりと視界を彷徨わせる。
すると、降谷がこちらを煽るように腰を揺らめかせた。ゴリ、ゴリと太ももに当たるものが何であるかなど、新一には分かりきっていた。
「ちょ、やめ……ッヒ!?」
律動を止めさせようとした新一の視界に入ったもの。それは、ふんわりとした黒いドレスを押し上げるように屹立した彼自身だった。
やけに生々しいシルエットは、背徳と羞恥と期待を一気に膨らませた。そしてぐちゃぐちゃに混ざり合って、新一の欲を昂らせていく。
それを降谷が喉の奥で笑った。
「もう一度言うよ、新一君。……僕にご褒美を、ちょうだい?」
ああ、やっぱり負けだ、と新一は悪い男でもあり悪い女でもある恋人の願いを受け入れた。