分厚そうな扉の向こう側からピ、ピ、ピ、と電子音がした。それが八回鳴るとロックがカチャリと解除された。室内側に取り付けてあるセンサーのランプが赤色から緑色に変わると、バーボンが食事を乗せたワゴンと一緒に室内へ入ってくる。ここ数日のお決まりだ。
「昼食を持ってきました」
風見は横になっていた身体を起こし、ベッドの縁に腰掛ける。コンクリートの床に裸の足を着けると独特の冷たさを感じた。地面からせり上がってくるような寒気がして、ゆっくりと黒いスラックス越しに太腿を撫で擦った。
「寒いですか? 丁度良かった、出来立てですよ」
いつものように怪しげな笑みを浮かべながらこちらまで来ると、銀色のディッシュカバーを取り払った。ふわりと湯気が立ち、ケチャップの酸味の香りと卵のまろやかな香りが鼻孔をくすぐった。ホカホカのオムライスだ。優しい黄色に鮮やかな赤のソースが食欲を掻き立てた。
「……いただきます」
バーボンに向けてではない。糧になってくれる食材に対しての言葉を発してから、ワゴンをテーブル代わりにして食べ始める。
毒は入っていない。殺すつもりなら、ここに監禁する必要はないはずだからだ。そこは唯一信じても良いと思える事柄だった。それより今はハンストするのではなく、きちんと食事をして頭を働かせることが大切だ。諦めてたまるか、と心を強く持ち直した。
ひんやりとした灰色のコンクリートに囲まれた五畳ほどの一室。季節は夏だというのに、暑さは一切感じられない。ベッドを寄せている壁には、上部に窓がある。外側に鉄格子が付けられていて、さんさんと射し込む陽光は、床にいくつもの菱形を作っていた。
ベッド以外の物は、何も置いていない。その窓とバーボンが入ってきた扉、三点ユニットに繋がる扉があるだけだった。
そんな質素な部屋に監禁されていた。仕事からの帰宅中、街灯の少ない薄暗い夜道を歩いていると、後ろから何者かに薬を嗅がされてしまったのだ。抵抗すらできなかった。瞬く間に気を失った風見が目が覚めた時には、既にこの部屋に監禁されていた。
風見を薬で眠らせて拉致した犯人。それがバーボンだった。本人からも自供を得ている。
隙を見せてはいけない。警戒しながらもくもくとスプーンを口に運ぶ作業を繰り返す。それを喉の奥で笑ったバーボンが、ギシリとベッドを軋ませて隣に座った。僅かな動きでも感じ取れるよう、彼がいる左側に意識を向けた。
「そんなに警戒しなくても……。言ったでしょう? 仲間に引き入れたいと。貴方が必要なんです」
外傷を与えるつもりはありませんよ、と軽薄に笑った。そう、この男は構成員として雇いたいとスカウトしてきたのだ。わざわざ監禁してまで。
最初は上司である降谷からの何らかの指示かと思った。しかしそうではない。『降谷零』という人物はこの男の中にはない。仕草や声色、思想にいたるまで何もかもが別人だった。降谷の名前を迂闊には口に出せない風見は何度か、以前取り決めた合言葉をそれとなく言ってみたが、さらりと躱されてしまった。
眉間に皺が寄っていく。早く食べ終わりたい、と詰め込むようにオムライスを掻き込んだ。バーボンは食器を下げるために、食事が終わるまでは退室しないのだ。チラリと出入り口を見ると、ランプは緑色のままだ。外側からしか鍵の開け閉めができないようになっている。何回か隙を伺おうとしたが、慢心というものがない。こちらが妙な真似をする前にすかさずやんわりと邪魔をしてくるのだ。
風見はワゴンに置かれている水差しからコップに冷水を注ぎ、一気に煽る。
「ふふ……、僕に早く出て行ってほしいんですか。可愛いですねぇ……」
顎を聳やかしたバーボンが、ゆっくりと手を伸ばしてきた。顔に向かってくるので、反射でビクリと身体が震える。するとその指先は一瞬彷徨った後、ベッドへと行きついた。白いシーツに褐色の手が沈み込む。
「……やはりクマ、できていますね」
食欲はなんとか出せるが、睡眠欲ばかりはどうにもコントロールできない。寝なければ身体が休まらないというのに、言うことを聞いてくれなかった。
「そんな貴方に、お香を持って来たんですよ」
そう言うと身を屈めて、ワゴンについている扉を開け、青磁色の陶器を取り出した。既に焚かれていたようで、ふわり、と甘いけれども上品な香りが僅かに漂ってくる。慌てて口と鼻を塞いで息を止めた。何か危険な成分が入っているのかもしれない。
バーボンはそれをベッドの頭の方の床に置くと、カチリと擦れる音を出しながら蓋を開けていく。その中には灰が敷き詰められていた。
「食事をした後に横になるのは本当は良くないんですけど……、あまり眠れていないみたいなので」
ゆっくりと立ち上がり、横になるよう風見を促した。それに従ってやる義理はない。清い空気を求めて、緑色のランプの方角へ走り出そうとした。だが腰を浮かせたところで、首の後ろを掴まれ、投げられるようにしてベッドに押し付けられてしまう。
「うっ!?」
「無駄ですよ。逃がしはしません」
うつ伏せになった風見の背中に、バーボンの膝が乗せられた。それはグッグッとリズムを刻むように肺を圧迫し、生理的に呼吸せざるを得なくなる。そのリズムに合わせて喉がヒュッヒュッと鳴った。
「貴方は頭の回転が良い。わかるでしょう? 少しは寝ておくべきだと」
「ぐ……!」
ゆっくりと重さがなくなっていき、息苦しさから解放された。咳き込むようにして荒々しい呼吸を繰り返すと、肺いっぱいに甘い香りが広がる。それは煙が立ち昇るように上昇し、脳へと伝わった。じんわりと浸食されていく。理性が殺されていくようだ。
ぼんやりとした思考では、一理ある、確かに寝なければ策を練るにも練れないな、と受け入れていた。心がそうなると、身体は緩んでいくばかりだ。
バーボンはくたりとベッドに身を預けた風見を愛おしげに見つめた。
「いい子だ……」
短い黒髪をゆったりと撫でられる。その優しい手つきは子どもの頃に戻ったみたいだ。温かさがじんわりと広がり、瞼がうつらうつらとしてくる。
「……良い夢を」
こめかみに唇を落とし、静かにワゴンを押しながら出て行った。そして聞き慣れた鍵の掛かる電子音もする、はずだ。しかし、かかった気配がない。
風見は落ちそうになる瞼を必死にこじ開けた。ロックの印である赤いランプが点いていない。代わりに緑色のランプが僅かに見えた。
「あ……」
あのバーボンが鍵を掛け忘れたことに唖然とする。そして、これは好機だ、と眠気に負けそうな身体に鞭を打った。
まずは警視庁に連絡をしなければいけない。そう思っても、スマホも金も持ち合わせていなかった。
「はぁ、はぁ……」
風見は街中をひたすら歩いていた。取り上げられていた靴を探す余裕はなかったので、硬いアスファルトを素足で踏み締める。太陽に照らされたそこはじりじりと足裏を焼いていった。真夏の昼に散歩させられる犬はこんなにも大変な思いをしているのか、と暗く笑った。
行き交う人々は、ふらふらとした風見を不審者のように遠巻きにして過ぎ去っていく。話しかけても、さっと避けられてしまっていた。仕方のないことだ、と諦めて徒歩で警視庁を目指す。
「まさか、こんな都会に監禁していた、とはな……」
監禁されていた部屋をそっと出ると、むわりとした太平洋側特有の湿気帯びた暑さが襲ってきた。
どうやら古いビルの一室に閉じ込められていたらしい。横に灰色の廊下が長く続いていた。ひびの入ったコンクリートに、割れた窓ガラス。風見に悟られないよう、監禁する部屋だけを綺麗に改装していたようだ。ご丁寧に気温や湿度も調整できる機能をつけて。
落ちているガラス片に気をつけながら外の景色を覗くと、ありふれた街並みが目下に広がっていた。久しぶりに感じる日常に心が震え、思わず息が詰まった。
ここで感動している場合ではない。すぐさま階段を探し、ビルからの脱出に成功した。そして今に至る。
「しかし、遠いな……」
街路樹の木陰に立ち止まって、額や頬に流れる汗をシャツで拭った。今年の夏は尋常ではないほど暑い。辿り着くまでに倒れてしまうのではないか、と途方に暮れていたその時だった。
「……あ、あの……っこれ……」
小柄な女性が親切にも僅かな小銭を貸してくれた。ありがたいことこの上ない。必ず返します、と連絡先を聞いてその女性とは別れた。もう少ししたら電話ボックスがあるはずだ。気力を振り絞ってそこまで歩いて行った。
キィッと電話ボックスの扉を押すと、噎せかえるような熱い空気が外へ飛び出していった。風見は顔を歪め、身体を滑り込ませるようにしてその中に入る。
「えっと……」
黄緑色の受話器を持ち上げ、貸してもらった小銭を投入する。そして記憶している公安部の番号をプッシュした。ダイヤル音が鳴った後、プツッと向こうと繋がる。電話を取った相手は馴染のある、自分の部下だった。
「……風見だが、至急伝えたいことがあるからメモを取ってくれ」
「はい? カザミ、さんですか? すみません、どなたでしょうか……?」
一瞬耳を疑った。何をふざけているのだろう、と。そんな悪ふざけに付き合っている暇はない。そう伝えるが、どうも様子がおかしい。本当に『風見裕也』という人物を知らないようだった。
「本気、で……言ってるのか……?」
「あの、本当に何をおっしゃってるのか……。掛け間違いでは?」
それでも食い下がって試しに降谷のことも聞いてみるが、答えは同じだ。しまいにはタチの悪い悪戯電話だと思われ、動揺のあまりガチャンと受話器を乱暴に置いて終話させてしまった。暑さのせいではない汗が流れ落ちる。受話器を握ったままの手がカタカタと震えた。
「っ、どういう、ことだ……?」
小銭はあと四枚残っている。定まらない指をなんとか駆使し、電話を掛けていく。
降谷が安室として出入りしていた喫茶ポアロや毛利探偵事務所、自分の一番仲の良い友人やかけがえのない大切な母親。
降谷のことを聞いても誰も知らない。自分のことを聞いても誰も知らない。
『ユウヤ? そんな子、うちにはいません。あの、悪戯なら警察呼びますよ!』
そう母親に言われ、前後不覚に陥った。どうやって電話を切ったのかさえ、覚えていない。存在自体を近しい人々から否定され、自身を保てなくなる。『風見裕也』を証明してくれる人は誰もいない。実の親でさえもだ。
「僕は……降谷さんは……確かに、いた、はずなのに……本当に、この記憶は正しいのか……? ……今ここにいる、僕は……誰だ……?」
その時、ふとバーボンの言葉を思い出す。自分を必要だと言ったあの言葉を。彼なら『僕』の存在を証明してくれるのでは、と電話ボックスからふらりと出ていった。
気づいたら、あのコンクリートに囲まれた灰色の部屋に戻っていた。ベッドに蹲って枕を何度も拳で叩く。このやり場のない想いをどう消化したら良いか、わからなかった。
こういう時に限って、用がないのに部屋に入り浸っているバーボンがいないのだ。その考えを読んだかのように、今思っていた人物は静かに入ってきた。
「ヒッ!?」
「どうしたんです?そんなに怯えて……っと」
ベッド脇まで近づいてきた彼の黒いベストに縋りついた。勢いがついていたというのに、彼は難なく受け止める。
「教えてくれ! 僕は一体誰なんだ? この記憶はただの妄想なのか……っ? 僕は……僕の名前って……」
バーボンはゆっくりとベッドに腰かけ、胸元で揺れるツンツンとした黒髪を優しく撫でる。母が子を宥めるような、慈愛を込めた眼差しで鈍色の瞳を見つめた。
「可哀想に、そんなに震えて……。……ユーヤ。それが貴方の名前ですよ」
「ゆ、や……?」
コトリ、と何かが心の中に落ち着いた。名前を与えられただけで、崩壊していた秩序が新しく構築されていく。
「ええ、僕だけの為に生きる存在。貴方は僕だけの物だ」
「バーボンだけの……」
「そうです。何も怖がることはありません。……さぁ、もうひと眠りしましょうか」
ゆっくりと身体をベッドに寝かせてくる。それに逆らう理由は、ない。ただただ安心感に包まれ、眠気が急に襲ってきた。
「おやすみなさい、愛しいユーヤ……」
するりと瞼をなぞると、暗示がかかったかのようにすぐさま規則正しい吐息が漏れてくる。それを感じ取ったバーボンは、静かに黒いタオルケットを肩に被せた。彼は身長が高いため、一度では全てを覆いきれない。下半分を摘み、それを足元まで広げる。
バサリ、と汚れのない綺麗な足は、黒い布地に覆われていく。
「くっ……」
その様を横目で見つめ、喉の奥で笑う。降谷零を通してずっと恋い焦がれていた人が、自分の手の中に、と。
そして愛おしい人を起こさないよう、床に置いていた陶器の蓋を閉め、影のような静けさを纏いながら鳥籠から出て行った。
籠の中に捕らえられた鳥は、もう外では生きてはいけない。存在意義を与えてくれる人の元へと自らの意志で飛び込み、堕ちていくのだ。