溺死


「のわァッ! べたべたしてくんな!」
「いややわぁ。もう、小僧のいけず」

びゅんと筋肉隆々の英霊が走り抜けていき、すれ違った私の髪の毛が風で所々はねていた。心底愉快そうに妖艶な雰囲気を漂わせた鬼は私に向かって笑いかけた。

「なぁ? ほんと、あの子は照れ屋でかなわんわぁ」
「そうだね」

どう答えるのが正解なのか分からないけれど、とりあえず頷いておいた。くすくす笑いながら酒呑は近くのスペースに腰を下ろすと、こてんと首を傾げた。

「ちょうどええわ。あんたはんが来る頃や思っってな。ほら、何気ない話でもしよや」
「私と話すことなんてあるの?」
「あら、うちも今はただの女の子なんやけど」
「そう……かな?」
「がぁるずとぉくやなぁ。ふふ」

酒呑は簡単に私の腕を引き寄せてしまった。ぽすんと私を横に座らせると、酒呑と目があった。彼女の瞳は色々な恐ろしい物が渦巻いているように見えて、呑み込まれてしまいそうになる。

「ずうっと目が合っとるなぁ……。うちのこと、そんなに好きなん」

ハッと我に帰った私を見透かすように、酒呑は私の髪を撫でつけた。私をどうしようとしているのか、彼女が何を考えているのかさっぱり理解できない。英霊と生身の人間である私がそもそも理解し合えるはずもないのだけれど。ましてや酒呑と相互理解を果たすなんて、以ての外だ。

「あんたのこと、ときどき、むちゃくちゃにしたくなるんよ。不思議やわぁ」
「酒呑ならやりかねないよね」
「まぁ、よく言うわ」

私はいつもこの鬼に振り回されているような気がする。彼女に近づくことは危険だと脳では分かっているのに、体は言うことを聞いてくれない。どくどくと高鳴り、彼女の近くにいると精神がじわりと侵食されていくように思えた。

「用事がないなら、もう戻っていいかな」
「あら。なんで?」
「ほら、色々やらなきゃいけないことがあるからさ」
「ふぅん。マスターは忙しないんやね。いっつも誰か知らん者のために動くなんて、うちにはできんわ」
「酒呑は自由にしてくれるだけでいいよ」
「あは! よく言うわ、うちに戦って殺せ言うんはあんたはんやのに」

立ち上がり、酒呑の声を受けながら歩き出す。彼女がどんな表情をしているのか分からない。やはり彼女とは相容れないのだ。考え方も、全て違うのだから。

「うそ」
「……」
「やから、可愛い顔をうちに見せて? [#da=1#]」

英霊の俊敏さは言うまでもなく人間より優っている。あっという間に私に近づいたらしい酒呑の細い腕が腹部の辺りに回り、私は酒呑に抱きつかれていた。いや、捕らえられてしまった、の間違いかもしれない。

「やめて」
「……」
「こういうこと、やめてほしいんだけど」
「あーあ、こわぁい鬼に捕まったなぁ。あんたはうちが離さん限り逃げられんよ」

まるで子供をからかうような声で私に言った。酒呑は私を捕らえたままの腕を離そうとしない。

「小僧やないけど、あんたも大概、素直やないなぁ」
「もう酒呑のことでおかしくなりたくないよ」

振り向かずに呟くと、ぎりりと私の腹部に回された腕の力は強くなった。酒呑は私に何を思っているのだろうか。何の力もない人間を壊そうとしているのかもしれない。どうしようもない不安が私を襲ってくる。もうとっくに私は逃げられないというのに。

「なぁ。鬼風情に一生かなわん恋なんてして、楽しいん?」