06
何日も何日も同じようで、だが毎日姿を変える夕陽を描き続けた。

「ねぇ」

ドアが開いた。
聞き覚えのない声が、耳に届く。

「みょうじ…なまえちゃん…で、あってる?」
「…そうだよ」

筆を止め、振り返れば知らない人がそこに立っていた。

「いつも、そこで描いてるよね。外から見えた」
「…そう」
「靖友が、いつも君を見てたから」


彼の口から、靖友の名前が出たのになぜか驚かなかった。
なんとなく、わかっていた。


「いつも…靖友と自転車で走ってる人…かな」
「うん。よくわかったね」
「なんとなく…そんな気がしたんだ」


筆を水桶に指してスケッチブックを机に置いた。


「私に、何か用?」
「靖友から色々話を聞いてね、興味があって」
「…そう」

描きかけの夕陽に視線を落とした。

「…まだ、靖友って呼ぶんだね」
「つい、ね…」
「好き、なのか?まだ…」

優しい瞳が私を見ていた。
それに微笑んで、また目を伏せた。

「好きだよ」
「そう、か…。それを靖友に伝える気はないのか?」
「伝えてなんになるの?」

私の言葉に彼は悲しそうな顔をした。

「どうして、そんなこと言うの?好きならまたやり直せるんじゃない?」
「…私の気持ちはもう彼に否定されてる。好きじゃなくなったとか別れるって言われたなら…やり直せるかもしれないって思えたのにね」

もう1度筆を持って笑う。

「野球をできなくなったからって…好きじゃなくなるわけないのに」

筆からぽたりと落ちた水滴が絵に滲んで。

「もしかして…わかってたの?靖友が君の前から消えた理由」
「わかってたよ。だって、恋人だもん。わからないはずないでしょ?」

水滴の滲んだ絵をスケッチブックから破いて机の上に置く。

「私ね、靖友の絵を描くのが好きだった。笑った顔、拗ねた顔、怒った顔…ふとした瞬間の顔とか…日常のなかにいる靖友を描くのが好きだったの」
「日常の中…?」
「私が好きになった靖友は教室で、私の隣の席に座る靖友だった。野球をしてる靖友を私は知らなかったの」

鞄の中から出した古いスケッチブックを撫でた。

「野球をしてる靖友は確かにカッコよかったけど、絵に描いたことは1度しかない」
「え?」
「その時描いた絵も…完成してない」

古いスケッチブックを開いて、描きかけのそのページを開く。

「描けなかったの…」
「どうして?」
「私は私の好きな靖友を描きたいの。野球をしてる靖友も好きだけど…やっぱり普段の靖友が好きだったから」

私は自分が好きになった靖友を描き続けたかった。
野球をしている靖友も好きだったけど、やっぱり違かった。

「…野球が出来なくなっても、私は彼を好きでいた。野球を失った靖友を隣で支えていたかった。けど彼は…そんな私の気持ちにすら気づかないで否定したんだよ。ごめんって3文字で…1年以上付き合ってたのに私の気持ちはわかってくれてなかった。それが、悲しくて…」
「みょうじさんは本当に靖友が好きなんだね」
「何度も、忘れようとした。でも、彼は私の中から消えてくれないの」

スケッチブックの中で笑う靖友を見て微笑む。

「捨てようと、思ったんだ。このスケッチブックがなければ靖友を忘れられると思ったの。けど…どうしても捨てられなかった」

わかってた。
自分の本当の気持ちを…

「忘れたく、なかったの。きっとね」
「それが…本音?」
「うん」





みょうじさんは酷く優しい顔でスケッチブックを見ていた。

「それ…借りてもいい?」
「どうぞ?…なんなら、返してくれなくてもいいよ」

悲しそうに微笑んだ彼女に俺は首を横に振る。

「ちゃんと返すよ。大切なものなんでしょ?」
「…そう、ね。大切なもの…かな」

渡されたスケッチブックの中には俺が知るよりも優しい顔をした靖友が見えた。

「どうしてこんなにたくさん絵を描こうと思ったの?その…夕陽も」
「私は…思い出にしたくないの」
「え?」

彼女の膝の上に乗せられたスケッチブックには何枚もの夕陽が描かれていた。

「思い出ってさ…どんなに大切なものでもいつか思い出せなくなるでしょ?全てのものは過去になって思い出になる。けどこうやって形に残していればいつでもそれを見たら、それを今として思い出せるから…消えない」
「不思議なコト考えるんだね」
「思い出したくても思い出せないものがあるから。思い出だったはずなのにね。だから、全てを残したいと思った」

スケッチブックを閉じて彼女は机から降りる。

「今日はもう描く気にならないから…帰るね」
「送ろうか?」
「平気だよ。」

手の中にあるスケッチブックに視線を落とす。

「返すのはいつでも構わないよ。けど、面白いものじゃないと思う。靖友しかいないから」
「いいよ。俺が知らない靖友にも興味ある」
「そう。じゃあ、またね」

片づけを終えたみょうじさんは鞄を持って俺の横を通り過ぎる。

「あ、ねぇ…」
「なに?」
「何で俺に話してくれたの?」

俺の言葉にみょうじさんは微笑んだ。

「靖友の友達なんでしょ?だからかな」

離れていく背中を見送ってスケッチブックを開く。
みょうじさんはきっとわかってる。
俺がこれを靖友に見せようとしてること…
それでも俺に渡したってことは…

「戻りたいんだね、みょうじさんも」

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