08
新開に言って部活を抜けた。
放課後の教室に向かって、ドアの前に立つ。
ドアの窓から見えるのは窓際の机に座って、珍しく絵具で絵を描いているみょうじチャンの姿だった。


あの日とは違う。
夕陽が灰色の髪に吸い込まれているように見えた。
俺がドアを開ければ、彼女の筆が止まる。

「みょうじ…チャン」

振り返った彼女から目が離せなくて、酷く心臓が高鳴った。
あの時と変わらない、心音だ。

「荒北君…」

靖友とは、呼んでくれなかった。

「…何、描いてるノォ?」

視線をそらして俯いた彼女に近づいて膝の上にあるスケッチブックを見れば夕陽の中に照らされている数台のロードバイクが描かれていた。
それに乗っている人の顔は描かれていない。

「どうして…顔…描かないノォ?」
「私には…描けない。今も昔も…だってどんな顔をしているかわからないから」

彼女は筆を水桶に入れて絵を見つめた。

「いや、違うかな。あの時はわかってたよ。どんな風に笑って、野球をしてるか。けどね、なんでかな…」
「みょうじチャン…」
「野球をしてるときの靖友より、普段の靖友を描いていたかった」

顔のないその絵を指先で撫でて、灰色の髪が目元を隠した。


「ねぇ、みょうじチャン…」
「なぁに?」
「これ、返すヨ」

差し出したスケッチブックを受け取って、みょうじチャンは困ったように笑った。

「何で卒業式の日まで俺を描いてたンだヨ」
「…戻って来るかも、しれないから」
「俺を…忘れればよかったのに」

できるわけ、ないでしょと弱々しい声が返ってきた。

「みょうじチャンの気持ち、信じてあげられなくて…ゴメン」
「また、謝るの?」

彼女の手がスケッチブックの端を握りしめた。

「ズルい人…ごめんって、何…?別れの言葉なんかじゃない…」
「そうダネ」
「別れようって言ってくれればよかったのに」

俯く横顔が酷く悲しそうだった。

「言えるわけ、ないじゃナァイ…」
「どうして?」
「好きだからダヨ、みょうじ」

数年ぶりに触れた彼女の手は酷く温かい。


「本当に、ズルいよね…靖友は」

いつも筆を持っている細い指が俺の指に絡まる。

「私の気持ちを否定して、なのに忘れさせてもくれなくて…」
「忘れてほしくなんかなかったんダヨ。好きな人に…忘れられたいなんて思わないダロ」
「本当に…ズルいよ…」


腕を引いて抱きしめた体は小さく震えていた。

「ゴメン、苦しませて…好き、ダヨ」
「私だって、好きだよ…嫌いになれるわけ…ないでしょ…」

背中に回された腕が強く制服を握りしめた。

「遅いんだよ…馬鹿」
「…ン、そうだネ」
「…おかえり」

そう言って笑った彼女の頭を乱暴に撫でる。

「ただいま」





彼女と再び付き合いだして数日がたった。

「ね、みょうじチャン」
「なぁに?」

休み時間、隣に座る彼女に声をかける。

「マァタ、俺?」
「さっき、ウトウトしてたでしょ?だから描いたの」
「ゲッ見てたノォ?」

彼女はクスクスと笑う。

「もう、バッチリとね」

あの頃と同じような日々がまた続いていた。

「そういえば、新開君に寝てたら起こせって言われてたっけ」
「起こさなくていい」
「え、私が新開君に怒られちゃうんだけど」

付き合い始めてから、みょうじチャンは新開とも親しくなったらしい。
ムカつくけど、世話になったからナァ…

「寝てたって言わなければへーき」
「それもそうだね」

彼女はまたクスクス笑った。

「あ、そうだ…放課後教室で絵を描いてるのはいいケドォ、気ィつけろヨ?」
「それ、何回目?へーきだよ。靖友が家まで送ってくれるし」
「そーいうンじゃねェンだけど。まァ、いいや」

隣に、彼女がいるだけで、それでいい。
「みょうじ」
「どうしたの、靖友?」
「…何でもねェよ」

変なの、と彼女は笑って。
彼女の髪を撫でて俺も笑う。

「灰色も悪くないんじゃナァイ?」
「可愛いでしょ?この色!!気に入ってるんだから」

ピアスも髪を染めたのも気持ちを切り替える為だったと話していた。
けど、そう思っていたのも初めだけで今は凄く気に入っているらしい。

「それにしても、ピアス多すぎ」
「うるさーい。文句言わないでよ。靖友のせいでしょー?」
「…悪かったヨ」

みょうじは楽しそうに笑った。

「冗談だよ」
「冗談に聞こえネェ…」

俺の顔を見てみょうじがシャーペンを持つ。

「ナァニ?また描くノォ?」
「いいでしょ、別に。好きなんだから」
「俺も」

みょうじは知ってると言ってシャーペンを動かしていた。

授業が始まって、窓際に置いたスケッチブックが風でめくれて。


真っ赤な夕日の中、ロードバイクに乗って笑う靖友と友人たちが描かれていた。

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