背中


『階段』続編


―――……


彼は俺の憧れだった。
初めて彼を見たのは入るシニアを選んでいるときだったと思う。
自分と同じ左投げで、自分とそう歳の変わらない彼はマウンドの誰も汚していない土を踏みしめ、対戦相手を圧倒していた。
その姿に、俺は今まで感じたことのないような胸の高鳴りを感じたのだった。

「ねぇっ!!」

試合が終わってから、見事に完投してみせた彼に駆け寄った。
帽子を取り、汗を拭っていた彼は俺を見つめ首を傾げる。

「名前、教えて!!」

敬語なんて使っていられないほど、俺は興奮していた。
目の前で見せられた彼の投球に。
目を丸くした彼は少し間を置いてから微笑んだ。

「みょうじなまえ。君は?」

優しい声だった。
優しい微笑みだった。

「鳴!!成宮鳴!!」
「野球、やってるの?」
「やってる。投手で、サウスポー!!」

俺と同じだね、と彼は言った。
そして、このチームに入るの?と言葉を続けた。

「見学だけのつもりだったけど、入る。俺、一緒に野球したい!!」

同じポジションだとか、1つの席を争わないといけないだとかそんなことは頭の中にはもうなかった。
ただ、思ったのだ。
俺はこの人と野球がしたいと。

そんな出会いから数ヶ月。
俺はそのシニアチームに入った。
中学2年生になった彼の背中には既に1という数字があって。
他の新人達からすれば酷く近寄りがたい存在であった。
凛とした背中や迷いのない投球はより一層彼の存在を遠くさせていた。
俺もそう感じている1人であった。
あの時は興奮のままに声をかけたが、冷静になってみればどう声をかければいのかわからなかった。
初めて、手が届く距離の人に憧れという感情を抱いたからだ。

初日の軽めの練習を終え、挨拶をしたいという感情を抱きながら片づけをしていればとんとんと肩を叩かれた。
控えめなそれに俺が不思議に思いながら振り返ればここにあるはずのない彼の姿が目の前にあった。
ビックリして声を出しそうになった俺の口を彼の手が塞ぎ、反対の手の人差し指が彼の唇の前で立てられる。
静かに、という意味なのだろう。
コクリ、と頷けば彼はついて来てと囁き歩き出した。
片づけの途中だった荷物を無造作に鞄に詰め込み急いで彼を追いかけた。

「ごめんね、急に呼んじゃって」

彼が足を止めたのはグラウンドの端の投手がいつもキャッチボールをしている場所だった。

「グローブはある?」
「あ、ある。あ、いや…あります!!」
「もしかして敬語、苦手?ねぇ俺とキャッチボール、しよっか」

彼はそう言って初めて会った日と変わらない優しい笑顔を見せた。

「え、けど俺…1年だし」
「気にしなくていいよ。俺が勝手に付き合わせてるんだし」

こんな機会、もうないかもしれないしと俺はグローブを手にはめた。
彼はそれを満足気な顔で見つめて、少しだけ山なりなボールを俺に投げた。

「これから、よろしくな。鳴」
「え?」
「サウスポーの投手、俺以外にいないし。後輩って何か新鮮でさ」

少し照れくさそうに笑いながら彼は言った。
確かに、サウスポーの投手は珍しい。
それが生まれつきのものであれば尚更だ。
この時期から、左投げに転向する者もいないわけじゃないけど。

「右と左じゃ球種も狙うとこも全然違うだろ?こう、なんていうのかな。話が合う奴いなくってさ」
「そう、なん…ですか」
「敬語、使いにくそうだな」

年齢による上下関係というものは昔からあまり得意ではなかった。
強い奴が上、弱い奴が下。
そんな実力的な上下関係の方が俺はよっぽど納得できた。

「俺には、敬語はなくてもいいよ。たかだか1年早く生まれただけだから。けど、他の人には気を付けて」
「…うん」
「まぁ、けど。そんなの全部黙らせるくらい強くなる自信があるなら気にしなくていいかもね」

彼はそう言ってクスクスと笑う。

「なまえ、さんは…?上下関係とか、気にしてるの?」
「グラウンドの外ではね。グラウンドの中じゃ、そんなの関係ないと思ってるよ。強い奴が試合に出て弱い奴が出られない。当たり前のことだろ?」

彼の考え方は、俺の考え方と酷く似ていた。
それがより一層俺を惹きつけた。

「じゃあさ!!俺が、なまえさんより強くなったら。その番号、俺にくれる?」
「え?」

彼の背負っていた1という数字。
その数字が初めて、とてつもなく価値のあるものに見えた。
今までただ1番になりたいという単純な感情だけで求めていた。
だがその数字に意味があると、初めて身を持って実感した。

「いいよ」

彼はすんなりとそう答えた。
けど、優しい微笑みは消え真剣な眼差しが俺を射抜いていた。

「奪えるものならな」

それは絶対的な自信だった。
入ったばかりの俺の挑発じみた宣戦布告を彼は真っ向から受け入れた。

優しいだけの男ではない。
いや、そんなことはあの試合を目にしてわかっていたはずだ。

「絶対奪うからな!!」

俺の言葉に彼は余裕そうに笑った。





そんな彼との出会いを思い出したのは寮の部屋の片づけをしていたときに1枚の写真を見つけたからだ。
その写真は初めて俺が試合に出た日に撮ったものだった。
先発は勿論、エースのなまえさん。
その後、7回から俺が登板した。

マウンドに駆け寄った俺を見て、なまえさんは嬉しそうに笑っていたのを憶えている。

「初舞台なんだから、勝ってこいよ?」

俺のグローブに収められた彼の投げていたボールを見つめてから頷いた。

「俺が負けるわけないじゃん」
「生意気。けど…ここでそれが言えるなら、上出来だ。お前なら大丈夫。頑張れよ」

元々点差があった。
負けない試合だった。
けど、ただ抑えるだけじゃ面白くなかった。
だから、彼の残した点差を更に広げて俺は試合終了の時までマウンドに立ち続けたのだった。

「おめでとう、鳴」
「次は俺が先発だからね?」
「そりゃ、2年早いな」

彼はそんなことを言って笑った。
その時、監督だったか誰かの保護者だったか。
この写真を撮ってくれたのだ。
写真の中、笑う彼を見て久々に声が聞きたくなった。
あの笑顔が見たくなった。
けど、それはもう出来ないことだった。

卒業してしまった彼は俺達に連絡先の1つも残してはいかなかったからだ。

卒業式の日、式典が終わってから俺は彼を探し回った。
教室も校舎も全部探し回ったのに彼は見つからなくて。
最後ぐらい会っていけよ、と悪態を吐きながら泣きそうになるのをぐっと堪えていた。
もう諦めるか、と寮に戻ろうとしてやっと探し求めた姿を見つけた。

卒業の際に手渡される花束を左手に持ち、だらりと肩から腕をぶら下げた彼はローファーのままマウンドに登っていた。
ずっと憧れ、追いかけ、追い抜こうとしてきたその背中を見たのは酷く久々であった。

「なまえさん!!」
「ん?あぁ、鳴か」

彼はふっと口元を緩めた。
彼の優しい微笑みは初めてであったあの日から少しも変わることはなかった。
変わったのは彼の背中に彼に一番似合う数字がなくなったことだけだ。

「最後に会えるかなと、思って来てみたんだけど。やっぱり会えたね」
「めっちゃ探し回ったんだけど」
「あれ、本当に?一番最初にここに来ると思ってたのに」

部活をやめてから1度としてここに訪れなかったくせに何を言っているんだ。
俺は心の中でそう吐き捨てた。

「甲子園、残念だったね」
「いつの話してんのさ。もう新しいチームで前に進んでるよ」
「うん、知ってる」

悔し涙を流した俺達の前にも彼は現れなかった。
ドラフトでプロ入りが決まった雅さんの前にも彼は現れなかった。
野球部をやめたあの日から、彼は…1度として俺達の前に彼の意志で現れたことなどなかった。

「ぜーんぶ、知ってる。鳴と樹のバッテリーが少しずつだけど噛み合ってきたことも。個々の意識が強すぎたチームがちゃんとチームになり始めたことも。お前がチームを引っ張っていかなければいけないっていう重圧に苦しみながらもここで戦い続けてることも全部俺は知ってるよ」

けど、ただ知ってるだけ。
なまえさんはそう言ってちょっとだけ悲しそうに眉を下げた。
なんだよそれ。
泣きたいのはこっちなのに。

「お前は初めて出会ったあの時から、変わらず可愛い俺の後輩なんだよ。助けてやりたかったし、力になってやりたかった」
「っだったら!!」
「けど、それは今じゃない」

今じゃない?
じゃあ、いつ?

「今の俺にお前を助けてやることはできない。けど、いつか…本当に鳴に必要になった時俺がお前を助けるよ」

何だよそれって、思った。
けど何も言えなかった。
目の前は歪んで、嗚咽の零れる喉から言葉は出てこなかったから。

絶対泣かないと思っていたのに。
彼がいなくなるのだと改めて感じて、我慢なんて出来なかった。

「じゃあな」

彼はゆっくりとマウンドから降りて俺の横を通り過ぎようとした。
そんな彼の右腕を掴んで、首を横に振る。

言いたいことは何一つ、言えてない。
文句も感謝も何一つ。
泣くなら全部言ってから泣けよ、って自分を罵倒したところで涙は止まらない。

「なまえっ」

何とか紡ぎだした彼の名前。
彼は何も言わずにそっと俺の頭を撫でた。
掴んだままの右腕。
俺の頭を撫でたのが上がらなくなった左腕だと気づくまでそう時間は要さなかった。

「え…」
「…元気でな、鳴。頑張れよ」

俺の手を解き彼は歩き出した。
花束を持った左腕は変わらず、力なく垂れ下がっている。
けど、さっき俺を撫でたのは間違いなく彼の左手であった。

「なまえ!!」

待って。
お願いだから。
言いたいこと、何も言えてないんだ。
振り返ってくれない彼を追いかけたいのに、自分の足は言う事を聞かずマウンドに縫い付けられてしまったようだった。

「待って、なまえ…」

初めて、マウンドに上がったあの日の様だった。
遠くなっていく彼の背中。
試合が終われば笑って俺を迎えてくれたあの時みたいで。
けど、きっともう彼は俺を迎えてなんてくれなくて。
俺は1人でここで戦わなくてはいけなくて。

「お前なら大丈夫。頑張れよ」

振り返らないまま、彼は右手をひらひらと振った。
その言葉はあの時言われたものと同じだった。

「っ俺!!負けないから!!だからっ!!だから…」

だから、お願い。
俺を1人にしないで。
頼らないから、甘えないから、我儘なんて言わないから。
だから、せめて目に見えるところにいて。
その笑顔を見せて。
それだけで俺は迷わずに進めるから。
揺るがずに戦えるから。

「ねぇ、なんで…」

彼の背中が見えなくなって俺はマウンドに膝をつく。
止められない涙がマウンドの、彼のローファーの足跡に落ちた。

「行かないでよ、なまえ…」





「あー…キツイな」

後ろから聞こえる嗚咽に眉を寄せ、自分の目を右手で覆う。

シニアの試合の時、目を輝かせ俺に声をかけてきたあの日から鳴は俺にとって誰よりも可愛い後輩であった。
そして、誰よりも負けたくないと思える相手であった。

シニアで俺が卒業する時に見た涙。
高1で、彼の暴投で負けた時に見た涙。
俺が事故で怪我をした時に見た涙。
俺が退部を決意した時に見た涙。

今まで幾度となく見てきた彼の涙の中で、今日見た涙が一番俺の胸を締め付けた。

ごめんな、とは言わない。
謝ってはいけない。
俺は俺の選んだ道を恥じてはいけないから。
俺が俺の選んだ道を疑ってはいけないから。
この道が最善だと俺は信じているから。

「今日の涙は…いや、今まで俺のために流した涙は分きっといつか…俺が笑顔に変えてやるから」

だから、待ってて鳴。

「辛いかもしれない。苦しいかもしれない。もう足を止めてしまおうと思うかもしれない。けど、どうか立ち止まらないで。前だけを見て、孤独だとしても決して足を止めないで」

いつか必ず、追いついてみせるから。
だから頑張れ。

「…直接、言ってやりゃいいのに」

聞こえた声。
目を覆った手を下せば、ずっと組んできた相棒が俺と同じように花を片手に立っていた。

「言えるわけないだろ。あんなに泣かれたら、慰めたくなる」
「…昔から、鳴には甘ぇな。なまえ」
「可愛い後輩なんだ。ずっと、俺を追いかけてきてくれたんだ。可愛くて仕方ないよ」

呆れた彼の顔に俺は笑った。

「鳴のこと、よろしく頼むわ」
「いらねぇだろ、俺なんて。もう、アイツがチームを引っ張っていくんだ」
「そう、だな」

そうだ、彼が彼の足で彼の道を歩いて行くのか。
心配することなんて、一つもない。
彼なら決して間違わない。
なんて言っても、俺の自慢の後輩なのだから。

「プロ、頑張れよ」
「あぁ。…お前もな」
「ん、じゃあ」

彼の横を通り過ぎて、小さく息を吐いた。

「雅、」
「んだよ」
「ありがとな。お前と組めてよかった」

俺の言葉に彼は馬鹿野郎、と吐き捨てた。

「そりゃこっちのセリフだ」
「…相変わらず男前だなー、お前」





あの頃のことを思い出すことが最近増えてきたのは、きっと彼のせい。
俺に向けられたあの背中が今、俺の前に向けられているから。

今日のリハビリを終えて、椅子に腰かける俺の背を向けるなまえさんに俺は右手を伸ばした。
距離的に届かないことはわかってた。
伸ばした手は彼の背に届くことはなく、俺の手に彼の背中は隠れてしまった。
昔はあんなに大きく感じていた背中は、こんなにも小さかっただろうか。
そんなことを思っていれば彼がこちらを振り返って目を瞬かせた。

「鳴?どうした?」

伸ばされた右手を見て彼は首を傾げる。

「…別に、」

彼の選んだ道を俺がとやかく言う事は間違っている。
今こうやって俺を支えてくれているのだから、文句は言うべきじゃない。
俺にとって本当につらい時に、彼が傍にいてくれているのだから我儘は言うべきじゃない。
けど、それでも。
俺はやっぱり彼と野球をしたかった。
その感情はどうやったって消えてくれはしなかった。

俺の前の椅子に腰かけて、彼は徐に俺の右手に彼の左手を重ねた。

「え、」
「やっぱり、俺よりも大きいな」

俺より一回り小さな手が重なり、温もりをこちらに伝えてくる。
いや、待って。
そんなことよりも、大事なことがある。

「左腕…」
「え?あぁ、肩より上には上がらないままだよ」

彼はそう言って困ったように笑った。

「それでも、ここまでは上がるようになったから…まぁ、進歩なのかなって思ってる」
「…俺の頭、撫でれる?」

俺の言葉に彼は目を瞬かせて、そっと触れていた手を離した。
そして、その手は俺の頭に乗せられくしゃくしゃと髪をかき混ぜた。

「俺さ、」
「うん?」
「なまえさんに頭撫でられるの好きだったんだ」

それは初耳、と彼は少し驚いていた。

「マウンドの上でバッターを圧倒させる左手が、何度もピンチを救った左手が、何度も勝利を掴んだその左手が…俺を撫でるのが、好きだった」

ちょっとした優越感を感じてた。
なまえさんは人の頭を撫でるのが好きだったけど、左手で撫でるのは俺だけだったから。
特別なのかなって勝手に思ってた。

「神様がくれた大事な大事なこの手が、俺のために使われてるのが好きだった」
「…そっか」
「何で、与えたのに奪ったんだろうね。何で、野球の神様に愛されてたなまえさんから野球を奪ったんだろうね。何で…何で、なまえが…あんな事故に遭わなきゃいけなかったんだろうね」

ずっと、思っていた。
事故に遭ったと知らされたあの日から、俺は何度もそう問いかけた。
姿も見えない俺から大切な彼を奪った相手に、何度も何度もそう問いかけたのに。
返事は一度として返って来ることはなかった。

「…なんでだろうな」
「俺ね。なまえさんとプロで活躍したかったんだ。そんでね、侍ジャパンに選ばれて。2人で1つのマウンドを繋ぎたかった。なまえさんが踏みしめたマウンドに今度は俺が上がって、2人で完全試合すんの」

それで、次の日のテレビのニュースで俺となまえさんがたくさん映って。
新聞の一面も、勝って喜び合う2人だったらいいなって。
そんな夢、何度も描いてた。

「それで、メジャーの人を驚かせて。2人でメジャーに行って。最初は敵でもいいかな。いつかまた、2人でチームメイトになって…エース争いすんの」
「…うん」
「そんな夢、俺…ずっと描いてた。あの時、シニアの見学でなまえに魅了されたあの時から…俺は、ずっと…」

俺の未来にはずっと、なまえさんがいたのに。
隣に、いや一歩前かもしれない。
俺はなまえさんの凛とした背中が好きだったから。
その背中を追いかけるのが好きで、その背中に追いつくのが夢で。
たまに振り返って足を止めてくれる優しさが好きで。
俺の未来では彼は手を伸ばせば届く距離に必ずいた。
いた、はずなのに…

「…どうしてだよ、どうして…届かないんだよっ」

こんなこと言ったって意味はない。
なまえさんは好きで事故に遭ったわけじゃないし、好きで野球をやめたわけじゃない。
それでも、それでもさ。
俺は成人したのにまだまだ餓鬼だから。
雅さんにももっと大人らしくなれって怒られちゃうくらいの、まだ子供だから。
だから、納得できない。

なまえさんのいない未来なんて。
なまえさんに手の届かない距離なんて。
なまえさんの姿さえ見えない、そんな世界なんて。

俺は認めたくない。
認められない。

俺の世界には、みょうじなまえというエースが必要なのだから。

頭を撫でていた手が離れ、そっと俺の右手を握りしめた。

「届いてるじゃん」

彼はそう言って、優しく俺の手を包み込んだ。

「え、」
「鳴の手、今ちゃんと俺に届いてるじゃん。これじゃ、ダメなの?」
「だって、いつ…いつ、いなくなるかわからないじゃん。いつまたあの時みたいに俺に背中向けるかわからないじゃん」

あんなに大好きだったなまえさんの凛とした背中。
今は、向けられるだけであの頃を思い出した。
待ってと言ったのに行かないでと言ったのに俺を置いて行った背中。
大好きなのに、大嫌いな彼の背中。
この手が届かないことが怖くて、伸ばすことも怖くなった。

「…じゃあ、どうする?」
「え?」

どうするって、何が。
視線を彼に向ければ真っ直ぐと俺を射抜く瞳。

「鳴はどうしたい?俺はもうどうやったって野球はできない。鳴が思い描いた未来は叶えられない。誰を恨んだって、どんなに嘆いたって…失った左腕は返っては来ない。じゃあ、どうする?」

俺は俺が正しいと思うことをして、鳴のところに戻ってきたよ。
けど、それでもダメならどうすればいい?

彼はそう言って首を傾げた。

「何を、どうすれば鳴は不安じゃなくなる?あの頃みたいに傍にいることが当たり前だと思える?その届かないって思う手が俺に届くようになる?」

そんなの、俺が知りたいよ。
そう思えるなら俺だって思いたい。
けど、トラウマってものが俺にだって生まれる。
なまえさんが離れて行くのは、なまえさんが居ない世界は俺にとって何よりもトラウマになってるんだから。

「わか、んないよ。そんなの…」
「そっか。じゃあ、仕方ないね」

なまえさんはそう言って俺の手を離した。

「え、やっ、ちょっと待ってっ!!」

温もりが消えた手に、あの頃と同じ恐怖を抱いて離れて行く彼の手を掴んだ。

「待って、考えるから!!なんとかするから…だから、だから…お願い、待って」
「…ほら、届いたろ?」

彼はぎゅっと俺の手を握りしめた。

「今、俺の手を掴んだのは鳴だよ。鳴の伸ばした手が俺に届いたから、掴めたんだろ?」

もう怖くないな、と彼は微笑んだ。
その微笑みに目の奥が熱くなる。
あぁ、なんか泣きそう。

「手を伸ばせば届く距離に俺がいるってわかった?」
「…うん」
「怖くなったら、いつでも手を伸ばせばいい。何度だって、掴んでやるから。掴まれてやるから」

届かなくなんかないって、少しずつでも分かってくれればそれでいいよ。
なまえさんはそう言って、俺の手をゆっくりと離した。

さっきみたいに、温もりが消える恐怖はなかった。
じんわりと彼の温度が俺の掌に残っている。

「…何回も、掴んでいい?」
「どうぞ」
「もう、いなくならない?俺のこと、1人にしない?俺の未来で…ずっと、俺の隣にいてくれる?」

なまえさんは目を丸くしたけどすぐに笑って頷いた。

「信じられないなら、はい」

今離したばかりの左手がこちらに差し出された。

「いなくならないようにずっと繋いでていいよ。そんで、鳴の未来まで連れて行って」
「…絶対離さないよ、俺」
「知ってる。一度、置いて行ったから。もう置いて行かないって決めてたし」

その手を掴んで俺は泣きそうになるのを隠すように俯いた。
多分だけど、泣きそうなのに俺の口は今だらしなく緩んでいる気がした。

「ねぇ、なまえさん」
「何?」
「抱き着いていい?」

どうぞ?と言われて、彼の手を離しぎゅっと彼の首に腕を回す。
もう離れてしまわないように抱き着いて、肩に顔を埋めた。

「…なんだ、やっぱり大きいじゃん」
「何が?」
「何でもない」

俺の手に隠れてしまった小さな背中。
その背中は俺が腕一杯伸ばしてやっと、1周するくらいに大きかった。

「…やっぱり、好き。なまえの背中」

あの頃のように1という数字がなくても。
彼の背中は変わらず凛として、大きくて、優しくて、頼りになる。
この両手で抱き着いた彼の背中は俺がずっと、追いかけ続けた背中のままだった。



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