ズルい大人 ズルい人だと、いつも思っていた。
辛い時は優しい言葉をかける。
困っていれば手を差し伸べる。
特別扱いをして、甘いことを言う。
それでも、あの人は決して心を開かない。
心の扉は固く閉じられて、鍵がかけられて、鎖で縛られている。
そして、その扉の前には立ち入り禁止の黒と黄色のテープが貼ってあるんだ。
「ズルいよな、大人って」
煙草を吸っていた彼が俺の言葉にこちらを振り返った。
教室の窓から紫煙が外へと流れていく。
「それ、俺に言ってんの?」
いつもきっちりと着られているスーツのネクタイは今、少しだけ緩められていた。
「アンタ以外に誰がいんだよ」
解き終わったテスト用紙の上にペンを放り投げる。
「見直し、しなくていいのか?」
「話逸らすなよ。そういうとこがズルいって言ってんだよ」
任務のせいでテストが受けられず、ボーダー隊員でまとめて試験を受ける日には風邪をひいた。
その為、日曜日にわざわざ学校に来ていた。
勿論彼もわざわざ休日出勤だ。
完全な休校日の今日はこの広い学校に俺と彼の2人しかいない。
「…あーぁ、そんな怖い顔すんなよ。荒船」
彼は困ったように笑って、煙草を携帯灰皿に擦り付けた。
「綺麗な顔が台無しだぜ?」
「アンタってさ、なんでそう上手にすり抜けていくんだよ」
「…大人はな、臆病なんだよ」
彼は窓に背をあてて此方を見た。
「ズルい大人を見て育った。そんで、ズルい大人が本気になって失敗する姿を見てきた。だからな、予防線を張るんだ。ここから先は行ったらダメだってな。上手く逃げるんだ、失敗とか損になることから。これをお前らはズルいって言う」
子供みたいに無邪気にどこかしこに行けるわけじゃない。
道を間違えたら止めて、正してくれる人がいるわけじゃない。
危ないとこもやべぇとこも全部自分で見極めて止まらないといけない。
「だから、大人は臆病になっていくんだよ」
「俺もいつかそうなんのかよ」
「どうだろうな。なりたくないなら、ならねぇようにしろよ。…俺はなりたくなかったけど、なっちまったからいいアドバイスはしてやれんな」
俺の前の椅子を引いて、彼はそこに腰かける。
足を組んだ彼から少し苦い煙草の匂いと甘い香水の匂いが混ざって、大人な香りがする。
「俺はなりたくねぇよ、アンタみたいにズルい大人には」
「なんで?」
「だって、アンタは本当に手に入れてェものに手を伸ばすこともできなくなってるから」
俺は欲しいものは手に入れたい。
俺の言葉に彼は頬杖をついて顔を背けた。
「大人ってのは、そうじゃないよ」
「は?」
「言ったろ?臆病なんだって。手に入れるのが怖いんじゃねぇ。手に入れた後に失うのが怖いんだよ」
俺らの歳になれば、両手から大事なもんがどんどんなくなっていく。
家族、友人、恋人、なんだってそうだ。
彼は両手を見つめて、ぎゅっと握りしめた。
「失いたくない、だから。手に入れない。これがズルい大人。手に入れるっていう得と失うって損を天秤にかけて。損しねぇって選択肢を選ぶ」
「…やっぱり、俺はそうはなりたくない。手に入れたいし、失わないように繋ぎ止めていたい」
「人には終わりがあるんだよ」
それでも、俺は繋ぎ止めておきたい。
自分が終わった後も、俺に繋ぎ止めておきたい。
相手が終わった後も、俺を繋ぎ止めてほしい。
「知ってるか?俺達高校生だって、ズルいことはできる」
「知ってる」
「嘘だな」
俺は立ち上がって、彼が煙草を吸うために開けた窓に近づく。
そして窓枠に腰を掛けた。
「アンタが臆病で、ズルい大人だとしても。俺はアンタをずっと繋ぎ止めておく方法を持ってる」
「…荒船、」
「アンタの前で、死ねばいい。そうすれば、アンタは決して俺を忘れない。アンタは俺から逃げられない。そうだろ?」
先生は俺を見上げて、困ったように笑った。
「それは、確かにズルいな」
「…死なないって思ってるか?」
「死ねないって思ってるよ」
彼は目を細めて、笑った。
「お前は決して死ねない」
「なんで?」
「何でだと思う?」
胸ポケットから煙草を出して、彼は口に咥えた。
ライターの火が煙草に移り、彼は紫煙を吐き出した。
「わかんねぇ」
「お前が死のうとしたら、俺がお前に愛してるって言うから」
「…んだよ、それ」
あぁ、やっぱりズルい。
だって、なんだよその中途半端な告白。
「大人ならハッキリ言えよ」
「大人だからハッキリ言えないんだよ」
「それでも、俺は言って欲しい」
交わった視線。
彼は荒船、と俺の名前を大事そうに呼んだ。
「大人はからかうもんじゃない」
「逃げんな。マジで飛び降りるぞ」
腰かけていた窓枠に足をついて立ち上がる。
吹き抜けた風に髪が揺れた。
「お前が飛び降りれば確かに俺はお前に繋ぎ止められるだろうよ。けど、結局俺はお前を失わなきゃならねェ」
「だったら、手に入れろよ」
「手に入れても、いつか俺はお前を失う」
どっちがいいんだよって言えば彼は俯いて立ち上がった。
机の間を通って、こちらに歩いてきた彼は俺を見上げた。
「だから嫌なんだよ」
「何が」
「何かを大切に思うのは」
彼の手が俺の方に差し出された。
「愛してっから、さっさと降りろ」
「…逃げんなよ」
「仕方ねェから、大人しく捕まってやるよ。ズルい子供に」
手を離して彼に飛びつけば、そこそこ鍛えてる俺よりもしっかりした体が俺を抱きしめた。
「もう1回言え」
「愛してる」
「俺も、」
彼の心の扉は開かない。
臆病だから、開けるのが怖いんだ。
だから、俺は立ち入り禁止のテープを潜って、扉の前に腰を下ろす。
いつか鎖を解いて、鍵を開けてくれるまで。
「アンタは、臆病でズルいけど」
「うん」
「俺はそんなアンタもカッコいいと思う」
趣味悪いなって、彼が笑って俺の頭をポンポンと撫でた。
そして俺を離して、俺のテストを受けていた席に歩み寄る
「俺、ちゃんとアンタのとこに帰って来るから」
「おう」
「アンタより先には死なない。だから、」
ちゃんと俺を繋ぎ止めておいてほしい。
俺の言葉に彼は笑った。
「はい、時間切れ」
「は?」
彼は時計を指差した。
「テスト終了。ほら、さっさと帰れ」
机の上の解答用紙を持って彼は教室を出て行く。
「は?おい、待てよ!!なんだよそれっ!!ふざけてんのかよ!?」
「言ったろ?大人はズルいんだよ」
彼はこちらを振り返って笑った。
「詰めが甘いな、高校生」
「は?」
「俺はお前を愛してる。けど、付き合ってやるとは言ってねェよ。繋ぎ止めてなんかやるわけねぇだろ」
ひらひらと揺れた解答用紙。
あぁ、クソなんなんだよアイツ!!
「最悪だろ、アンタ!!!!」
「大人はそういう生きもんだよ。臆病でズルくて最悪で最低で。何でもかんでも上手に逃げて、捕まえた気になってもすり抜けていくんだ。けどな?」
彼は困ったように笑った。
「愛してる奴が、同じように自分を愛してくれているのに手に入れずにいるほど、大人は出来た生き物じゃねェんだよ」
「は?」
「例え失うとしても、結局欲しいんだ。失いたくないから欲しくならねェようにズルくなって予防線を張る。なのにな?それを壊すのはいつだってそれを張った大人なんだ」
スーツのポケットを探った彼は何かをこちらに投げた。
それを咄嗟にキャッチして、手の平にあるそれを見つめる。
「家の…鍵?」
「駅前の最近できたマンションだ。制服脱いで来い」
「え?」
制服を、脱ぐ…?
「それが、俺がお前と付き合う条件だ」
「っ!!それって…」
「なぁ、荒船。優等生のお前にこんなこと言うのはどうかと思うけどな」
煙草を咥えた彼はニヤリと笑う。
「ズルい大人になっちゃおうぜ?」
「え?」
「お互いバレたらクビと退学だ。予防線の1つや2つあって困るもんじゃねェよ」
あぁ、そうだと彼は言葉を付け加えた。
「鍵、それ1個だからさっさとしろよ。」
職員室に向かう彼に背を向けて、緩む口を手で隠す。
俺は教室にある自分の荷物を急いでしまった。
「やっぱり、アンタはズルい」
上げて落として、また上げて。
ズルくて、臆病で、それでもカッコイイ。
制服を脱いで。
高校生の、生徒の俺とは付き合ってくれない。
それは多分俺を守るためでもあり、自分を守るためでもある。
けど、制服を脱いだら俺はただの一個人だから。
肩書きもお互いの関係も捨てられる。
「やべぇ…」
幸せだ。
彼の心の扉を開ける方法がわかって、しかもこれからその扉を彼が俺のために開けてくれるというのだから。
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