俺達は将棋を捨てた


幼少から今に至るまで、自分の顔よりも向き合ってきた顔があった。
それは父でも母でもなく、友でもない。
将棋盤越しに向かい合ってきた名前しか知らぬ彼の顔。
勝率は五分五分だった。
将棋を指す姿は洗練されていて、彼と指すのが好きだったことは覚えている。
丁寧に礼をする姿、真っ直ぐと伸びた背筋、そして指先まで神経が行き届いているのか真っ直ぐだった。
年を重ねるにつれて整った爪に似合わぬ男らしい手になっていったが、昔と変わらず傷一つない手だった。。
彼の姿はまるで1枚の絵のような姿を今でも鮮明に覚えているのだ。
そんな彼は、俺がボーダーに入るより前に、俺が中学に上がってすぐくらいに姿を消した。
名前しか知らぬ彼が将棋を辞めたのかどうかも終ぞ知ることはなかった。

「なんで、おんねん…」

はずなのに。
スカウトされて入隊したボーダーでその男と再び、相まみえると誰が思ったか。
面影はあるのに、どうしてだかあの頃の彼とは似ても似つかなかった。
将棋盤を真っ直ぐ見つめていた澄んだ目は淀み、洗練されていたはずの彼は影を背負っていた。

「なぁ、」

俺が着ている新人用の白い服ではない、黒い服を纏った彼に歩み寄った。

「俺の事覚えとらんか?」

堪らず声をかけた。
だが彼はこちらを見ることもせずに、「知らん」と吐き捨てた。

「なっ」

彼は結局こちらを振り返る事もなく、歩いて行ってしまった。
それを呆然と見送れば、彼の傍らにいた同じ服を着た彼よりも大人びた人が「悪いな」と苦笑する。

「悪いことは言わないから、あれとは関わらない方がいい」

関わらない方がいいって、なんだ。
別人か。
いや、そんなはずない。

自然と足は彼を追いかけていた。
掴んだ腕は、振り払われた。

「昔、何度も将棋指したことあるやろ!?俺ら」

今にも人を殺しそうな眼は俺を睨みつけた。

「誰の話してんねん。早う去ねや」
「ちょ、」

それが彼との最悪な再会であった。





入隊してしばらくすればB級に上がった。
同じスカウトだった生駒さんと隠岐、そして元気がありあまっている海と隊を組むことになった。
そして、間もなく彼 みょうじが組んでいた隊が解散したらしい。
随分と強い隊員だったらしく、A級ソロとして変わらず活躍をしているらしい。

「あぁ、みょうじさんっすか?」

同じ狙撃手の隠岐に彼の事を尋ねてみれば、怖い人だと彼は言った。

「なんかもう、ギラついてるんすよ…練習してるときも、的以外なんも見えてないし…」
「…そうか、」
「知り合いなんすか?」

多分な、と答えることしかなかった。
彼は高校にも行っていないらしく、顔を合わせる事はあれ以来まともになかった。

「あ、そうや。イコさんに頼まれとった資料だしてくるわ。そのまま帰る」
「了解っす。俺も帰りますね」

資料を提出して本部の出口に向かった時、彼を見つけた。
珍しくトリオン体ではないらしい。
パーカーにゆるそうなズボンを履いて、自販機の横のベンチに座っていた。
手には黒い手袋をしていた。

「みょうじくん…」

彼の視線がやっと俺に向いた。
死にそうな顔をしていた。
目の下の大きなクマ、昔よりこけた頬。

「…あ、の…」
「なんやねん」
「いや、」

鬱陶しそうに彼は髪をかき上げる。
手袋とパーカーの隙間に、火傷の痕が見えた。
昔は確かになかった、傷だった。

「みょうじくんやろ…」
「……だったら」
「何度も、戦ってきたやろ。将棋大会とかで…」

彼はじっと俺を見つめた。
なのに、淀んだ目に俺は映っていないようだった。

「……それ聞いて何の意味があんねん」
「え、」

立ち上がった彼の体がふらついて、咄嗟に自動販売機に手をついた。

「っ、」
「ちょ、大丈夫か!?」

駆け寄ろうとしたが、彼の手袋に包まれた手がそれを制した。。

「てめぇも、捨てたんやろ」
「は?」
「てめぇも、将棋を捨ててここへ来た癖に。どの面して俺に、んなこと聞いとるん?」

あぁ、そうや。
俺も彼と変わらない。
この男の、言う通りだ。

「俺の、将棋の話をするな。俺に、過去の話をするな。聞きたくもねぇ」

踵を返し歩き出そうとした彼はふらつき、そして倒れた。

「ちょ!?は!??」

崩れ落ちた彼に駆け寄って、触れた手の細さに驚いた。
トリオン体の時とはまるで違う。
持ち上げた体は病的に、軽かった。

医務室に運ぶ途中、すれ違った東さんが「みょうじか!?」と慌てた声を出した。

「あ、はい…」
「また倒れたのか…」
「また…」

医務室じゃなくてみょうじの部屋でいい、と彼は案内をしてくれるのか歩き出す。

「よく、あるんですか…」
「あぁ…抱えててわかるだろ?病的に軽いって」
「あ、はい」

飯食わないんだよ、と話す前を歩く東さんの顔は見えなかった。

「…みょうじ、っていつからボーダーに…」
「中3の頃じゃないかな」

中3。
将棋界から姿を消した2年後くらいだろうか。

「……どうして、ボーダーに?関西の生まれですよね」
「あぁ…お母さんの実家がこっちだったって」
「へぇ…」

亡くなったけどね、と彼は言った。

「介護だかの為に家族でこっちに越してきて…大型侵攻に巻き込まれたんだそうだ」

あぁ、どうしてだ。
抱えた男を見下ろして、息を飲む。

「生き残ったのは、みょうじだけ。それから、ずっと…復讐に憑りつかれてる」

似たような子が俺の隊にもいたんだ、と東さんはこちらを振り返る。

「それよりも重症でな。心配はしてるんだが、どうしても…聞く耳を持たなくてな」
「……そう、なんすね…」
「倒れたらこの部屋に運んでやってくれ。人がいると、眠れないらしいんだ」

彼のトリガーで開いた部屋は、普通のワンルームのようだった。

「ここは…」
「隊室兼こいつの私室。ここで生活してんだ」
「は?」

家は全壊、帰るところがないのだと彼は言った。

「高校も行ってないし、復讐する以外の生きる目的がないんだ」
「生きる目的が…」
「水上は同い年だよな?もしよかったら、仲良くしてやってくれ」

生活しているというには生活感のない部屋。
デスクの上に飾られた1枚の写真は少し煤けてしまっていた。

「…仲良くったって、」

彼は俺と言葉を交わさない。
きっと、今日は特別だった。

「水上?」
「あ、いえ。善処します」

ベッドに寝かせた彼を見下ろして、目にかかる髪をそっと流す。

「……お前は、将棋……やめたくなかったんか…」
「将棋?」

勿論、返事はなかった。





目を覚ましたら自室だった。
誰もいない部屋で、また目を覚ました。

「……っ、くそ…」

痛む頭。
記憶が途切れているところをみると、またどこかで倒れたのだろう。
誰かと最後に話していた気がするけど、気のせいだろうか。

眠っている間、昔のことを夢に見た。
幼い頃、将棋が好きだった。
プロも目指していた。
教えてくれたのは、爺ちゃんだった。
その爺ちゃんが倒れ、両親は迷わず介護の為に三門市へ行くことを選んだ。
父は本店から支店へ異動を希望し、母は仕事を辞めた。
それでも爺ちゃんの元へ迷わず行くことを決めた2人を誇らしく思った。
そして、俺も。
叔父の家に居候するという選択肢をくれたけれど、迷わず2人と共に行くことを決めた。
将棋は続けていた。
昔ほど、本気ではできなくなったけれど。
それでも将棋は好きだった。
ベッドの上から動けなくなっても爺ちゃんは将棋が好きだった。
そして、そんな爺ちゃんと将棋を指すのが好きだった。

「全部、過去の話だ…」

間もなく、全てを失った。
両親も爺ちゃんも、優しさも思い出も、俺は全て失うこととなった。
そして、大好きだった その日まで全てをかけていた将棋を捨てた。

「あれ、もう出てきたのか」

狙撃場に行けば東さんがこちらを振り返る。

「なにが、」
「倒れただろ。水上が運んでくれたんだぞ、部屋まで」
「……水上」

知り合いじゃないのか?と東さんは首を傾げた。

「覚えとらん」
「は?」
「そんな奴、」

もさもさした髪の毛と子供らしくない口調。。
彼はとても小賢しく、聡明で、それでいて何故だかとても真っ直ぐだった。
指し方はクールな割に、時折見せる攻撃的な指し方が好きだった気がする。
あぁそれと、彼の将棋盤を見つめる目が好きだった気がする。
朧げな、捨てた過去だった。

「東さん、奥のいつもんとこ使うってええっすか」
「あ、あぁ…」

今まで俺の世界は将棋盤という小さな世界だった。
だが、俺の世界はそれよりも小さくなった。
スコープ越しに見えるその世界が今は、俺の世界だった。
全てを捨てた全てを失った俺の、小さな小さな世界だった。






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