林檎のうさぎ


小さな熱帯魚のショップ。
店のガラス越しに見える水槽を見つめる横顔に自然とため息が出た。

「なまえ」

名前を呼べばゆっくりと彼はこちらを振り返り2回、瞬きをしてから笑った。

「久しぶりだね、影浦くん」
「…相変わらずふよふよしてんのかよ」
「人を海月みたいに」

傍らには大きなキャリー。
見つめていた水槽の中にはお腹を上に向けて浮かぶ鮮やかな赤色の魚の死体。

「似たようなもんだろ」
「…そんなことないでしょ」
「まァいいわ、なにしてんの」

彼は首を傾げてから「宿探し」と答えた。

「水槽見てても見つかんねェわ」
「うん、確かに」

会話が終わった。
別に、それが不満なわけではないが普段の彼とは違う。

「…昨日まではなにしてたんだよ」
「女の子の家」

はぁ、と自然と溜息が出た。
初めてなまえに会ったのは俺のお店。
女と食べに来ていて、その時は気に留めていなかった。
だが翌々週、別の女と店に来た。
そこから時々、違う女を連れて店に来ていることに気付いた。
気になって話しかけてみれば、家はなく人の家を転々としていると言う。
泊めてくれるならなんでもするよ、と笑った彼に恐怖さえ感じたのを覚えている。

視線はまた水槽に戻る。
いつもより少ない口数と顔色の悪さ。

「…体調悪いんか」
「そうかもしれない」

溜息しか出ない。
自分のことなんだからかもしれないなんて適当なこと言うなよ。
まぁ自分に興味がないのは今に始まったことじゃねぇか…。

「うち来るか。調子良くなったら働いてけ」

こちらを向いた彼はありがとうと笑う。
それはもうテンプレートのように見飽きた表情だった。
キャリーに手を伸ばそうとした彼に俺が持つ、と声をかけて代わりにキャリーを引きながら歩き出す。
ありがとう、とまた呟いてなまえは一歩後ろをついてきた。

まぁ、こんなアホみたいな生活してりゃ体調も崩すだろう。
初めは怖いとさえ感じたこいつも接してみればそんなことはなく。
むしろ表情の割に感情が殆どない奴だったから一緒にいて楽だった。

「いつから調子悪いんだよ」
「先週…体調不良の子看病してからかなぁ」
「そこまで悪化する前に来いよ」

そう言ったところで、この男は来やしないんだろう。
同じところに1週間以上留まることはないし、同じところに1か月の内2回以上泊まることも無い。
こいつの謎のルールだった。

店の裏口から入り、自室へ。
途中から一切口を開かなくなったなまえは部屋につくなりずるずるとしゃがみこんだ。

「ベッド使っていいから寝ろ」
「…それは、悪い…」
「めんどくせぇ。寝ろっつったら、寝ろ」

無理矢理ベッドに押し込めば、抵抗しようとしたが結局力が抜けていく。
俺の素肌に触れた指はいつも以上に熱く、額に手を伸ばす。

「おい、相当熱高ぇだろ。頭痛は?吐き気とか、」
「…吐き気は、平気…」
「体温計と薬持ってくるわ。飯最後に食ったのいつ?」

薬は飲んでるから大丈夫、と彼は呟き目を閉じた。

「…寝たな…」

相当弱ってたのか。
よくこの状態で、ふらふらと宿探しが出来るものだ。
シャツの胸元を緩め、リビングから持ってきた体温計を差し込む。
眉間皺がよって、苦しそうに額を拭った。
音が鳴り、体温計を見れば38.4。
果たしていつからこんな状態だったのか、考えただけでもゾッとした。
とりあえずお袋になまえが来たことと体調が悪いことを伝えて食べれるものを用意して貰うか。





嫌な夢を見て目が覚めた。
暗い部屋の中を見渡して、自分が何をしていたのかと考える。

「…ここ、」

どこだろう、とベッドから降りようとして下で眠っている影浦くんの寝顔が見えた。
あぁ、そうか…。
影浦くんが泊めてくれたんだった。
家主を下に寝かしてしまうなんて、申し訳ないことをした。
枕元には体温計とスポドリ。
ラップのかかった林檎は可愛らしくうさぎの形をしていた。

「……昔も、」

体調を崩した俺に林檎を切ってくれていた。
嫌な夢のせいか、そんなことを思い出した。

「ん……なまえ、?」

目を擦った影浦くんがぼんやりと俺を見上げる。

「目ェ覚めちまったか?」
「あ。うん」
「…熱は…?頭痛とか、」

起き上がった彼はベッドに歩み寄り、俺の顔を覗き込みぎょっとした。

「おまっ、何で泣いてんの!?そんな辛ぇか!?!」

伸ばされた手が慌てたようにも俺の頬を撫でる。
ひんやりしている彼の手に擦り寄れば、一瞬彼はビクついた。

「どうした?」
「…んーん、」

子供みてぇ、と彼は小さく呟いて俺を抱きしめる。
背中を摩る手が妙に優しい。

「…雅人、」
「ん?!?」
「……ごめんな、」





情事の時しか呼ばない名前。
熱を帯びた声が耳を擽って、背筋がぞわりと震えた。

「なまえ、」
「ごめん、抱いていい?」

汗で張り付いた前髪を彼はかきあげる。
目に浮かぶのは熱と欲。
普段澄ました顔して俺を抱く男が、そんな目を俺に向けた。

「待、て…お前、風邪ひいて」

ベッドに引きずりこまれて、俺を押し倒す彼を見上げる。
珍しく刺さってくる感情は悲しみだ。

「っ、ん、」

俺の制止なんか聞こえてないのか、塞がれた唇。
いつもより熱い舌が、人の口の中を好き勝手かき混ぜた。

何に悲しんでんのか。
何に怯えてんのか。
お前は俺を抱く時、いつもそんなに感情に苛まれている。

「は、ぁ…風邪、うつったら…責任とれや」
「……うん」

その何かを俺は知らないし、知ろうともしないけど。
受け入れてやるくらいはしてやるさ。
両手を伸ばして、彼の背中に手を回す。

「雅人、」

彼の手がいつものように服の中に入った瞬間、彼の体からまた力が抜けた。
覆い被さる男の背を叩けば聞こえる寝息。

「こんなベタな話あるかよ…」

少しばかり期待した自分がアホらしい。
だが、まぁこいつのこういう弱みを知ってるってのも、なんだが気分が良い。

「…おやすみ、」

とりあえず風邪がうつったら、看病させよう。
それから、美味い寿司屋にでも連れて行ってもらうとしよう。
いつもより暖かい彼の体を抱きしめながら、目を閉じた。




目が覚めたら割れるような頭痛は治っていた。
熱も下がったようだけど、何故か隣には影浦くん。

「…んー…」

嫌な夢を見て起きたのは記憶にあるが、そこからのことは覚えていない。
少し色の変わったうさぎの形の林檎。
姉がいた頃は、こうやってくれていたな。
夢の中、姉は俺を捨てて街を出た。
それは間違いなく、俺の記憶であった。

「あ…」
「おはよう」
「……起きたんか、」

林檎を齧った音が聞こえたのか目を覚ました影浦くんはもう平気かと体を起こす。

「うん、大丈夫」
「…お前、忘れてんだろ」
「あ、やっぱ何かした?俺」

泣いて縋ってきた、と嘘か本当かわからないことを言って彼は笑う。

「可愛かったぜ?珍しくさ」
「…えぇ…それ、本当に言ってる?」
「風邪ひくと弱くなるって、なまえにも当てはまるんだな」

何か食えそう?と笑いながら首を傾げた彼にこれで大丈夫、と林檎を指差す。

「それ、夜持ってきたやつだぜ?温くね?つーか、色変わってるし」
「気にしないから」

俺を捨てた人との思い出なんて、食って消してしまいたい。

「まぁ、いいわ。俺も腹減ったし、もうちょい腹に溜まるもん持ってくるわ。食えんだろ?」
「うん、ありがとう」

口の中に広がる林檎の甘さ。
そう言えば俺、林檎嫌いだったっけ。
病気になると出してくれる優しさは好きだったけど、林檎が嫌いで。
それで、うさぎの形にしてくれていたんだっけ。
忘れるものだな、時間が経てば。

「なんつーか、お前さ。昨日みたいに余裕がねぇ感じの方が好きだわ」

彼はそれだけ言って部屋を出ていく。
泣いて縋った上に、余裕がなかったって。
一体何をしたんだろうか。
そんなこと考えながら、最後の林檎を口の中に押し込んだ。

「…いつか、夢にも出てこなくなって忘れていくんだろうな」

あの頃のことも、姉のことも、そして君のことも。
咀嚼した林檎が食道を通り、胃に落ちて、消化されるように。
俺はあの頃を消化してしまうんだろう。
水槽の中に浮かんだ死体に群がった林檎のように真っ赤な魚たちのように。
誰かが、食べてくれればもっと早く、消え去ってくれたのだろうか。

「早く、消えてくれよ…」
「あ?なんか言った?」

足でドアを開けた彼はお盆をテーブルに置いた。
お袋が作ってくれてた、と鍋の蓋を開ければ卵粥が湯気をたてる。

「なんも言ってない。食べていい?」
「どーぞ。お袋が、元気になったら働いてくれってよ」
「勿論。ちゃんとお礼はさせてもらいます」

俺にも返せよ、と彼は菓子パンにかぶりつく。

「お預けくらってるから、昨日」
「……ほんとに?」
「本当だわ」

満足させてくれよ?と彼はニヤリと笑った。

「……努力します」



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