大人


甘えきっていた。
そう気づいたのは夜勤を終えて家に帰った時だった。
先日家を出た時のままの食器と溜まった洗濯物。
いつもだったら、「おかえり」と笑った彼女の姿はそこにはなかった。
俺がボーダーに入ることも、気をつけてと言っただけで受け入れてくれた。
忙しくて帰れない日が続けば、着替えをもってボーダーの近くまで来てくれた。
そんな時だけ作ってくれるお弁当には、決まって甘い卵焼きが入っていた。

「…片付けるか」

別れを決めたのは俺だった。
気付けば上の立場になり、休みが取りにくくなった。
それを苦には思わなかったし、人に教えることも嫌いじゃない。
同じタイミングで教師をしていた彼女も、クラスの受け持ちを持つようになった。
お互いの忙しさを言い訳に、したつもりはない。
忙しくとも、2人の関係は充実していたと思うし。
じゃなあなんで、別れたんだと言われたら それがアイツのためだと思った。
彼女の誕生日にすら、何もしてやれなかった俺を責めなかった彼女を。
幸せにしてやれる自信がなくなったのだ。
普通の幸せってやつを、俺はこれから感じさせてやれないんじゃないかと。
そう思ったら、自信がなくなった。
俺以外の誰かと付き合った方が幸せなんじゃないか、とそう 思った。

「勝手だなぁ」

そんな俺を彼女は責めることはしなくて。
体には気をつけてね、と一言。
最後に微笑んで、俺を抱きしめてから部屋を出て行った。
それももう半年前のことなのに、俺は今だにそれを受け入れられていないから。
愚かなものだ。

回した洗濯機。
ご飯はどうしようか、とキッチンを見て今日はコンビニで済まそうと何度目かわからぬ単純な思考に笑ってしまう。
明日は休みだし、ちゃんとやること済ませよう。





「先生、」
「荒船?」

質問?と首を傾げれば違いますよと彼は笑った。
報告書を作ってきた手を止めてじゃあどうしたの、と尋ねれば東さんのこと と彼は言った。
ボーダー所属の生徒たちの中では私と彼のことは有名な話だった。
彼の後輩と一緒にご飯に行くこともあったし。
彼もその中の1人だった。

「なんもないよ」
「嫌いになったんですか」
「いや。好きよ?…けどねぇ、好きなだけじゃ上手くいかないのが大人の恋愛なの」

覚えておきなね、なんて大人ぶって微笑んでやれば彼は不服そうに眉を寄せた。

「東さん、最近疲れた顔してるんですよ」
「そうなんだ。まぁ、大変そうだったしね ボーダー」
「…ヨリ、戻ぜはいいのにって。みんな言ってます」

そんな簡単なことじゃないんだよ、って。
言った言葉自分に言い聞かせてるみたいだった。

「心配してくれる可愛い後輩たちがいるなら大丈夫よ」
「…なんですか、それ」
「コーヒー、飲みすぎないように注意してあげてね。あと、寝不足が続いてると舌打ちするから。そういう場面見たら無理矢理ベッドに押し込んであげてね」

できるわけないです、と彼は言うけど。
意外と世話焼きな彼ならしっかりとやってくれるだろうと謎の信頼があった。

「さ、てと。そろそろ帰りなさい」
「え、」
「暗くなるから」

逃げないでください、と彼は言った。
真っ直ぐな目。
どこか彼に似ていて、寂しさが胸を刺した。

「大人ってね、臆病なのよ」
「なんでですか」
「沢山、傷ついてきたから」

気付けば自分を偽るのが上手くなった。
本音を隠すのが、得意になった。
きっとそれは自分を守る為の、鎧。
私も彼も、その鎧を脱ぐことが出来なかった。

「大人になれば強くなるんじゃない。大人になると、傷付かないことが上手くなるだけ。私も、彼も。ね?」

心配してくれてありがとう、と彼の頭を撫でて 微笑む。

好きなだけじゃダメなんだ。
私は、彼との関係に不満なんてなかった。
デートもあまりできなかったし、旅行なんて以ての外。
誕生日も記念日も 祝えないことのほうが多かった。
それでも、戦う貴方は素敵だったし 後輩の前でカッコつけてる貴方も新鮮で可愛かったし 私の前だけで見せる安心した柔らかな笑顔も 大好きだった。
ただ、貴方の彼女でいられるだけで 私は 幸せだったのにね。
それがきっと、貴方の重荷になってしまったんだろうなって。

「春秋のこと、よろしくね」

今更なのはわかってる。
もう戻れないのなら、貴方の幸せだけは 願わせて。
なんて、カッコつけて生きるくらいしか 私には出来なかった。





携帯を隊室に忘れて戻ったはずが、今度はキーケースを忘れ また隊室のドアを開けた。

「らしくないですよ」

2回とも付き添ってくれた荒船にすまない、と答えて苦笑する。

「ここのところ、ミス多いですよ。東さん」
「そうだな…、疲れてるのかな」
「なまえさんと別れたからですよね?」

真っ直ぐ向けられた目に、Noとは言えなかった。
実際、自分でもわかってるんだ。

「日々、感謝を忘れたことはないんだよ。アイツの存在を当たり前と思ったこともない。けど、それ以上に俺の世界にいたんだなぁって」
「なんで、別れたんですか。まだ好きなのに」
「好きだからだよ」

またそれですが、と荒船は嫌な顔をした。

「好きだからこそ、幸せになってほしい。俺の隣でなくたって」
「それ、わかんないです。好きなら自分の手で幸せにすれば良いじゃないですか。好きだから一緒にいる、好きだから幸せにしたい。なんでこんな単純なことわかんないんすか」
「…単純なことが一番、難しいんだよ」

付き合い始めは そうだった。
好きだ。
だから、側にいたくて いて欲しくて。
俺が幸せしてやりたかった。

「単純なことを難しくしてるのは、大人の臆病さです。幸せにしてやるからついてこいぐらい言ってくださいよ」

お前はカッコいいな、と笑うしかなかった。

1人になった家。
まだ残る彼女への着信履歴を見つめて 首を横に振る。
幸せにしてやるから、ね。
そんなこと言える大人が どんだけいるんだろうか。
俺はそんなにかっこいい大人には なれそうもない。
幸せにしてもらって ばかりいたのだから。

「…女々しいな」

きっと、こんな姿みたら 荒船は怒るんだろうな。





仕事を終えて帰ろうとしたら 裏門に懐かし横顔を見つけた。

「春秋?」

久々に彼に向けて呼んだ名前。
俯いていた彼は顔を上げて ゆっくりとこちらを向いた。

少し痩せたかな。
暗いからかもしれないけど、ちょっと疲れた目元。
またコーヒーばっか飲んで寝てないのかな。

「なまえ」
「ん?」
「戻ってきて、くれないか」

彼のそのセリフは 妻に出ていかれた夫みたいで、ちょっと笑ってしまいそうになった。
彼が私に別れを告げた理由は なんとなくわかってた。
気持ちが冷めた訳でないと、自惚れかもしれないけど 思ってた。
彼は俯いて、珍しく居心地悪そうに髪をかきあげる。

「幸せにする、とか もう寂し思いさせないとか…そんな、かっこいいことは言えないし。自分で別れを告げたのに 都合よすぎるってのもわかってるんだけど。…やっぱり、隣に…いてほしい」
「私、春秋と付き合ってた 幸せじゃないって思ったことも寂しいって思ったらこともないよ。ちゃんと愛されていたし、大切にされてた」

だから、と言葉を一度切って 俯く彼の頭を ちょっと背伸びして撫でる。
顔を上げた彼の目が 捨て猫みたいで こういう弱いところ 可愛いんだよなって ちょっと表情が緩む。

「だからさ、春秋が許してくれるのなら、また隣にいさせてほしいかな」
「…ごめん」
「なんの謝罪よ、それ」

久々に抱きしめられた体。
背中に回る両腕はいつもより少しだけ 力が強かった。

「お前がいなくなるだけで、こんなにダメな人間になると思ってなかった。甘えきって、いたんだなって。もっと、上手に生きれると 思ってた」
「春秋、自分のことになるとズボラさんだからなぁ」
「…まだ、学生だから 今すぐは無理だけど」

春秋はゆっくり私を離して、ポケットから小さな箱を取り出す。
ちょっと照れ臭そうに笑う彼が 私の目を真っ直ぐ見つめた。

「…誕生日に、本当は渡すつもりだったんだけど…」

箱の中光る指輪。
動揺してるのに、そういえば誕生日プレゼントもらってなかったっけ、なんてどこか冷静に考えてしまっていた。

「結婚を前提に…お付き合いして、もらえますか」
「喜んで」

恥ずかしそうに彼は笑って、左手の薬指に指輪を通してくれた。

「ありがとう、なまえ」
「…こちらこそ」




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