心中は望まない


高校三年間。
気になる人がいた。
美術の先生だったその人は、穏やかに笑う人だった。
プールから見える美術室で、その人は放課後になるといつも美術部員と共に絵を描いていた。
その横顔がずっと、気になっていた。

「卒業おめでとう」

その人は卒業式の今日も、美術室にいた。
普段つなぎを着ているのに今日はしっかりとスーツを着て、ゆるく髪の毛を上げていた。

「ありがとうございます」
「汚れていたプールが見違えるように綺麗になって、気付けば部員が増えていたね」
「そうですね」

来年はまた見知らぬ顔が見えるのだろうな、と彼は微笑んだ。

「寂しいですか?」
「少しね。けれど、旅立ちはいいことだ」

進路は?と尋ねられ「東京に」と答えた。
彼は目を瞬かせてからそうか、と目を伏せた。

「近いけれど、初めてこの街を出ると思えばどこか遠い国へ行くようだね」
「そうですね。先生は、岩鳶の出身ですか?」
「いいや。俺は北海道」

ここへ来るのは遠い国へ行くようでしたか?と尋ねれば彼はそうだねと頷いた。

「故郷を捨てるような気分だった。けど、ここへ来たことに後悔はないよ」
「俺もそう言えるようになりますかね」
「きっとなるさ」

胸を張って行くと良い、と彼は自分よりも高いところにある俺の手を撫でた。

「先生の横顔を見るのが、好きでした」
「えぇ…なんだか照れるな」
「本当です。時々、このプールから見える姿が。好きでした」

先生はありがとうと微笑んだ。
告白のようだった。
思えば、彼に恋をしていたのかもしれないと 家に帰ってから独りで思った。

「いつか、辛くなったら怖くなったら。ここでの時間を思い出すといい。懐かしいと思ったら、帰っておいで」
「懐かしいと思ったら…」
「故郷を懐かしむのは、心が寂しくなったってことだから」

そしたら会いに来てもいいですか、と尋ねればいつでも帰っておいでと彼はやはり微笑んでいた。

「じゃあ、行ってらっしゃい」
「はい、行ってきます。先生、お元気で」
「あぁ、橘も。元気で」





大学は大変だけど楽しかった。
やりたいことを学ぶ楽しさと難しさがあった。
ふとした時に、先生はどうして美術の先生になったのだろうと思った。
そういう話はしたことがなかった。

「懐かしいな」

ぽろ、と零れた言葉に最後の日にかけられた言葉を思い出した。

「…そっか」

懐かしいというのは、心が寂しくなったということ。
今年も去年も帰れる時には帰省をしていたけど先生には会いにはいかなかった。
けれど今どうしようもなく会いたいと思った。
思い立ったが吉日。
気付けば、岩鳶に帰ってきていた。
岩鳶高校にまだいるかもわからないのに、放課後に尋ねた学校。
聞こえる部活の声を懐かしみながら、スリッパで校舎を歩く。
たった二年で変わるものなどないのに、凄く懐かしい気がした。

ノックをして開けた美術室の扉。
今日は美術部は休みだったのか、中にいたのは先生一人だった。
振り返った彼は目を瞬かせてからあの頃と変わらぬ笑みを浮かべた。

「遠い国はどうだった?」
「見知らぬものばかりで、毎日必死でした。けど、楽しいです」
「それはいいことだ」

座る?と椅子を指差した彼は「出せるものはないけどね」と呟き手にしていた筆をおいた。

「びっくりしたよ、急に訪ねてくるから」
「ふと、懐かしくなって」
「それなら、帰ってきて正解だ」

先生は変わらない。
穏やかで、優しい雰囲気を纏って。

「先生、俺きっとずっと…先生に片思いしていたと思うんです」
「え?」
「久々にお顔を拝見して、思いました」

驚いた顔をした先生は視線を彷徨わせてから「過去形?」と首を傾げた。

「進行形だったらどうするんですか?」
「……うーん、そうだな。俺と心中する覚悟はある?」
「心中…?」

その覚悟があるなら、君のそれを向き合おう。
なんて、先生は真っ直ぐ俺を見つめていた。

「……今はないです。まだ、見たいものがたくさんあるんです」
「それならきっと、その感情は過去のものだね。けど、ありがとう」

その気持ちは嬉しいよ、と先生は微笑んだ。
その後ろに先生の絵があることに今初めて気づいた。
この窓から見える桜の咲いたプールの絵。

「それ、」
「いつだったか君たちが用意した桜のプール。ふと、思い出してね。桜の季節にはまだ早いけれど記憶を頼りに描いてみた」
「…やっぱり懐かしいな」

その絵完成したら譲ってくれますか、なんて無茶なことを言えば彼は君の元にあるほうがいいかもしれないと答えた。

「次、懐かしくなった時までここで待ってるよ。この絵と共に」
「はい、また来ます」

そういえば、と口を開く。

「先生はどうして絵を?」
「好きだからだよ。絵が好きで、絵を教えるバイトをしていた。そこから、」
「俺と、同じですね」

そうかもしれないと彼は答えて、君は先生に向いていると微笑む。

「優しくて、人に好かれる。子供の目線になって話をできる」
「…なんで、」
「俺は、君と心中をしてもよかった」

立ち上がった先生は俺の頭を撫でた。

「なんてね」
「先生、」





忘れ去られたプールに命が宿った。
その日から、目をひく少年がいた。
名前は橘真琴。
名前の通り真っ直ぐな少年だった。
授業を受ける姿勢も水泳に向き合う姿も真っ直ぐで。
それにとても、惹かれたのだった。

「先生、それってっ!」
「さぁ、そろそろ下校時刻だ。実家へ?それとも東京に?」
「今日は東京に。ただ、先生に会うために来たので」

あぁ嬉しいことを言ってくれる。
顔が緩みそうになるのを隠すように彼に背を向けた。

「先生、」
「うん?」
「…また、来てもいいですか」

桜のプールで水泳部の面々と見知らぬ少年が笑っていた。
その姿を見て、その笑顔を見て、自分の感情に気付いた。
それを忘れられず絵を描いているんだから、愚かなものだ。
叶わぬとわかっているのに、それでも彼の言葉に期待していた。

「いつでも帰ってきたらいいよ」
「ありがとうございます、また来ます」
「次は、心中しようか?」

彼の方を見て微笑む。
それを見た橘は少しだけ頬を染めて微笑んだ。

「その時は、どこか遠い国で」
「そうだね」

来ることはない未来だろう。
もしくはどこか分岐が違えば、訪れた未来だったのかもしれない。

「今度はハル達も一緒に、遊びに来ますね」
「あぁ、待ってるよ。いってらっしゃい」





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