「正チャンってお姉さんいるんだっけ」
「なんですか急に。今それ必要ですか」
正チャンは心底うんざりといった表情でプログラミングの手を止めた。前期発表の前日、今は眠気をエナドリで気づかないようにして最後の調整をする……このラボは修羅場というやつの最中だった。そんな中なんやかんやで僕をみてくれる友人はお人よしに違いない。彼は最後の最後まで別に動作に支障のないバグと戦っていた。
「僕にも姉が居たんだよね、今はもう居ないけど」
「それは……お亡くなりになったんですか」
彼は眼鏡越しに瞳をちょっとだけ大きくさせて僕はそれがなんだか面白くなかった。どうしてかは自分でもよくわからないけど、表情には現れない程度のモヤツキがあった。
「うーん、それはちょっと違うな」
なくなったという表現より無くなったと言ったほうがきっと正しい。ロストしてしまった観測点。いつか見たかもしれない夢の切れ端。あの人はきっと僕の世界のバグだった。
「正チャンはパラレルワールドって信じる?」
いくつもの数字を当てはめた演算装置、数えきれないパターンを試した もしもの世界。これを人はパラレルワールドと呼んだ。あくまでもしもの世界だったそれは、本当に存在しているものと定義された。そして、その日僕はそれを全部見ることが許された。許されたというにもおかしいか、僕はあの日確かに神様になったんだから!
テレビをザッピングするようにしてさまざまな別の世界をのぞく、なんてインスタントな使い方はもうほとんどできないんだけど、この力を手に入れた一番最初のわずかな期間にそういったことができたのは確かだった。恐らくそれは他の世界から知識を得ようとか全く思っていないお試し期間だったからなんだろう。ざっと目を通した世界はどれも少しずつ違っていたけれど基本的な進化は同じで、大きく外れた世界はもうそれだけで未来から除外されていた。とりあえず適当な世界に僕は手を伸ばしてみる。もし失敗したとしても、もともと失敗が決定している世界なら何をしたって怖くないから。
そんな行き止まりの世界の一つが、僕が見つけたあの人のいた世界だった。
目を覚まして違和感を感じたのは自分が一人で借りているはずの部屋に女物の服や雑貨、二人分の歯ブラシなんかをみとめてしまった朝のことだった。自分の性格的に女を囲うような性格はしていないし、こんなものを残すような関係性を持ったことなんて一度も無いしこれからも無いだろう。とてつもない嫌悪感と共に感じた違和感は僕の足をその場に縫い付けてしまったために、この世界で一番異なっている部分がすぐ近くにやってきたのに僕は目を離すことが出来なかった。
「なに化かされたみたいな顔してるの? もう講義始まるんだわ。用がないならそこ退いてくんない?」
「あ、ウン」
洗面所に顔を出した女は見覚えがないといえば嘘だったけど、初めて会ったのかと聞かれたらイエスと答えられるそんな印象をその人から受けた。顔は確実に僕と似ていたけど、事実としてこの世界の僕に家族というものは存在していなかった。バタバタとせわしなく朝の支度をするその個体は「ねえ、そこにあるカードケースとって」とこちらを見向きもせずに言い放つ。ブラシで丹念に梳いた同じ色の髪の毛が癖に逆らえずにまた跳ねている。
「……君は僕のお姉さんなわけだ」
「なんか言った?」
「ううん、なんでもないよ名前チャン」
ーーー
「私来週にはこの家出て行くから」
「そうなんだ」
「……興味ないのね」
まあ、僕は二度と君に会わないだろうしね。久しぶりに人と夕飯を囲みながら考えるにはあまりにも薄情な言葉を口には出さずにいつも通りにニッコリと笑った。
名前チャンが存在した世界はそれ以外に大した変化もない何一つ取るに足りない世界だった。それを1日で理解した僕はそれ以降その世界に介入することはなかった。本格的に世界を僕好みにするために動き出した頃には既に自分が手を下した世界のどれかだろうと完全に忘れ去っていた。もともと僕には関係のない世界の人だったし、いちいち摘んだ野原に咲く無数の花のことなんて誰も覚えてはいないだろう。僕の邪魔をする存在であれば、もう少し記憶に残っていたのかもしれない。
自分でも忘れ去っていた世界を見つけたのは本当に偶然だった。ある組織のトップが、不運にも殺された。僕はその影響が他の世界ではどう現れたのかが気になってね、適当な世界を選んで反応を見ていたんだよ。ニュースペーパーなんかより生の情報が欲しくてさ。
「そこで貴方は、お姉さんに会ったんですか」
「正チャンは話が早くて助かるよ。一年ぶりぐらいだったから一瞬誰だか分からなかったけどネ」
久々に降り立った世界で向けられた感情には覚えがあった。憎しみとか、怒りとかそういった人のドロドロで、それでいて純粋すぎる部分がむき出しになっている。僕の人生に影のように付きまとってきた友人に僕は安心感を覚えた。
久しぶりに顔を合わせたその人は髪も、服も、顔もどれもぐちゃぐちゃのままその小さな手にナイフを握りしめていた。一瞬誰だったか忘れてたけど、そういえばもう少しマシな顔をした人を見たことがあったような気もする。えっとそうだあれは。記憶をのんびりと思い出している間にも「どうしてあの人を殺したの、私を愛してくれたあの人を、私が必要だといってくれたあの人を、なんでよりによってあんたが奪ったの」なんて呪詛をその人は吐いていたらしいんだけど、それが僕の耳に少しも覚えがなくてあとで笑っちゃったんだよね。純粋で透明な言葉は僕の心になんの爪跡も残さずに音として消えていく。誰かが認識しないとそれは在ったことにならないのは全ての物事に共通していた。
「目の前の彼女がとっても哀れで可哀想でさ。助けてあげようかなって思ったんだよね」
数えるのも無謀なほどに無数に存在する世界の中で、僕の姉である名前チャンが存在していたのはこの世界だけだった。僕に家族がいたら、という仮定の世界を生きていた彼女は一人しか存在しなくて僕が彼女のことを認識しなければ今後もいなかったとされる命だったはずだ。
そもそも、この世界の僕はこの人を自分のどこに配置していたのかさえ分からない。大切だったのか、どうでもよかったのか、血の繋がりのあるだけの他人だったのか。興味がなかったのなら、あの人の大切な人をわざわざ僕だとわかるように殺したのもただの偶然。だとしたら神様ってやつは本当に性格が悪い。
あの人があの世界の僕にとってどれだけの存在だったのかを示すものはもうどこにも見当たらない。だからこそ誰かに話を聞いて欲しかった。もうどのパラレルワールドにも存在しないことになったあの人のことを、僕以外にも覚えてくれる人がいてもいいんじゃないかなって思った。開発者にエラーコードを送信するようなそんな感じとでもいえば彼にはわかりやすいのかな。
「……それで白蘭さんはどうしたんですか」
正チャンの言葉に先を促される。そうやって結果を急くから彼はバグをそのままに残してしまうんじゃないかな。僕は笑顔のまま彼の座っていたデスクに近づいて、彼の向き合っていたちコードをちょこっとだけ打ち直す。別に動作には支障を与えない余計な部分、それでもやっぱり余計なものはないほうが美しいと君も理解してくれるはずだ。
「バグは潰すもの、デショ?」