自分の身をもってして守ってやる必要もないものをその男は必死になって守っていた。ダンゴムシのように丸まって、その腕の中のものを必死に守る体を蹴り上げながら男たちはニヤニヤと笑う。このままでは死んでしまうのに、無駄なことをしているバカな男だ。仮にも医者ならこれだけ嬲られれば命が危ないことがわからないはずがない。路地裏の隅で残りの命の蝋燭を短くしていくばかりのそれを見て思うのだ。
どうせなら、死ぬ気であの子に告白しておけばよかったな。
そんな勇気なんて持ち合わせていない。最期のさいごまで、どこまでも女々しい男だ。
その時、路地裏に差し込んだ一つの影が男の途切れかけた意識をゆり戻した。嫌な予感がして、男は顔を上げる。光を背後にして立つそのシルエットは、あまりにも特徴的で見間違うはずなどなかった。「きちゃダメだ! 逃げろ!」焼けるような肺から絞り出した声で叫ぶ男は最後の力をふり絞って銃を向けた人間たちと、――――の間に飛び出た。
銃口から飛び出した弾丸は音を追うように真っ直ぐと進み、男の背中に衝撃を……ということはなく、男はそのまま慣性に任せて地面に額をぶつけることになった。確かに飛び出たはずの弾は、なぜか男の背後に転がっていた。男には自分の背後を覆うように広がった分厚い霧の姿を見ることはなかった。
「足手まといだと言っているんです」
「――さっさと行きなさい」
・・・
目覚めれば、見覚えのある真っ白な天井だった。気分は最悪。なんなら体調も最悪で、わずかに身をよじり起き上がろうとしたものの、全身が痛みを訴えて行動の全てが制限される。実習でもないのに病院に居座るほどここに愛着があるわけではない。その男は普通の医学生だった。
「起きた?」
「……それはもう、バッチリです……が、
どうしてクロームちゃんがいるの?」
ふと降ってきた声に顔をあげると、そこにはいつもより血の気のない顔をした少女がいた。少女は自分を「クローム・髑髏」と名乗っていた。それが実名ではないことは承知である。医者にとって、患者の名前は識別名に過ぎないでしょうと上司に説き伏せられてしまったら、それ以上無理に介入することはただの学生には荷が重い。
「昨日、私といる時に路地から飛び出てきた自転車にはねられたの」
「え、撥ねられたの? ……いや、ありえる……僕、運動音痴だし、それに……」
「……なにも覚えてない?」
クロームは覗き込むようにして顔をぐっとその男に近づけた。「記憶処理」がきちんと行われているのかどうか確かめるための行為とはつゆ知らず、男は血流が一気に弁の間を通っていくのを感じた。この時男はひた隠しにできていると思っていた自分の下心と向き合うしかなかった。綺麗で大きな瞳をもつ少女のそれには自分しか映っていないというのはなかなか心臓に悪いのだ、と。
男にとっては数十分前のことにも感じられる出来事を思い返す。あれは、そう。授業も実習もなにもない純粋な休日の午後ことだ。使っていたボールペンが壊れていたことを思い出し、買いに行くかと重い腰を上げた男は自分の行動に賞賛の拍手を送った。平日だからか人もまばらな商店街の一角に、高校の制服姿のクロームを見つけたのだ。密かに、(ええ、それはもう密かにと本人は思っている)彼女に想いを寄せていた男は彼女に声をかけた。
「クロームちゃん奇遇だね。買い物かな?」
「え、あの……! お、お世話になっている人にプレゼントを買おうと、思って……」
「……なるほど……」
男の心はぽっきりと軽快な音を立てて折れた。店の外観からして、その相手はおそらくきっと男性なのだろう。最近の高校生はこんな大人っぽい店のものが似合うのか、それなら彼女が惹かれるのも無理はない。幸せになってくれれば、男として思うことはなかった。その場からも恋からも立ち去ろうとした男を、クロームの声が止めた。
「選ぶの、付き合ってほしい……あなたの選ぶものだったら、きっと喜んでもらえる」
そうして、男のアドバイスにより選ばれたプレゼントは男にとってまさに敵に送る塩であった。その塩が綺麗にラッピングされた袋を持ち、男は店から少し離れたカフェテラスで項垂れているのも仕方がない。クロームといえば、着信があって少し離れたところで電話を受けている最中だ。その電話の相手が、このプレゼントの相手なのかい。そう思ったところまでは、覚えている。
その先を思い出そうとすると靄がかかったみたいに頭がぼうっとしてしまう。これは自己防衛本能だろうか?
──そう、いえば。男は、同じようにぼんやりとしていた夢の輪郭をポツリ、ポツリと語り出した。
「……変な夢を見たんだ」男の言葉にクロームは瞳をパチリとさせる。星でも溢れそうだな、と男は思った。
「僕が……情けないことに暴漢にボコボコにされて、そこに君が現れて僕を守ろうとするんだ。君を守りたいと思った心は本物のはずなのに、結局僕は逃げるんだよ、どうせ夢の中の話なんだから……」
死ぬことがない夢の中でなら、クロームを守ることだって出来たはずだ。男がそう言いかけた時、クロームが半ば遮るように先に口を開いた。
「あの、なんの話かわからない……けど、あなたが死んでいたら私、きっともっと悲しかった……と思う」
死んでいたと仮定して話し出すクロームに、男は君の認識では僕は夢でも死ぬのね……となんともいえない気持ちになるのも仕方がない。気分と共に視線が落ちて、男の視界には管に繋がれた手がぼんやりと映る。自分の身だってまともに守れない人間に何ができるというのだろう。それでも男は、医者を目指す端くれとして人を助けることができる人間になりたいと小さじ一杯程度の決意を胸に秘めていた。
「君に守られるほど“彼女”は弱い存在ではありませんよ」
布団の上に言葉が落ちたような気がした。あるいは、聞き間違えだったのかもしれない。それでもどこか思い当たるような節があり、男は視線を彼女へとやった。
「……なんか、いま…………」
どこかで聞いたような声が聞こえたような気がした。だが、この部屋にいるのは目の前の少女と自分だけだ。
「守るとか、守られるとかそういう話はもういいの。私は大切な人を守りたいし、大切な人の隣で立っていたい。けど、あなたはあの人たちとは違う……きっと、それでいいんだと思う」
病室の窓から差し込むオレンジの光が、少女の顔を強く照らし、いつもより強く陰影が浮かび上がっていた。男はそんな顔をしている彼女を見たのは初めてではない、ある日病室から抜け出した横顔とよく似ていた。男はそれを止められなかった。強く前を見る視線に射止められたのは男の方だったのだから。
「クロームぢゃん……」
「? 泣かれるのは困る……そうだ、これ」
「袋は汚くなったけど、あげる」綺麗な包装に相反するように皺の入った袋は、見覚えのあるものだった。男の腹の上に置かれたそれを、そっと触ってみる。彼女が誰かのために選んだハンカチが、やあと喋った気がした。
「クロームちゃんから……プレゼント…………?」
「いつも病院でお世話になっているから」ポツリと彼女が言葉をこぼす。
「ってあれ僕のことだったの!? えっ僕自分に嫉妬していたってこと? なにそれめちゃくちゃ恥ずかしいやつじゃん」
「嫉妬?」嫉妬とは、自分の知っている嫉妬で合っている? そういった意味を含んだ声に気づかないまま男は赤くなった顔で答えた。
「いやなんでもない! その、ありがとうねクロームちゃん。大切にするよ、絶対大切にする」
「それより、お医者さんは自分の身体を大切にして」
「……おっしゃる通りでございます!」
最後まで男は頭があがらなかった。
復活祭・9にて無配にしたクローム髑髏の夢小説です…。