「約束通り一人で来るなんて馬鹿じゃないのー?」
げしと横たわる体を蹴ると鈍い呻きが上がった。今は使われてない埃っぽい倉庫には光が差すような窓もなく、誰かが偶然そこから中を見ると言う事もない。そもそもこんな倉庫には誰も近づかないか。嫌に冷静な脳がそう素早く理解したと同時に絶望感に襲われた。頭を強く殴られ叩きつけられた体は酷く重い、僅かに動く眼球で自分の辺りを見れば顔の近くでお香のようなものが炊かれていた。地下街のそういう店では商品に逃げられないようにと体の自由を奪う香があるらしいと言うのは聞いたことがある。力の入らない体、拘束させられた腕。逃げられる訳なかった。
ファーストネームは数か月前から極一部の人々にぞんざいな扱いを受けていた。全く身に覚えのない理不尽な暴言に彼女は自分が無条件に嫌われているのだと思っていた。しかしある日彼女は気付いてしまった。こういうことになったのは、自分がベルトルトと一緒に行動することが多くなった頃と重なる事に。
(恋って、こわいなぁ。)
別室のミーナら曰く、自分がベルトルさんと呼ぶ人物は柔らかい雰囲気を持った好成績で背が高い青年なので女子に人気なのだという。けれど肝心の人物が鈍感なのとある時期からファーストネームと行動を共にすることが多くなり、嫉妬の末に暴言を吐くようになった―――そう考察したファーストネームは馬鹿馬鹿しいと最初は鼻で笑った。
(私があの人を好いていたとしても、あの人が私に振り向くわけないのに。)
だから、今回暴言を吐いてきた女が謝りたいから此処に来いと言った時、笑顔で許して仲直りしようと思っていたのに。
カツカツ。聞きなれた靴の音が静寂を破る。毎回気色の悪い下心の見え見えの視線が突き刺さるあの授業でよく耳にする音だ。そう気付いた時には既に扉が押し開けられた。逆光の中でも確かに見たシルエット。零れ落ちた涙は、頬を伝って床に小さなシミを作った。
「良い眺めだねえファミリーネームくん。」
教授はにひるとした笑みを転がされたファーストネームに向けた。怯える様なその視線に加虐心が煽られる。ああ、これからこの若い少女を抱くのだと思うとそれだけで気分が高揚した。そんな気分を害すように背中に視線を送る女がいた。早くしろと言わんばかりのそれに舌打ちを一つ零す。胸元のポケットから小さな麻袋を取り出す。じゃらりと音を鳴らすそれを見てファーストネームは随分と安く売られたものだと心の中で自嘲した。
(憎い私まで手引きしてお金貰って……って貴方たちにはイイコト尽くめなのね。)
女はそれを受け取ると此方を嘲ったあと踵を返し、部屋を出て行った。
「5年前と変わらず君は可愛いねぇ。怖がらなくてもいいファーストネーム……ふふふ。」
男の手が伸び、ゆっくりと体を覆う。破かれるシャツ、その隙間から這うようにして指先が素肌に触れる。首筋に熱い吐息と共に強く吸い付かれる。
気持ち悪い、きもちわるい。今にも胃の中の僅かな液体を吐いてしまいそうになる。生理的に浮き上がる涙が乾いた頬を伝った。
「ねえ。なにしてるの。」
忽然と響いた声。
買収した生徒を外に配置したため安心しきった男の胸中が全くの予想外の声に酷く動揺した。声にならない声を喉の奥から出しながら、男は振り返ると、そこには長身の男が立っていた。
眼光だけで刺殺できそうな程の表情を浮かべたベルトルト。その姿を見たとき、ファーストネームは大粒の涙をこぼしながら泣きじゃぐった。
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