疵をなぞる


「すみません、大変助かりました」
「いや、俺たちの方こそ助かった」

 丁度吹雪いてきそうだったから凌げる場所を探していたと告げると、遠慮なく泊まってください、と苗字名前と名乗った女はくったくの無い笑みを浮かべた。そのままカメラを動かすように俺の頭の先からつま先まで視線を動かすので、なんとなく座りが悪くなった俺は目ぶかく帽子をかぶり直した。
 一通りの挨拶を済ませた後、腰の抜けた彼女が案内したのは羆を殺した現場からしばらく下った場所にひっそりと佇む山小屋だ。前方は華やかな小樽に面し、背後には熊の素敵なおうち。嫌すぎる。彼女はうるさいのが苦手らしく、滅多なことでは人が来ないことが気に入ってここを狙って買ったらしい。しかしそうすると目の前の俺たちが来たのは幸運だったに違いない。

「出来たぞ、羆のオハウだ」
「ありがとう、アシリパさん」
「羆の解体大変だったでしょ、ありがとうございます」
「この位気にするな。さぁ食べよう」

 本来は家人がもてなさなければいけないと彼女は言ったが、立てないばかりか今夜の主役である羆の調理などしたことが無かった。代わりに竈で調理をしていたアシリパさんは全く気にしていないようでむしろ彼女の腰を労わっていたので本当にいいこだなあと感心する。
 先ほどまでアシリパさんが立っていた土間からは香草で煮られた肉の匂いが広がって来ており縮こまっていた胃を刺激するのには十分すぎるぐらいだった。立ち上がって重い鍋を持ち上げて居間に持っていけば、苗字は申し訳なさそうにしていた。これぐらいどうってことは無いが、なんども迷惑をかけているという自責の念がそういう顔を彼女にさせるのだろう。一人で生きていたら頼ることに億劫になってしまうのは、よく分かる。
 よそうぐらいはさせてくださいと言った女の声を聞き入れてしまったのはそう言う理由だった。体温とは別の温かさを与えられた肉は、今度は他者へ温かさを与える存在へと姿を変えていく。それをぼんやりと目で追っていると情けないことにグゥと腹が鳴った。


 手際よく巻きつけられた包帯をぼんやり見つめていると「痛かったですか?」と女が手を止めた。全くそんなことはなく、逆にその処置の正確さに驚いていた所だ。
 ゆっくりと食事を済ませた後、風呂がわりにとお湯につけた手ぬぐいで体を拭っていると苗字がひどく狼狽えたのが目に入ってしまった。その反応は今までだって何度だって体験してきたことで今更なんの感情も抱かない。ただ年頃の女に見せるには少しかわいそうなことをしたかもしれない。こんな傷、目にするのだって恐ろしいだろうに──
「へっっったくそな縫合……」「え?」
 思わず聞き返してしまった声が情けなかった。そう言う反応は初めてだ。
 憤慨する女の手によって軽く凍傷を負っていた箇所には軟膏が塗らた。すぐに治るからと放置しがちだった傷口には適切な処置が施され、丁寧に包帯が巻かれている。軍医が戦場で慌ただしく処置するそれとは違う、清潔で細やかな処置にもしかして彼女は医者をしているのではないかと気が付いた。女の医者は滅多にいないが、居ない訳ではない。そういえば肩を貸したときツンとした消毒液の匂いがした気がする。

「杉元さん?」
「いや、なんかすまないな。寝床だけじゃなく手当まで至れり尽くせりと言うか」
「命を救われたお返しみたいなものです。これじゃあまだまだ借りを返せたとは言えませんよ」

 女はすでに眠りについたアシリパさんの方を向いた。布団の中でスヤスヤと眠る彼女の顔をみる目はとても優しくて蝋燭のあかりにゆらゆらと揺れる。ついついその目を見すぎてしまったのか、彼女は一瞬だけ目を泳がしてから「あはは……」と声を漏らした。例によって俺も何だかこそばゆくなってしまって「医者なんだね」と無理やりに話題を引き戻そうとする。

「医者がまたなんでこんな山に住んでいるんだ?」
「春先に薬草が取れるからですね。冬場は乾燥させた薬草を乳鉢やら薬研やらで精製して薬にしています。外科も内科もやるのですが……本来は薬学を学んでおりまして」
「随分と勉強熱心なんだな。喋り方といいきっとお里は帝都の方だろう?」
「ええ、よくお分かりで。もともと帝都の方で勉強してました。杉元さんも本土の方でしょう、それがなんでアイヌの子とご一緒に?」

 不思議に思われるのは目に見えていたがこれほど直球に言われるとどう返していいのかと悩んでしまう。まさかこの医者も目の前の男が人の皮を剥ぐために旅をしているとは思わないだろう。なんてったって女は命を守る普通の町医者なのだろう。下手に濁して外部に俺たちがいたことを言われるのも不味い。関係性を疑われて迷惑をかけることにもなりかねないのだ。隙間、風が大きく炎を揺らし、女の顔に陰影を落とした。

「杉元さん……あなたもしかして……山で迷子になっちゃったんですか?」

 ちょっとずれてるなこの女。
 もういいやとついでにおかしな刺青を入れた患者はいなかったかと聞けば、うちはカタギの人しか見ませんとサッパリとした答えが返ってくる。どっと疲れてしまった俺はもう寝ることにした。苗字は片付けだけしてから寝ますね、と言って土間の方に行ってしまった。それを見届けるかどうかの所で瞼がゆるゆると降りてきて気づいた時には瞼の裏を見つめていた。
 雪が戸を叩く。ミシミシと家が軋むのを女だけが聞いていた。



 音は止んでいた。日は厚い雲の中に陰ってしまっているが、これなら雪目になることもなく山を降りれそうだった。あとは教わった山道を降るだけだから大した距離ではない。刺青人皮を追うためにも急がなければ。襟巻きを巻き直して朝の澄んだ空気を吸い込む横でアシリパさんが大きな欠伸をしていた。おはよぉ。
 山小屋にいる間、どれほど恩を感じているのか当人ではないから測れないものの、苗字は俺たちが出発するまでこれでもかと礼を尽くしてくれた。朝餉の用意は勿論、外れかけていた釦すら直っていたのは少々驚いてしまった。「命を救ってくれたんです。なんでも言ってくださいね」なんて言ってはいるが助けられたからという恩よりも、助けたいという願いが根本にある女なんだろう。梅ちゃんの目の治療だって、頼んだらしてくれるような気がする。そんな高度な治療が町医者にできるはずもないのに。ほんの少しだけでも期待してしまった自分が可笑しかった。

「世話になったな、ありがとう苗字。これよかったら貰ってくれ。昨日の熊胆だ」
「これは……これ乾燥させれば薬になるんですよ、いいんですか貰ってしまって」
「ああ、路銀にするつもりだったが、役に立つなら私も嬉しい」
「アシリパさんがやるなら文句はねえよ、受け取ってくれ」
「……ちょっと待っててくださいね」

 送り出すために家の外まで出てきた苗字はそのまま引き返した。しばらくして奥の方から出てきた彼女の手には茶封筒が握られていて、もう片方の手には巾着が握られていた。

「少しだけ色をつけときました、貰ってくださいな。あとこれ、少量ですが軟膏や痛み止めをいれておきました」
「……金をよこせとは言ってないぜ」
「あって困るもンじゃないでしょう。胆嚢買いつけに行く手間が省けたようなものですからお気になさらずに。どうせ仕舞い込んでた汚い金です」

 確かに茶封筒は汚れていた。しばらく触っていなかったのか、放置していたのか煤けている。パラパラと灰がかかっているのも見るに、本当に手をつけていない金のようだ。医者が言う汚い金なんていやな想像を掻き立てる要素でしかないが、俺たちがこれを貰って不利益が降りかかることはない。

「代わりにと言ってはなんだけど、怪我や病気に気をつけてくださいね」
「言われているぞ杉元」
「俺は不死身だから、大丈夫さ」

 最後までこちらの身を案じていた女の視線を背中に浴びながら俺たちは下山した。その足で毛皮を売って、大分暖かくなった懐をぽんぽんと叩きながら健康にはちょっと気をつけようかな、なんて俺らしくないことを考えていた。



 慎重に戸を閉めた。小屋の中は囲炉裏の火によって空気が乾きピリピリと頬を刺激する。それだけが理由じゃないことは私が一番よくわかっていて、作っていた笑顔が次第に剥がれ落ちて残ったのは感情を削ぎ落としたようないつもの顔だった。緊張を悟られないように気取られないようにするのには苦労した。何より自分の几帳面さにこれほど救われたことはない。戸締りって大事だなぁ。
 白衣を羽織り部屋の奥にある戸棚──アシリパさんが寝ていたあたり──に手をかける。たいして力もいれずとも音を立てて動いたそこには大人が一人通れるぐらいの穴がぽっかりと姿を現した。壁と壁の間に作った梯子に足をかけ、それがミシミシときしむ度に天井が近づいてきた。
 医者という生き物は嘘が苦手だが、あえて隠して言わないことは大得意なのだ。

「通報されちゃたまったもンじゃないからな……」

 阿片を精製している場所なんて、誰に見せられようか。