雪は月になれない
「名前ちゃんもう寝てる?」
囁くような声に気づかないふりをするのは簡単だ。おそらく、どうでもいい事なんだろうなと邪推しながらもぞもぞと暖かくなりはじめた布団からでた。仮眠室の襖を開くと驚いた顔をした白石と視線がかち合う。呼んだくせに、出てこないと思っていたらしい。
「まだ起きてますけど」
なんですかという意味を滲ませながら欠伸を一つ噛み殺す。居間の中心で囲炉裏を囲んでいる彼はちょんちょんと手をこまねいた。ちょっと考えて彼の隣に座る。白石は普段煩い口を閉じて囲炉裏の炭を突くばかりで、母親に学校のプリントを見せない子供みたいだ。雪は音を吸収するのもあって時折思い出したように炭の爆ぜる音だけが鼓膜を震わせる。静かな夜はやがて「ねぇ見てみて。今日のお月様まん丸ぅ」と終わりを告げた。
硝子ごしに見える月は雲に遮られることなく満点の月明かりを放つ。冬の澄んだ空気の中ひとり置いてかれてしまった月をぼんやり見上げていても私には得がない。やっぱり、どうでもいいことじゃないか。
「そうですね、おやすみなさい」
「もう名前ちゃんったら! たかが月でも酒飲む口実にはなるだろ?」
「あー……そういうことね」
彼の背後の棚の中から仕舞っておいたはずの徳利が出てきてはぁと溜息をついた。酒蔵の主人を治療した際に頂いたものでとても美味しい日本酒だった。酒を呑む習慣がないために余りに余っていた酒を何時の間にか見つけたらしい。一人で呑むなりすればいいのに、わざわざ私を呼ぶあたり罪悪感がほんの少しあったんだろうと検討をつけた。なんだか憎むに憎めない。そういうとこだぞ白石。
「俺、訳あって日本全国各地回ったんだけどね」
ゆっくり回りだした口から微かに酒の匂いのする息を吐き出した。反対の手にはつまみにと勝手に持ち出した鮭とばを持っている。白石から徳利を受け取りつつ、どこから見つけてくるんだと眉を寄せた。とくとく、お猪口を満たす酒にはまあるい月が浮かんでいた。
「月はどこいってもおんなじに見えるんだよね」
茨城でも網走でも……エトセトラ。指折り数えながら示すそれは彼が今まで収監されてきた、もとい脱獄してきた場所に違いなかった。それを知っているとも言えるはずはなく、ゆっくりとお猪口に口づける。囲炉裏で軽く表面を炙りあげた鮭とばは酒が進んだ。頭の血管が膨張しているのを感じる。
「白石さんはいろんなとこ行ったんですね」
「そうだねえ。名前ちゃんはどっか行ったことある?」
「……うーん、全然ないですね。家の都合でこっちに越して来たぐらいかな」
まあ出不精っぽいしね、と言った白石の興味はもうお酒に移ってるらしくそれ以上深く聞いてくることはなかった。
帝都からこっちへ移って来て以来、家を何日も空けたことすらなかった。行く必要も無かった。小樽はいい街だし、本土との繋がりがあるのも助かっている。基本的な生活をする分には事足りてしまっていた。帝都にいた時にゆっくり空を見たことなんてあっただろうか。思い返してみてもそんな記憶はなく、必死に今に適応しようと足掻いていた気しかしない。新しい世界で新しい生活に適応するのに景色に割く余裕など無かったのだ。
お猪口の中にあった月は無くなっていた。代わりに喉を焼く柔らかな酔いが体を包む。疲れが溜まっていたのか少量でも酔いが回るのが早いらしい。酔った状態の人間というのは本人の意思に関わらず柔らかなところを表に出してしまうものだと私はよくよく知っていた。気取られないように、悟られないように、余計なことを口走る前に──寝るに限る。今度こそ立ち上がって仮眠室の襖に手を掛けた。
「寝ちゃうの。おやすみ」
「おやすみなさい」
白石は頭が回るから私が彼と引いた薄い線に気づいたかもしれない。このままだと、私は弱い人間になってしまいそうだった。彼みたいに誰かを頼ることができる人間になりそうだった。人に優しくできるのは、優しくされることを受け入れられる人だと思う。私は……私は、受け入れられない側にいた。
ここにいるのはただの生にしがみついた亡霊にすぎない。
現れたのも突然だったし、消えるのも突然なのは予想も理解もしていた。ただ、起こりうることを想像はできてもそれを理解するだけのメモリが足りていなかったらしい。
その日は少し遠くの家で診療をしていた。妊婦の患者だったためこちらから赴かざるを得なかったのだ。遅くなるから適当に済ましておいてくださいと伝えて診療所を出た時、白石はわかったといつものように屁で返事をしたので私は振り返ることなく強めに扉を閉めたのを覚えている。
帰ってくれば白石が寝ているだろうと思って静かに扉を開けたけれど、診療所の奥の部屋からは人の気配が全く感じられなかった。ぼんやりと部屋の中を見回して彼の住んでいた痕跡が全くないことに気づいた。立つ鳥跡を濁さず、というが鳥というより白石のことを地域猫か何かだと思っている節があった。餌をやれば付いてくるし暫く厄介になったら新しい場所へゆく。
これから会うことはないだろうが、きっとどこかで元気にしているだろう。その予言にも似た確信が思考を満たす時、私の心も満ち足りたような心地だった。
窓越しに見上げた月はまだ丸みを帯びていて昨日と殆ど同じ顔を見せていた。