鯉登とおやつ

鯉登少尉の部屋を訪れる時はきちんとノックをしろよ、必ずだぞ。そう言われていたはずの新兵が言いつけを守らず旭川からの伝言を届けに犠牲になった。無茶しやがって……。
 軍の規範を守らなかったための折檻だと思われてしまうが、鯉登が部下にその程度で自慢の太刀筋を奮ったわけではない。事実、部屋から出てきた兵士は憔悴しきってはいたが傷の一つも受けていなかった。ただ、彼の機関銃のように繰り出される鶴見中尉への甘いような、ないような、凄いような文句と、愛犬への飼い主馬鹿な惚気をひたすら罪悪感のために聞き役に徹してしまっただけなのだ。どこかの鼻の低い軍曹のように聞き流す術を持っていればと後悔してももう遅かった。


 鯉登は愛犬家だ。実家の方でも立派な血統書付きの土佐犬を可愛がっていた。ポチと名付けることになる白いアイヌ犬を拾ってきたのも彼が犬を愛している故だろう。まだ小さかった白い犬をダブルコートの懐にいれて持ち帰ってきたのは2ヶ月ほど前のことだ。
 第七師団に犬を養う余裕はない。ただでさえ肩身の狭い立場である彼らが犬を飼う事など白い目で見られることは今日の夕餉を考えるよりも容易いことだ。とある特徴的な黒子の上等兵は鯉登がポチを拾ってきたのを見た時、「今晩は犬鍋にするんですか?食べるとこ少なそうですねーー」などと冗談半分で言い罵声を浴びていた。
「鶴見中尉どん、自分が面倒を見ますからどうか置かせてください」
 雪の中から見上げてくる黒豆のようなつぶらな瞳に、助けられるのは俺だけだ──そう感じたのは鶴見以来だった。その内容を伝えた月島はめんどくさいという言葉をひた隠しにし平静を装った。
 鶴見は手を顎にあてたまま、ポチの目を見つめる。やがて「狂犬病になったら殺すからね」とだけ言った。コートの中の仔犬はクゥーンと弱く返事をした。

 大広間の時計は昼を指している。窓から入るやわらかな光が指針に反射していた。聞き慣れた足音を感じ取るとポチは頭を撫でていた二等兵の手からするりと抜けて大広間の扉の前で主人を待った。その一連の動作を見た二等兵は誰が近づいているのか察したのだろう。足早に別の扉から大広間を後にした。恐ろしい嫉妬を受けるのは御免こうむりたい。
「ポチーーッ! いい子にしちょったか? あれどこじゃ?」
 蹴破らんばかりに扉を開けた鯉登を咎める副官は今はいなかった。ポチは元気よくひとつ吠えれば彼は足元にその姿を見つけてにっこりと形容されるべき笑みを浮かべ屈み込んだ。
「ほれ、今日のおやつは薩摩芋だ」
 つい最近母が実家から贈ってきたのだ。鯉登一人だけというのに相当の量が入っていたのは彼が手紙にポチのことをしたためただけが理由ではないだろう。いつでも母親というものは子供に甘いものだった。
「まて──よし、いいぞ」ポチは鯉登の手を汚さないように丁寧にそれを口にした。優しい甘みが喉を通るとぶんぶんと尻尾を振ったのを見て鯉登がよしよしと堪らず頭を撫でた。訓練に執務にと忙しい鯉登が唯一愛犬との時間を作れるのは昼食後の僅かばかり。ポチもそれを理解しているのかこの時間は鯉登の側を少しも離れなかった。命を救って以来、日が経つごとに忠犬として申し分なく成長している仔犬にやはりあの日の判断は間違って無かったと自分自身を褒め称えた。
 もう少し手が掛かっても可愛いと思えるほどにポチは聞き分けがよかった。躾もまともにしてないというのも決して鯉登が放任主義という訳ではなく必要が無かったからだった。まるで人間の言葉を理解しているようだった。
──そんな訳はないが。
 まるでどこかの物書きの連載小説のようなことが起こっている訳もない。そんなことを少しでも考えたなどしれたら阿片でも吸ってしまったのだと思われるだろう。考えを取り払うように腹を向けたポチをわしゃわしゃ掻き回す。気づけば終わりの時は迫っていて大広間の掛け時計がボーンボーンと音を立てた。


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